第3話 豊岡の警察署にて

 高田正三警部補は、終戦の年生まれの、「たたき上げ」の警察官であった。

 当年とって50歳。

 定年までまだしばらくあるものの、先はもう、おおむね見えている。


 彼の実家は、お世辞にも豊かではなかったが、高校には進ませてもらい、高3で警察官の採用試験にも合格した。中堅レベル、関西圏なら産近甲龍レベルの私立大学なら十分合格できる学力レベルにはあったが、彼の家には経済的なゆとりはなかった。それから30年以上、彼は兵庫県警の警察官として働いてきた。宮木青年の話は、彼にとっても他人ごとではなかった。一歩間違えたら、自分も彼と同じような状況に陥ったかもしれない。何とか、この青年を助けてやりたいとは思うが、自分一人の責任でどうなるものでもない。


「そういえば、京都の河東君に勧められて読んだな、あの雑誌の記事・・・」

 今から10年ほど前、彼が別の交番に勤めていたとき、旅の途中で道を聞いてきた若者がいた。O大学の鉄道研究会にいるという、京都出身の大学生だった。

 彼は「旅と鉄道」という、鉄道ジャーナル社という鉄道趣味雑誌を発行している出版社が発行している季刊の旅行雑誌を持っていた。何でも、その会に出入りしている鉄道少年の男子中学生から教えられて、たまたまその号を購入したという。

 高田氏は、列車まで時間のあった河東青年としばらく交番で話した。

 彼は京都の公立進学校を出て、1浪の後O大の経済学部に入学し、ちょうどそのとき大学の4回生だった。その後、河東青年はO大を卒業して京都市役所に勤めていたが、彼とは年賀状のやり取りだけでなく、実際に何度か会っていた。というのも、彼の趣味の一つに鉄道を使った旅があって、時々、近県あたりにぶらりと出かけることがあり、そのような雑誌との親和性はもともと高かったからでもある。

 彼と話しているうちにその雑誌を買ってみようと思い立ち、早速近くの本屋に頼んで取寄せた。

 その号には、終戦直後の新宿駅の駅員と戦災孤児たちの話が紹介されていた。


 終戦直後で食べ物どころか住む場所さえもままならなかったあの時代、孤児たちは、駅員たちには迷惑をかけないようにして駅付近の路上で暮らしていた。いさかいもあったが、ほのぼのとした心あふれる交流もあった。ある駅員は、いささか年少の孤児の身元を引受け、就職の世話までしてやったという。

 そんな心温まるエピソードも、紹介されていた。

 出来るならそのくらいしてやればいいのかもしれないが、自分の家では息子たち2人とも大学に行っているし、そもそもこういう若者に出会うたびにそこまでの世話をしていては、キリもない。


 しかし、一体全体、何が彼をそこまで追い込んだのだろうか?


 出前で取寄せた豊岡市の名店のカツ丼を行き倒れて保護した青年に食べさせながら、高田警部補は、自分の執務デスクで考えるともなく考えていた。

 丁度昼飯時だったので、同じカツ丼を注文して、執務デスクで食べた。


「なんか飲み物、いるか? 遠慮せんでもええ。ただし、酒はナシやで」


 食事を終えて落ち着きを見せ始めた宮木青年に、高田氏は尋ねた。

「なんでも、いいです」

 遠慮がちに答える青年に、私服刑事が気を利かせてさらに尋ねた。

「ほな、コォラでエーか?」

 青年は、特に声を発することもなく頷いた。

 まもなく2本の缶コーラが運ばれてきた。

 署内にある自動販売機で購入されたものだった。

 福利厚生を兼ねた自動販売機だから、街中の自販機で買うよりも幾分安い。

 警察官は、そのうちの1本を青年に渡した。


「宮木君、養護施設におった、いうたな。岡山市内にあるよつ葉園ときいたが、そこでホンマに、間違いないネンナ? 誰か、お世話になった先生、今でもおられるか?」

 中年刑事のその質問に、彼はしばらく黙っていた。

 コーラをすすってみたかと思えば、缶を置いて、しばらく考え込んでみたり、また、缶を握って唇につけてみたり、また机に置いたり。さりとて、この場を黙ってやり過ごそうとしていたわけではない。

 彼なりに必死で、よつ葉園にいた頃の職員を思い出そうとしていたのである。


「山崎先生が、最後の担当じゃ、たしか・・・」

 ようやく、彼は、山崎良三児童指導員の名前を、刑事の面前で、述べた。

「山崎先生の下の名前は、なんやった?」

「・・・忘れた、というか、そもそも、わからん・・・」

「そもそもわからん、ゆわれても、なあ・・・」

 両者間に沈黙が支配していたその間に、2本のコーラ缶はその役目を終えた。


 養護施設は、職員が長期間勤める場所ではないことを、高田氏は知っていた。

 だが、その「山崎先生」という人がどんな人か、これだけの情報では男性か女性かさえわからない。その山崎さんという彼もしくは彼女が、その施設に職員として在籍していたとしても、それは今からもう10年も前の話。

 その頃の職員が、どれほど残っているのだろうか?

 しかも彼は、お世話になったはずの職員の正確な名前さえも覚えてもいない。


「その山崎先生いう人は、男の人か、女の人か? で、どのくらいの年の人や?」

「男じゃ。今なら多分、40ぐらいじゃねぇかなぁ・・・」

 これで、相手の最低限のイメージがつかめた。

 とりあえず、電話をかけてみよう。

「さよか、ほな、その山崎先生に、電話をかけてみたるわ。電話番号、覚えとるか?」


 覚えて、ない。青年の答えは、それだけだった。


「じゃあ、ここで待っとって。ああ、吉沢君、彼の話し相手してやってくれるか」

 制服姿の若い警察官に声をかけ、彼は飲み終えたコーラの缶を2つ持って、自動販売機横に寄って後、電話のある自分の執務デスクへと向かった。

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