第5話
宮殿のような建物を背にして、マルセルと僕は露天風呂というには広すぎるプールのような温泉に浸かっていた。近くでは水着姿のおじさんたちがチェスをしている。石畳の上に並ぶサンラウンジャーでは日光浴する人たちが気持ちよさそうに寝そべって、テラスのバーではビールを飲みながら談笑している人達もいる。欧州でも最大級の温泉で、古代ローマの時代から続いているらしい、とマルセルが説明してくれた。昨夜は暗がりの部屋だったのでよく見えなかったが、更衣室でシャツを脱いだ時に均整の取れた体を目の当たりにして動揺してしまった。今はお互いお湯に浸かっているのでなんとか視線を交えて会話をすることができる。
「日本にはたくさん温泉があるんでしょ?」
水中の僕の手を引き上げると、サングラスを外してそっと置いた。
「うん、温泉はいろんなところにあるけど……、なんでサングラスをくれたの?」
「さっきから眩しそうにしてずっと目を伏せてるから。今日はいい天気だね」
指差す先は確かに雲ひとつない快晴で、青空にレモン色の宮殿が映えている。
「そう、だね。いい天気だ」
今朝、というよりは昼に近い時間だったが、目を覚ますとマルセルがコーヒーを淹れていた。カーテンのたなびく向こうに流れる川が、降り注ぐ光を反射してきらめく。まるでもう何カ月もあの部屋で寝起きしていたような気がした。気持ちのいい一日のはじまりだった。
「昨日預かったシャツは今洗濯してるから、帰るころには乾いてるよ」
今日マルセルに借りた服はやっぱり一回りサイズが大きかったけれど、白のシャツは清潔感があって不思議なことにだらしなくは見えなかった。バスルームにあった見たことのないブランドの整髪料で髪をセットしたが、温泉の湿気でもううねってきた。
「ジュンのヘアスタイル、かっこいいね」
「そうかな? でもくせっ毛で上手に扱えないんだ」
「似合ってるよ」
頬の横に垂れた黒髪の細い束をマルセルが指で撫でる。しずくが髪を伝って水面に落ちた。チェスをしているおじさんがちらりとこちらを見た気がした。マルセルは少し困ったような顔で微笑む。どうやらこの街では僕たちが手をつないで歩くようなことは容認されないみたいで、欧州は日本よりも寛容だという思いこみは誤解だと気づく。
温泉を後にして、近くの広場に寄った。この街では国会議事堂などと並んで有名な観光スポットで、歴史に残る英雄たちの像が建ち並んでいる。その中心には大天使ガブリエルの像が天を仰ぐように両手を掲げ、この街の人々を導いているようだった。僕たちはバスに乗ると、川を渡って対岸へと降り立った。ケーブルカーは使わず徒歩で階段を登る。堅牢な石造りの砦、この一帯はかつての王宮だったらしく、今は観光客で賑わっている。
「連れて行きたいところがあるんだ」
マルセルのとっておきの場所を目指し歩きながら、いろんな話をした。大学を卒業したら観光に関する仕事に就いて、この街やこの国の魅力を伝えていきたいということ、農村部にある地元ではワインづくりが盛んなこと、ワイナリーのレストランで出す料理はマルセルのお母さんが作っていて絶品なこと。城の間を縫う小道を抜けると、街を一望できる高台に出た。
「着いたよ」
崖から張り出した大きなバルコニーのような遊歩道では、零れ落ちそうなほど満開の桜並木がそよ風に揺れながらずっと向こうまで続いている。
「すごい……! すごいね!」
本当はなにか気の利いたことを言って、目の前に広がる圧巻の美しさに僕がどれだけ心を打たれているか伝えたかったのだけど、気づいたら何度も「すごい!」を繰り返していた。そんな僕に向けられるマルセルのやわらかな眼差しに、胸の奥を掴まれるようだった。僕たちは歩いた。桜の下を。今度は僕の話をした。大学を卒業してから就いた仕事がうまくいかなくなってきて辞めること、今回の出張は後任者の引き継ぎのためにきたこと、これから先のことが何も決まっていないこと。
「なんだか、ごめん。マルセルはワクワクするような将来の話をしてくれたのに、僕は愚痴っぽくなっちゃったな」
赤レンガの塀に二人肘をついて、眼下を流れる川と二つの街をつなぐ橋を眺める。
「ねえ、ジュン、さっき僕たちが歩いてきた街並みを思い出せる?」
「もちろん。綺麗だったよ、ドナウの真珠と呼ばれるだけあるよね」
王宮の裏側の小道、石畳の両側に瀟洒なレストランやホテルがあった。欧州らしい優雅な雰囲気がこの街の歴史と伝統を象徴しているような気がした。
「でもこの街は何度も破壊されているんだ、この王宮だってそう。再建されたものなんだよ」
ポンポン、と壁を叩く。
「そうだったんだ……」
なんとも言えない恥ずかしさが少しだけ、じわりと体の中に広がった。
「でもそんなことは、ジュンには関係ないと僕は思うんだ。今、二十一世紀にこの城を訪れて美しいと思ったジュンの気持ちが、過去の出来事で汚される必要なんてない。だからこれまでのジュンの人生がどうであれ、未来のジュンがそれを引きずることはないんだよ」
桜の花びらがはらはらと舞う中、マルセルの瞳はまっすぐ僕を捉えていた。
「ありがとう、マルセル」
僕はもうどうあがいたって、マルセルに対する気持ちをごまかすことができないと感じていた。王宮の後ろに隠れ始めた太陽が、川沿いに灯り始めたオレンジ色の光が、目前に迫った明日を突きつけてくるようだ。今、この瞬間がもう少し続いてほしかった。だけど僕は大人で、年下のマルセルはもっと大人だったから、口先だけで保証のない浮ついたことを言いたくなかった。
「僕は明日帰国するけれど、この街で過ごしたことは忘れないと思う」
無言の時間が訪れる。言葉を続けることができない僕はなんとなく街を眺めて、川の上流を視線で辿りながらホテルの方向を確認していた。
「どうしてそんなに寂しそうな顔をして街を見ているの」
舞い落ちる桜の花びらを掴んでマルセルが続ける。
「桜はすぐ散るけれど、僕たちは桜に巡り合うこの時間を愛おしく思っている。刹那と永遠のどちらに価値があるかなんて僕には決められない」
僕の手をとって、掌に花びらをそっと置く。
「これから先のことが何も決まっていないなら、過去にも未来にも縛られる必要なんてない。僕たちがまた会いたいと思うなら、何度でも桜を一緒に見ることができるよ」
時差ボケで重い体を引きずって帰宅した後、シャワーを浴びてベッドに横になると、気づかない間に眠ってしまっていた。時計を見ると、午後三時を過ぎている。今頃あっちは八時を過ぎたころだ。体を起こして玄関に置きっぱなしだったスーツケースを運び込みファスナーを開ける。一番上にたたんであったシャツから愛おしい匂いがした。
ジュンとマルセル teran @tteerraan
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