第4話
店内、という呼び方でいいのだろうか。朽ちそうな壁にはいろんな画風の絵やメッセージが直接描かれていて、額装された絵もかけられている。建物の補強なのか鉄骨の梁がむき出しになっており、クリスマスのような電球の装飾に植物園のような緑、天井には花、デザインも高さも違うさまざまな椅子や机が無造作に、でも統一感を持って配置されている。人気なのか大勢の人で賑わっていて、しかも広いのですぐ迷子になりそうだ。
「酒を取りに行こう」
マルセルに言われるまま後ろをついていく。
「何飲む?」
「どうしようかな」
「パリンカは飲んだ?」
「パリンカ? いや、飲んだことない」
「じゃあ飲んでみなよ」
現地の言葉でササッとオーダーしてくれるとショットグラスに注がれた透明な液体が出てきた。
「じゃあ乾杯!」
グラスを鳴らしてみたものの、どんな酒か想像がつかずおそるおそる口元に近づけて様子を見ていると、マルセルがぐっと一気に飲んだので、真似してみたら喉が焼けるように熱い。味は、そんなに悪くない気がした。
「おお、いい飲みっぷりだね」
マルセルに肩を抱かれて揺さぶられる。嬉しそうだ。
「これは……、地元の酒なの?」
熱を持った喉からなんとか言葉を絞り出す。
「そうだよ、他にも貴腐ワインとかウニクムとかあるけどね」
「初めて飲んだけど、結構おいしかったよ。……ただ、ちょっと強いかな」
小さく咳払いをすると、背中をさすってくれる。
「そうだね、じゃあ次はビールとかにする?」
「……うん、じゃあビールにしようかな」
「わかった、ちょっと待ってて」
カウンターに向かうと、瓶を二本、手に持って戻ってくる。
「こっち」
手を引かれて店の奥に進む。暗い通路にランタンの灯りが煌めき、天井から垂れた植物の影が長く伸びている。屋内なのにトタン屋根で作られた小屋からはミラーボールの光が溢れて、階段を上り躍り出た吹き抜けの回廊からは、階下で踊る人たちが見えた。壁際には背の低い木製の椅子がぞんざいに置かれていて、そこを僕たちの場所にした。
「じゃあ、乾杯!」
瓶のぶつかる音が響く。階段を駆け上がったからか、火照った体に冷えたアルコールが染み渡るのを感じた。近くにあった椅子に腰掛ける。マルセルは階下から聴こえてくる音楽に体を揺らしていた。
「ここ、廃墟バーっていうんだ」
「なるほど、そういうコンセプトか」
「いや、ほんとに廃墟なんだよ、崩れたら営業できなくなる」
「うそでしょ」
「ほんとだって」
そう言われると今にも崩れそうに見えてくるが、たぶん大丈夫だろう。こんなに大勢の人が騒いでもまだ、崩れてない。
「ジュンとエニコやコウキが友達だったなんでびっくりしたよ」
「ああ、まあエニコは昨日初めてあったばかりなんだけどね」
「そうなの?」
「うん、コウキとは日本で同じ大学に通ってたから、その時からの友達」
「そっかあ、……じゃあひょっとしてコウキとジュンって同い年?」
「うん、そうだよ」
「そう考えると、コウキに比べてジュンはすごく若く見えるね」
「そんなことないよ、エルビラも昼間そんなこと言ってたけど」
「もちろんいい意味でだよ、あ、コウキには内緒ね」
またウインクだ。癖なんだろうか。なんだかこっちが気恥ずかしくて顔が熱くなってきた。向かい側で男女が互いにもたれかかって水タバコを吸っている。二人の吐き出した煙が薄暗い照明にたゆたうのを眺めていると、マルセルが口を開いた。
「僕らも水タバコ吸おっか」
横を見ると目が合う。
「待ってて」
ビール瓶を床に置いて軽やかに走っていく。通路に消える後ろ姿を見送ると、体の力が一気に抜けて背後の壁に体重を預けた。自分が酔っている自覚はある。頭の中ではコウキとエニコの会話内容が延々とリピートされていた。
「本当に”そう“なのか?」
ふと口をついて出た言葉に焦るが、音楽でかきけされた。そもそも日本語なので周りの誰にもわからないだろう。正直なところ、朝の散歩中ジョギングをしながら現れた時の、さわやかな笑顔から、いや、その前に嫌な顔ひとつせずピザを部屋に持ってきてくれた時から、なにかが芽生えていた気がする。けれど相手が”そうではない“前提で接していたから平気だった。けれどもしかしたら”そう“かもしれない、と思った途端、堰を切ったように感情が溢れ出す。思考をシャットダウンしたくてパーカーのフードを被ると、今朝と同じ匂いを感じる。その瞬間、右手に冷たい瓶の感触を覚えて見上げると、マルセルの少し心配そうな顔があった。
「どうしたんだい、フードかぶっちゃって。寒い?」
ぐっと瓶をにぎって、左手でフードを掴んで脱いだ。むしろ暑い。
「いや、ぜんぜん寒くないよ。ビール、ありがとう」
「ならいいけど」
隣に腰掛けると、ぐっとビールを呷る。マルセルがゴクゴクと喉を鳴らすたびに、自分の胸が波打つのを感じて、僕もビールを流し込んだ。
「はい、これ」
床に置かれた水タバコのホースを掴んで僕に渡す。
「これ、吸えばいいの?」
マルセルが頷くのを確認して、そっと口に咥えた。想像していたような煙たさはなくて、フルーツのような香りが口の中に広がる。煙を吐き出すとき、向かいに座るカップルの女の子と目が合う。うっすらとくゆる煙の中に、僕とマルセルを交互に見て彼女がニヤリと笑うのが見えた。ホースが僕の手を離れて、マルセルの唇に運ばれるのをじっと眺めているようだった。彼氏らしき男と二人寄り添う彼女には、僕らはどんな関係に見えているんだろう。
「僕、ジュンのことを何も知らないな」
マルセルがまっすぐ前を見ながら言った。
「何の仕事をしてるとか、どんな音楽を聴くとか、何にも知らないんだけど」
大音量の音楽が急にどこか遠くへ行ってしまったように、僕に向けられた言葉だけが鼓膜に響く。僕を覗き込む青い瞳は近くで見るとグレーが混ざっているような気がしたけれど、そっと触れた唇が離れるまで、まぶたを開けることができなかった。
「ジュンのことが好きなんだ」
さっきまでと変わらない姿なのに、もう同じじゃない。
「マルセル、僕は……」
視線を逸らして、自分の中にかすかに残る理性を呼び起こす。
「僕は明後日この街を去るんだよ」
マルセルは少し目を細めて微笑むと、僕を抱きしめた。
「だから今伝えたんだ。明日を一緒に過ごすために」
恐る恐る彼の背中に腕をまわしてみた。シャツの下の体温が少し湿り気を伴って掌に伝わってくる。ここは汚れたガラスの天井越しに月明かりが差し込んでいる、深夜の廃墟バーなのに、アパートメントのあの匂いが鼻腔をすり抜けて、うずうずする気持ちをより強く呼び起こす。淡い期待と予感が混じった香りを確信に変えたくて、首筋に唇を押し付ける。マルセルの体が一瞬震えて、背中の腕がいっそう強く僕の体を抱きしめた。互いの鼓動を感じ合うほどの抱擁のあと、短くキスをして僕たちは人混みを駆け抜け廃墟を後にした。
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