第2話
アパートメントの部屋の壁は天井から床までモスグリーンで、角部屋のそれぞれの窓から差し込む朝の光がヘリンボーンの床に陽だまりをつくっている。
「いい部屋だね」
「そう? ありがとう」
マルセルは自分の口元にマグカップを持っていきながら、もう一方の手で僕にコーヒーを差し出す。礼を言って両手で受け取ると掌にじんわりと熱が伝わってきた。
「パン食べる?」
僕が首を横に振ると、彼は少し眉を上げてパンにかじりついた。僕はコーヒーを一口含んでマグカップに視線を落とす。コーヒーの香りを纏った蒸気が鼻腔を湿らすのを確認して、もう一口含んだ。
「いい匂いだ」
つぶやくと、マルセルがちらりとこちらを見るのがわかった。でも何も言わずまた一口パンをかじる。窓の下にある背の低い木製のキャビネット、その上にガラスの水差しが置かれていて花が生けられている。あの花からなのか、それとも少し開いた窓からカーテンを揺らす風が外の空気を運んできているのか、何かはわからないけれど、いい匂いがコーヒーの香りと混ざって心がうずうずするような、なんとも言えない気持ちを呼び起こしていた。でも嫌いじゃない匂いだ。
「この街にはいつまで居るんだい?」
スマホを操作しながら訊ねてくる。
「帰りのフライトは日曜の朝に取ってる」
「じゃあ自由な時間は今日を含めてあと2日しかないのか、はるばる日本から旅行に来たのに急なスケジュールだね」
窓の外から子どもたちの声が聞こえてきた。言葉はわからないけど楽しそうにはしゃいでいるのはわかる。
「実は欧州には出張で来たんだ。ここに来る前、ウィーンで一週間仕事してて、少しだけ有休を取って足を伸ばしてみたんだよ」
「そういうことか、じゃあ今日は観光だね。行くところの目星はつけてるの?」
「いや、まだ片付けないといけない仕事が残ってて、ホテルの部屋に戻ろうかなって思ってる」
「せっかく来たのにホテルで仕事なんて、ちょっとかわいそうだな」
「まあ、それかどこかのカフェで作業するか……」
スマホでマップを開いて近くのカフェを検索する。地元っぽいカフェの写真をいくつか見るがラップトップを開いて作業するような雰囲気ではなさそうだ。
「……そうだ、僕と一緒に来なよ」
カタン、とマグカップをテーブルに置いてマルセルが言った。
「一緒にって、どこへ?」
「大学だよ、カフェテリアなら電源もあるし」
「部外者なのにいいの?」
「関係ないよ、いろんな人がいるから。もう少ししたら近くのバス停からバスに乗ろう」
マルセルは立ち上がって僕のカップを覗くと、空なのを確認してキッチンに持っていった。
「あ、ごちそうさま、コーヒー。おいしかった」
つい中腰になって言うと、シンクの蛇口を捻りながら顔だけこちらに向けて返事を返してくる。水の音でなんと言ったかはわからなかったが、優しい笑顔だった。
いくつかのバス停を通過して降車すると、すぐ近くにゲートがあった。奥には広大な敷地に立派な建物が点在していて、整えられた芝生や植栽が春の風に吹かれており、手入れの行き届いた公園のようだ。
「ここが大学? すごく広いね」
半歩先を歩くマルセルが肩にかけたバッグを持ち直しながら振り返る。
「いや、ここはいくつかの企業が入居するエリアになっていて、大学はその一部なんだ。ほら、見たことがある会社があるだろ?」
指差す先に、見覚えのあるアメリカやドイツの企業ロゴが掲げられた建物があった。
「僕もここにある企業で少しの間インターンをしたことがあるんだよ」
少しだけ自慢気なマルセルと話しながら、芝生の上で寝転び日光浴をする人たちを横目に歩くと、大学の校舎が見えてきた。街中で見かけるビルは石造りの伝統的な意匠のものが多かったけれど、この建物はガラスのファサードが現代的だ。マルセルの後について中に入ると、目の前に中庭が広がっていた。その周りをぐるっと囲む廊下を進みエレベーターに乗る。到着して廊下を進むと、右手に天井の高いホールのようなカフェテリアがあった。突き当りは全面ガラス張りで、ちょうどエントランスの真上に位置しているようだ。
「ここなら壁を背にして座れるし、外もよく見えて気分がいいよ。僕はいつもこの席に座ってる」
マルセルお気に入りの場所に案内され、促されるままに座る。
「じゃあ僕は授業に行くから」
廊下の方に向かうマルセルに「うん、ありがとう」と返事をして見送る。急に心細くなった。昨日初めて顔を合わせて、今朝なりゆきでコーヒーをごちそうになっただけで、実質数時間も一緒にいなかったのになんだか寂しい。見知らぬ土地の見知らぬ大学に一人いることが一気に現実味を帯びてきたようだ。バックパックからラップトップを取り出す。壁際に電源がないか探していると、コトン、とテーブルに紙のカップを置く音がした。振り返るとマルセルがいる。
「さっきコーヒー飲んだばっかりだと思うけど、一人で作業してると買いに行くのも面倒かなと思って。荷物には気をつけなきゃだめだよ」
しゃがみこんでテーブルの裏を指差す。
「電源はここ」
「あ、ありがとう」
「授業終わったら迎えに来るよ。一緒にランチ食べよう」
僕の肩をポンと叩くと、ドアの向こうに消えていった。
カフェテリアは適度に賑わっていて、聞き慣れない言語のざわめきで集中力が増したのか作業が捗った。外を見ると芝生や建物の向こうを、川の支流が横一直線に流れている。対岸には島が見えた、あれがオーブダ島かな? 島の先には支流の数倍の幅の本流があって、船がゆっくり航走している。見た目はクルーズ船のような感じで、デッキに乗客が並んでいるようだ。
「ジュン」
声の方を向くとマルセルが立っている。その後ろに男女が二人。
「ランチを食べよう。この二人も一緒でいいかな? ジュンのこと話したら会ってみたいって言うから」
金髪でショートヘアの女の子が手を挙げて笑顔を向けてくる。
「はじめまして、私はエルビラ」
「俺はアンドラシュ、よろしく」
眼鏡をかけた大柄な青年が差し出した手を握り返す。マルセルが窓の外の円形の建物を指差した。
「レストランがあるんだ、そこでテイクアウトして外で食べよう。今日は天気がいいから」
三人に連れられ大学の校舎を出る。ジョギングしている人やベンチで読書をしている人もいて、皆がそれぞれここでの時間を自然体で楽しんでいるように見えた。レストランはエリアのほぼ中央に位置していて、ここで勤務する複数の企業の人達の社食のようなもののようだった。社食とはいえブッフェ形式の料理はさまざまな国籍の料理が置いてあり、もちろん郷土料理もあった。このレストランの他にもいくつかレストランやカフェがあるらしい。料理をテイクアウトして敷地の端まで歩き、川の近くまで来ると、あちこちスプレーで落書きされた長い塀の上に登る。やや高さがあるのだが、皆慣れているようでひょいと登っていく。木陰になるところまで移動して四人、川の方を向いて腰を下ろした。
「風が吹いてて気持ちいいね」
隣に座るエルビラが僕に笑いかけた瞬間、彼女の膝に置いてあったサンドイッチの包み紙が宙を待って僕の胸元にピッタリ張り付いた。
「わ! なんてこと、ごめんなさい」
慌てて紙ナプキンを数枚重ねて僕のシャツを拭ってくれるが、ソースのシミは広がるだけで消えない。
「だ、大丈夫大丈夫、気にしないで」
急いでシャツを脱いでTシャツ姿になる。幸いTシャツには届いていないようだった。半袖だと少し肌寒いが、陽射しもあるので耐えられないことはない。
「本当にごめんなさい、ジュン」
眉を八の字に曲げて謝られると、なんだかこちらが気の毒な気持ちになってしまって、少し大げさなくらい笑顔を作って自分のランチを口に運んだ。
「全然問題ないよ、今日は暖かいし。あ、アンドラシュがおすすめしてくれたこれおいしい。食べたことない味だ」
「だろ? 豚の血のソーセージだよ。俺の大好物なんだ」
咀嚼する口の動きが一瞬止まってしまったが、心を無にしてぐっと飲み込む。
「うん、うまいうまい。日本じゃ見かけないから初めて食べたよ」
「そうなのか、日本にソーセージないの?」
マルセルが不思議そうに訊ねる。
「ソーセージはあるんだけど、豚の血のソーセージってのは、いや、どうだろう。僕が知らないだけであるのかもしれない」
「ジュンは日本のどこから来たの?」
訊ねるエルビラが笑顔に戻っていてホッとした。
「東京に住んでるよ。エルビラは日本に来たことある?」
「いいえ、行ったことないの。私この国から出たことないから」
また眉が八の字になったが今度は目が笑っている。表情が豊かだ。
「でも大学を卒業したら外国を旅行しようと話してるの、アンドラシュと」
エルビラの視線を受けたアンドラシュが話を続ける。
「日本に行くのもいいかもしれないな、そしたらジュンを訪ねるから案内してくれよ」
はっはっはと豪快に笑う。僕を挟んで隣のエルビラも「それいいわね」と人差し指を立てて頷いている。ひとしきり東京の話が続いたあとでアンドラシュが思い出したように言う。
「ところでジュンは何をしてる人なんだ? 学生か?」
「いや、学生だったのはもう何年も前で、今は会社員やってるよ」
「ジュンは出張で来てる、ってさっき説明しただろ?」
マルセルがアンドラシュの向こうから顔を出す。
「あれ、ジュンって何歳?」
「二十八歳だよ」
質問したエルビラが「ちょっと待って」と片手で顔を覆って笑い出した。
「私てっきり年下かと思ってた……」
「俺も……」
アンドラシュも珍しいものを見るような顔で僕を見ている。マルセルは特に驚いた様子もなく水を飲んでいる。
「僕たちは皆二十二歳なんだ」
ペットボトルのキャップを締めながらマルセルが教えてくれた。
「さてと、二人とももう授業始まるんじゃないのか」
エルビラとアンドラシュは同時に腕時計を見ると、慌てて塀から飛び降りた。
「ジュン、楽しかったわ。東京に行く時は連絡するから、マルセルに私の連絡先訊いといて」
「俺のもな」
校舎の方に駆けていく二人の後ろ姿を見ながら、いいカップルだなと思った。
「僕は今からバイトに行かないといけないんだけど、ジュンはどうするんだい?」
マルセルの問いに、何も予定を立てていなかったことに気づく。
「そうだな、観光バスにでも乗って街を眺めてみることにするよ」
「じゃあ、これ」
着ていたパーカーを脱ぐと、僕に差し出す。
「二階建ての観光バスは結構風が寒いから、これ着ていきなよ」
「え……、いいの?」
「うん、僕は一度荷物を置きに家に帰るからね、それとそのシャツ」
塀の上に置きっぱなしだった僕のシャツを手に取る。
「洗濯のついでに家で洗っとくから」
「いや、でもさすがに悪いよ」
「気にしないで。大丈夫、ちゃんと返すよ」
笑顔でウインクをすると胸元にソースの付いた白いシャツをささっと畳んで、バッグの中に入れてしまった。リアルでウインクをする人間に初めて会ったけれど、さわやかすぎて嫌な気は全然しなかった。
「そうだ、夜は暇? バイト終わったら連絡するよ」
スマホを取り出し、互いの連絡先を交換した。二人並んでゲートの方に向かい、地下鉄の駅まで送ってくれると観光バス乗り場がある駅の名前も教えてくれた。まったく馴染みのない言語なので助かる。
「じゃあ、また後で。バスツアー楽しんで!」
反対方向の地下鉄に乗り込むマルセルを見送った後、パーカーを頭からかぶって袖を通す。一回りサイズが大きかった。
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