ジュンとマルセル

teran

第1話

 川べりを歩き続けること三十分、カフェやレストランはおろか建物すらなく、歩道をトンネルのように覆う林のせいで水面も見えなくなった。後ろを振り返ると小さくホテルが見える。

(戻ってまたソンゴクウピザ食べるか……)

あのホテルに到着したのは昨日の午後三時頃だった。この一週間、時差ボケで体調は優れず食欲もなかったが、なぜか昨日は腹が減っていて、チェックインするとホテルの庭にあるレストランのテラス席に向かい、遅い昼食を取ることにした。何ひとつ理解できない言語で書かれたメニューの中で、唯一読める単語を見つけて注文してみると、トマトソースの上にコーンとベーコンが敷き詰められ、スライスされたしいたけがトッピングされたピザが出てきた。どのへんがソンゴクウなのかわからなかったのでサーブしてくれたレストランスタッフの青年に訊こうとしたが、ケチをつけていると思われるかもしれないのでやめた。このスタッフはとても愛想がよくて、およそ一人で食べきれない量のピザを部屋に持ち帰っていいか訊ねると、満面の笑みでピザの載った皿を片手に持ち、僕の部屋番号を訊くと前を歩いて部屋まで行き、後をついていった僕に部屋の前で皿を渡すと、またはちきれんばかりの笑顔を向けて去っていった。

(あ、チップとか渡したほうがよかったのかな……?)

ドアを背にして考えたが、この国にチップ制度はおそらく、ない。それでもなんとなく気になってドアを開け、廊下に顔を出すと突き当たりの階段を降りていく彼の後ろ姿が見えた。

 次の日、目が覚めたのは朝七時、値段相応だと思うが寝返りを打つたびにバネそのもの、といったコイルがキーキーと鳴くベッドは寝心地がいいとは言えず、疲労感を残しつつ起床することにした。バスルームのシャワーブースはガラス戸が閉まらず、シャワーを浴び終えたあとは一面水浸しになっていたが、それでもシャワーを浴びると気持ちがすっきりして時差ボケも多少マシになった気がした。そうだ、散歩にでも行こうと着替え、ホテルのメインエントランスとは逆側の小道に足を向けた。湿気を含んだひんやりとした空気が心地良い。木々の匂いも日本とは違う気がする。川に沿って続く道に出るとそのままドナウ川に並行して歩き始めた。昨日タクシーで通過した鎖橋の辺りに比べるとやや対岸までの距離が遠い気がする。とはいえ視界に広がるのは鬱蒼と生い茂る林だけで、これがドナウ川だと言われなければただのうっすら濁った川としか思えない。欧州第二の大河といえども川は川だ。スマホを見るともうすぐ八時になろうとしている。散歩でもしてカフェに入って朝食でも、と思ったが、よく考えれば朝八時からやってる店なんて東京でもチェーン店のカフェか二十四時間営業のファミレスくらいなもので、それが欧州のこの国で、しかも首都とはいえ中心地からややはずれたこの川のほとりにあると考えるのが間違っていた。ホテルに戻るか迷いつつもトボトボと歩いていると、やがて緑のトンネルを抜けて道幅が広くなった。緩やかな坂道を登り切ると遠くに島が見える。あれはマルギット島だろうか。正確には島というより中洲なのだと思うが水面に独立して浮いている、という意味では島でも別にいい気がする。川べり近くの塀に腰掛けて休憩することにした。バッグパックからミネラルウォーターのボトルを取り出して一口飲む。硬水はなんだか喉をうまく通らず、体に合わない。ホテルの部屋に置いてあった無料のものなので文句は言えないけれど。水面に朝陽が反射してきらめいていた。水質はおそらくそんなによくないと思うのだが、この水がドイツやオーストリアから流れてきて、さらにブルガリア、ルーマニアへと流れていくと思うとその流域でどんな人々がどんな生活をしているのか、思いを馳せるには十分ドラマチックだ。水面をかすめた風を頬に受けながら目を細めて川を眺めていると、足音が聞こえてきた。なんとなく音のする方に目をやるとジョギングしている青年が見える。僕と目が合うと見覚えのある満面の笑みを返してきた彼の髪は短く刈られた赤みのないブラウンで、汗が陽射しを反射してキラキラと輝いており、さわやかさを具現化した存在なのではないかと思ったほどだ。

「やあ、おはよう、散歩かい?」

走るのを止めゆっくりと歩いて近づいてくる。僕は川に向けて下ろしていた足をくるりと歩道側に向け直して答えた。

「うん、時差ボケでちょっと早く目が覚めてしまったから、散歩して朝食でも取ろうと思ったんだけど」

彼は少し大げさな感じで鼻を鳴らして笑った。

「この辺りに朝食が取れそうなところがなくて途方にくれてたのかい?」

「そうなんだよ! よくわかったね」

「だって君すごく残念そうに川を眺めてたから」

冗談なのか本気なのかわからないが、そう言って笑うと、彼は親指を後方に向けて

「うちに来る? コーヒーくらいごちそうするけど」

さっき眺めていた島の方を指した。

「え? いいの?」

「もちろんだよ、ホテルの朝食はまだオープンしないだろ?」

「でも、僕は見ず知らずの観光客だし……」

「昨日会ったじゃないか、それにせっかくこの国に来てくれたのに川べりで寂しそうにしてるのなんてなんだか申し訳ないよ」

「別に寂しいわけじゃないけれど……」

「さ、僕の家はあっちだよ、十分も歩けば着くよ」

ニコニコと笑顔を振りまきながら彼が歩き始めたので、僕は慌てて立ち上がると彼の後を追った。

「君の家はマルギット島にあるの?」

川に浮かぶ島を指差しながら訊ねる僕の顔をちらりと見ると、

「いや、違うよ。僕の家はマルギット島にはない。そして君が指差しているあの島はマルギット島じゃなくてオーブダ島だよ」

「オーブダ島?」

「そう、マルギット島はさらに向こう側、市街地に近い方にあるんだ」

「そうなんだ」

てっきりマルギット島だと思っていたがどうやらそうではないらしい。

「君は観光で来たのかい?」

首から下げたタオルで流れる汗を拭きながら彼が訊ねる。香水なのかデオドラントなのかわからないがふんわりと匂いがした。

「うん、欧州には仕事で来たんだけど、少しだけ観光して帰ろうと思ってこの街にきたんだよ。残りをどうやって過ごそうか考えていたところ」

「そうなのか、どこから来たの? ひょっとして日本?」

「そうだよ、日本。東京から来た」

「やっぱり!」

少しだけ目尻の下がった大きな青い目がぎゅっと縮まって笑顔を作った。

「そうだと思ったんだ! ソンゴクウピザを注文してたから」

「ソンゴクウピザを注文したら日本人なの?」

「そうだよ、ソンゴクウは日本の有名なキャラクターだろ?」

「まあ……、そうだね、有名だと思う」

満足気に僕を見ながら、彼は思いついたように手を差し出してきた。

「僕はマルセル、よろしく」

手を握ると、予想したより強い力でしっかりと握り返された。

「僕は、ジュン。よろしく」

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