第26話

26、

 夢を見た経験のある者なら判ることだろうが、夢の中で、これから夢が醒めていくという予感がすることがある。実際にはすでに覚醒が始まっていて、周囲の音や気配が夢の世界に忍び込んでいるのだろう。この時きみは、抗いがたい力で覚醒めざめの世界に引っ張られていた。それは同時に、激烈な痛みがきみを襲う前触れでもあった。

 たとえ予期していたとしても、耐え難いことはある。

 痛みがぶり返した瞬間、きみはあらんかぎりの力で絶叫していた。痛みの支配領域は両手両足と後背部、さらに前胸部に及んでいた。全身が軋みをあげて、きみではないまったく別の何かに生まれ変わろうとしているのだ。

 のたうち回りながらきみは、初めて鏡を見られなくて良かった、と場違いな感想を抱いた。自分が、どんなおぞましい姿に変貌しているか目にしたら、間違いなく発狂してしまうだろうーー。

 聞き慣れない音律が耳朶じだを打ったのと、きみの身体が動かなくなったのが同時であった。痛みが霧散したのは有りがたかったが、輾転反側てんてんはんそくしていた不恰好な体勢で金縛りになった。

「この咒偈ゲアスは、意識だけ残してあなたの周りの空間に時干渉しています。超スローモーションになっているとでも思ってください。でもずっとは続けられないし、身体機能に負荷がかかって、いずれは死に至ってしまいます」

 現実世界のシスターは修道女姿でなく、動きやすい格好で、ひどくいとけなく見えた。

 そこは薄暗い倉庫のような部屋で、おそらくマザランが用意した隠れ家セーフハウスの一室と思われた。病院のような鉄パイプのベッドにきみは、固まって寝転がっていた。

 横臥するきみは、顔を寄せてきたシスターの視線を逸らすことはできない。というよりも瞼を閉じることすらできないのだった。

「済まんなーー」

 顔を向けることが叶わない位置から、マザランが話しかけてきた。

「シスターの言う通りかもしれん。結局はお前を利用しなきゃならないんだ」

 彼女が悪戯っぽくーー初めてーー笑ったような気がした。「苦しいですか?」と彼女の指がきみの頬を撫でる。

「でも、本当にこれしか助かる道はないのです。だからーー」

 もう少し我慢して下さい。

 言うなり、彼女は体の前で指を組んだ。複雑な指の絡みーー手印ムドラーーーで、その形が変わるたびに、神の名が織り込まれた咒偈ゲアスが唱えられた。シスターが両手を開くと同時に、手元が白く輝いた。光が見る間に、質量を持った物体に実体化した。

 奇術師が舞台で起こす出現プロデュクスィヨンのようだった。宙から鳩やカードを取り出すあれだ。

 それは掌大てのひらだいの鏡だった。

 氷の欠片を心臓に差し込まれたような、凄まじい恐怖がきみを襲った。(嫌だ)。身体は動かないのに、心臓だけが激しく脈打っているようだった。必死に目を逸らそうとするが無駄だった。

 きみは預かり知らぬことだが実は、鏡は水鏡ミロワール・ドーである。実体化させた掌大てのひらだいの水が、完璧に凪いだ湖面のようにまったく動かずに像を反射させているのだった。シスターの奉仕するディユが水神だったことが、きみの頭をかすめただろうか。尤もどのみちそれは、何らきみの恐怖を薄めてくれはしないだろうが。(嫌だ)。シスターが手を閃かせると、鏡は元から重なっていたみたく左右にずれて、二枚になった。後は加速度的に増殖していった。

 きみの周りで鏡の領域が爆発的に広がっていく。(嫌だ! 嫌だ!)。あっという間に視界は、鏡で覆われた。その様はさながら万華鏡の中にいるよう。鏡地獄だ。パニックで目眩がする。血が逆流する。恐怖に引き攣りながらきみは、大小何十もの顔と見詰め合うこととなった。

 きみを見つめているのは、そしてきみが見つめているのは、見知らぬ若者の顔だった。いや少女なのかもしれない。見る者を深くたじろがさずにはおれない、ただならぬ美貌。キャルの生命力に溢れた魅力とも、シスターの人形じみた端正さとも違う。漆黒の髪はぬめにも似て艶やか。きめの細かい肌は滑らかな陶器のよう。輪郭は優美な曲線を描き、眉と鼻の形は完璧だった。蠱惑的な唇。黒目がちな瞳は、見つめられると吸い込まれるようだった。きみの眼窩の奥が、ちりちりと焦げつく。(やめろ)。何かがーー記憶と時間とその他あらゆる種類のエネルギーが、きみを内側から食い破り怒涛となって溢れ出した。(やめろ!)。凄まじい激流がきみを飲み込んだ。きみの意識は押し流され、翻弄され、どんどん引っ張られていく。(やめてくれ!)

 

 〈われ〉は絶叫した。

 

 加速度を増しながら、流砂に飲み込まれるように〈きみ〉が、意識の奥津城おくつきに到達する。

 そこは文字通りの内宇宙だった。果てしない虚空と冷たい星々の海。〈われ〉はその只中に漂っている。もはや抜け殻と化した〈きみ〉の意識、その残骸が、ぐんぐんと近づいてくる。慣性に忠実なそれは、いっさんに暗い空間を〈われ〉めがけて滑って来た。

 〈きみ〉が近づき〈われ〉は身じろぎもせずに、衝突を受け入れた。ついに二つが重なった。もしその様子を見る目があったなら、まるで幽霊同士が激突したように感じただろう。二人は混ざり合いながら擦れ違った。その瞬間、〈きみ〉を構成していた様々な記憶や感情が、〈われ〉流れ込んできた。


 子どもの頃の出来事。

 育った家。

 両親の顔。

 友人たちの姿。

 そしてーー。

 愛らしいアンの笑い声。

 懐かしいケイトの温もり。

 薄れゆく場面。

 溶け出していく笑顔。


 それら曖昧模糊とした記憶たちは、くっきりとした像を一切結ばず、〈われ〉の脳裏にたち現れた。当然だった。永劫の時を生きる不死者イモルテルの無聊、己を封じ込めるための偽りの思い出が〈きみ〉の記憶なのだった。

 名も知らぬ男から拝借した借り物の形見たち。

 いや無聊などと言う気の利いたものではなかった。それは寧ろ心弱い者の自慰行為と言えた。

 〈われ〉は、羞恥心で頭が破裂しそうになった。

 幸いにもそれは叶った。超新星のような爆発が虚空に生まれた。〈われ〉は思い出した。自分が何者なのかを。あの日、黄金の雷に撃たれた時に聞いた神々の声を。


 それは遥かな昔のこと。

 眩い光に包まれて〈われ〉は横たわっていた。星はその動きを止め、砂時計は逆流する。長い永い時間と空間の果て。目を開けることは出来ない。ただ殷殷いんいんと声たちが降りそそぐ。

 

(彼は罰を受けるだろう)

 何ものかの声が云った。

 

(しかりーー彼は罰を受けるだろう)

 別の声が答えた。

 

 さらに別の声が断定するようにつけ加えた。

(むごい報いを受けるだろう。彼は我らが御子みこを殺したのだから)

 

 〈われ〉は涙を流していた。そうだ、〈われ〉は罰を受けなければならないのだ、と思った。世界でもっとも無垢な魂を殺したのだから。〈われ〉は泣き続けた。

 

(彼はモールからも見放されるだろう)

 第一の声ーーナス=ホルタース神が云った。

 

(彼は自分の影を失うだろう。鏡の中に己の姿を見出す事はないだろう。その代りーー御子みこの似姿を見出すだろう)

 第二の声ーーヴォルヴァドス神が云った。

 

(彼は孤独の荒野を彷徨うだろう。彼を愛する者はーー彼に喪失をもたらすだろう)

 第三の声ーーコス神が云った。

 

 恐ろしいまでの絶望が〈われ〉を苛んだ。〈われ〉はモールという安らぎからも見放されたのだ。なんというむごい、怖ろしい罰なのだ。

 その時ーー声々をさえぎって、新たな何ものかが割って入ってきた。

 

(我は彼に力を与えよう)

 新たな声ーーマリク・タウス神は、決然と云い放った。

(冥府の王の名においてーー彼は夢の門をくぐり抜け、異なるヴィを生きるであろう)

 

(なにゆえにーー)

 神々の声が問うた。

(何ゆえに御身おんみはーー)

 幾分かの異議を込めて、声たちが問うた。

 

 マリク・タウス神は答えなかった。その代わり、こう呟いた。

(彼はーー我が御子みことなるのだ)

 こうしてーー〈われ〉は旅に出たのだった。

 

「くっ、かっ、かはっ!!」

 われは蹲り、顔中の穴という穴から、液体を垂れ流していた。体中の感覚がーー視覚聴覚嗅覚触覚味覚が、寸断されていた身体が、徐々に統合していく。

 目の前の女が恭しく跪き、紫の布を差し出した。王の色だ。

御出座おでまし戴き恐悦至極に存じます。ラオ・ファン・シン王子」

「……其方そちは」

「畏れながら奉答致します。星の智慧派教会クロエ・ソニエールと申します」

 引ったくった布で顔を拭いながら、われは立ち上がった。ようやく人心地がついてきた。

「何だそれは? 教皇庁パレ・デュ・パプの下っ端なのか? それともCthulhuの信者クロワイヤンなのか?」

「詳しくはバズ・ブライチャート殿がご存知です」

「ふむ」

 われは額に手を当てて、〈バズ・ブライチャートの記憶〉を検索する。脳裡で、早送りされた動画みたく〈バズ・ブライチャートの記憶〉が高速再生された。主人格がバズになっている間、われ自身は、意識のない透明な話者になっているため、自分自身の記憶として形成されていないのだ。

「ほうーー」

 われは目前の男女ーー今はクロエ・ソニエールとマザランと分かったーーを眺める。われは魔力を籠めると、気息を整え一気に吐き出した。〈ビヤーキー〉の呪いに侵されていた四肢や体躯が、すみやかに〈人間〉のそれに戻った。

「これで良しと。さて、われの身体を治すためだけに、われを復活させたのではあるまい?」

「御無礼の段、平に御容赦願います。御身おんみの力がどうしても必要なのです」

われにHasturの顕現を阻止しろと?」

「御意」

 われはそっと息をつく。

「いかなる口碑伝承で知ったかは判らぬが、われは一介の魔術師、賢人バルザイのともがらに過ぎん」

「しかし御身おんみは数多の魔術道具を創り出しておられます」

 割って入ってきたマザランを見つめる。

そなたは、イレク=ヴァド王の知己であったとか。なれば承知であろうが、われ地球の神々ディユ・デュ・ラ・テールにすら敵わず幻夢境ドリーム・ランドを追放された身ぞ。況して〈蕃神ル・オートル・ディユ〉など到底ーー」

「無論〈蕃神ル・オートル・ディユ〉そのものに手を触れることはかなわないでしょう。ですが、Hasturを再臨させんとする奴ばらを封じることは可能なはずーー」

 どうやらマザランは、われの創りし魔術道具とその在り処を把握しているらしかった。

御身おんみのお作りあそばした魔術道具は、長いときを経て、幻夢境ドリーム・ランド覚醒めざめの世界両方に四散いたしておりました。そしてさまざまな言い伝えや物語の元となっております。わたくしは、イレク=ヴァド王とセレファイスの偉大なるクラネス王に拝謁したみぎりに助力を請いました。そして幻夢境と覚醒めの世界の両界にて、御身おんみの創りし魔術道具を探し求め、集めて参りました。御身おんみが望まれるならば、すぐにでもお持ち致すことができまするーー」

 マザランは頭を垂れた。

 イレク=ヴァド王ーー覚醒めざめの世界での名はランドルフ・カーターーーと、セレファイスのクラネス王の二者は、いずれも強大な力を持つ幻夢境ドリーム・ランドの支配者たちだ。彼らの助力でマザランが集めたのならば、その魔術道具は間違いなくわれの創り出した道具類と思われた。

「何でもお見通しという訳か……」

「このままでは、御身おんみに関わりのある方々にも類が及びまする」

 シスターも詰める。

 憮然として答えた。

われは永劫の闇を歩く不死者イモルテルぞ。そもそもがわれ連人つれびとなどおらぬのだ」

 真っ先に浮かんだのがキャルだというのは、如何なものか。思考を読んだようにクロエが答える。

「それも承知しております。ですが、キャル様はそれを善しとなさらないのでは?」

 痛いところを衝いてくる。確かにキャルは、自分だけが助かるなんてことを許せる人間ではない。

「それに、恐れながらまだ御確認がすんでいないのではありませんか。キャル様が***様の転生された現身うつしおみかどうかーー」

 クロエの顔色が僅かに変わった。

 おそらく尋常な恐怖心などないに違いないこの女は、しかし風になびく木の葉のように、われの怒気にたじろいだようだった。

 マザランがとりなす。

「シスターとわたくしは、まったく別個の目論みを持っております。彼女はHastur再臨の阻止。そしてわたくしめは御身おんみの道具を使い、元の次元に戻ること。ですが御身おんみに助力を願いたいという点では一致しておりました。ゆえにこうして御出座おでまし願ったのです。ーーではこういう算段では如何でしょう。わたくしめが磐船いわふねを賜ったあかつきには、元の次元に戻るとともに幻夢境ドリーム・ランドに足を伸ばしましょうぞ。御約束致しまする。わたくしめは必ず、御身おんみの呪いを解く手立てを幻夢境ドリーム・ランドに求めましょうぞ」

「……」

 呪いを解く方法ーーそれこそがわれが遥かな時空を彷徨い、捜し求めているものに間違いなかった。そしていまの幻夢境ドリーム・ランドに立ち入れない立場では、充分に捜しきれていないのも指摘通りである。

 無論マザランは、空手形を切っているのかもしれない。あるいは自分の目的を達したならば、わざわざ危険を冒す気が失せてしまうかも。だが、何もしないよりはマシであろう。

 われは頭を廻らし、手をひとつ打った。

「よかろう。その話、乗ろう」

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