第26話
26、
夢を見た経験のある者なら判ることだろうが、夢の中で、これから夢が醒めていくという予感がすることがある。実際にはすでに覚醒が始まっていて、周囲の音や気配が夢の世界に忍び込んでいるのだろう。この時きみは、抗いがたい力で
たとえ予期していたとしても、耐え難いことはある。
痛みがぶり返した瞬間、きみはあらんかぎりの力で絶叫していた。痛みの支配領域は両手両足と後背部、さらに前胸部に及んでいた。全身が軋みをあげて、きみではないまったく別の何かに生まれ変わろうとしているのだ。
のたうち回りながらきみは、初めて鏡を見られなくて良かった、と場違いな感想を抱いた。自分が、どんなおぞましい姿に変貌しているか目にしたら、間違いなく発狂してしまうだろうーー。
聞き慣れない音律が
「この
現実世界のシスターは修道女姿でなく、動きやすい格好で、ひどくいとけなく見えた。
そこは薄暗い倉庫のような部屋で、おそらくマザランが用意した
横臥するきみは、顔を寄せてきたシスターの視線を逸らすことはできない。というよりも瞼を閉じることすらできないのだった。
「済まんなーー」
顔を向けることが叶わない位置から、マザランが話しかけてきた。
「シスターの言う通りかもしれん。結局はお前を利用しなきゃならないんだ」
彼女が悪戯っぽくーー初めてーー笑ったような気がした。「苦しいですか?」と彼女の指がきみの頬を撫でる。
「でも、本当にこれしか助かる道はないのです。だからーー」
もう少し我慢して下さい。
言うなり、彼女は体の前で指を組んだ。複雑な指の絡みーー
奇術師が舞台で起こす
それは
氷の欠片を心臓に差し込まれたような、凄まじい恐怖がきみを襲った。(嫌だ)。身体は動かないのに、心臓だけが激しく脈打っているようだった。必死に目を逸らそうとするが無駄だった。
きみは預かり知らぬことだが実は、鏡は
きみの周りで鏡の領域が爆発的に広がっていく。(嫌だ! 嫌だ!)。あっという間に視界は、鏡で覆われた。その様はさながら万華鏡の中にいるよう。鏡地獄だ。パニックで目眩がする。血が逆流する。恐怖に引き攣りながらきみは、大小何十もの顔と見詰め合うこととなった。
きみを見つめているのは、そしてきみが見つめているのは、見知らぬ若者の顔だった。いや少女なのかもしれない。見る者を深くたじろがさずにはおれない、ただならぬ美貌。キャルの生命力に溢れた魅力とも、シスターの人形じみた端正さとも違う。漆黒の髪はぬめにも似て艶やか。きめの細かい肌は滑らかな陶器のよう。輪郭は優美な曲線を描き、眉と鼻の形は完璧だった。蠱惑的な唇。黒目がちな瞳は、見つめられると吸い込まれるようだった。きみの眼窩の奥が、ちりちりと焦げつく。(やめろ)。何かがーー記憶と時間とその他あらゆる種類のエネルギーが、きみを内側から食い破り怒涛となって溢れ出した。(やめろ!)。凄まじい激流がきみを飲み込んだ。きみの意識は押し流され、翻弄され、どんどん引っ張られていく。(やめてくれ!)
〈
加速度を増しながら、流砂に飲み込まれるように〈きみ〉が、意識の
そこは文字通りの内宇宙だった。果てしない虚空と冷たい星々の海。〈
〈きみ〉が近づき〈
子どもの頃の出来事。
育った家。
両親の顔。
友人たちの姿。
そしてーー。
愛らしいアンの笑い声。
懐かしいケイトの温もり。
薄れゆく場面。
溶け出していく笑顔。
それら曖昧模糊とした記憶たちは、くっきりとした像を一切結ばず、〈
名も知らぬ男から拝借した借り物の形見たち。
いや無聊などと言う気の利いたものではなかった。それは寧ろ心弱い者の自慰行為と言えた。
〈
幸いにもそれは叶った。超新星のような爆発が虚空に生まれた。〈
‡
それは遥かな昔のこと。
眩い光に包まれて〈
(彼は罰を受けるだろう)
何ものかの声が云った。
(しかりーー彼は罰を受けるだろう)
別の声が答えた。
さらに別の声が断定するようにつけ加えた。
(むごい報いを受けるだろう。彼は我らが
〈
(彼は
第一の声ーーナス=ホルタース神が云った。
(彼は自分の影を失うだろう。鏡の中に己の姿を見出す事はないだろう。その代りーー
第二の声ーーヴォルヴァドス神が云った。
(彼は孤独の荒野を彷徨うだろう。彼を愛する者はーー彼に喪失をもたらすだろう)
第三の声ーーコス神が云った。
恐ろしいまでの絶望が〈
その時ーー声々をさえぎって、新たな何ものかが割って入ってきた。
(我は彼に力を与えよう)
新たな声ーーマリク・タウス神は、決然と云い放った。
(冥府の王の名においてーー彼は夢の門をくぐり抜け、異なる
(なにゆえにーー)
神々の声が問うた。
(何ゆえに
幾分かの異議を込めて、声たちが問うた。
マリク・タウス神は答えなかった。その代わり、こう呟いた。
(彼はーー我が
こうしてーー〈
*
「くっ、かっ、かはっ!!」
目の前の女が恭しく跪き、紫の布を差し出した。王の色だ。
「
「……
「畏れながら奉答致します。星の智慧派教会クロエ・ソニエールと申します」
引ったくった布で顔を拭いながら、
「何だそれは?
「詳しくはバズ・ブライチャート殿がご存知です」
「ふむ」
「ほうーー」
「これで良しと。さて、
「御無礼の段、平に御容赦願います。
「
「御意」
「いかなる口碑伝承で知ったかは判らぬが、
「しかし
割って入ってきたマザランを見つめる。
「
「無論〈
どうやらマザランは、
「
マザランは頭を垂れた。
イレク=ヴァド王ーー
「何でもお見通しという訳か……」
「このままでは、
シスターも詰める。
憮然として答えた。
「
真っ先に浮かんだのがキャルだというのは、如何なものか。思考を読んだようにクロエが答える。
「それも承知しております。ですが、キャル様はそれを善しとなさらないのでは?」
痛いところを衝いてくる。確かにキャルは、自分だけが助かるなんてことを許せる人間ではない。
「それに、恐れながらまだ御確認がすんでいないのではありませんか。キャル様が***様の転生された
クロエの顔色が僅かに変わった。
おそらく尋常な恐怖心などないに違いないこの女は、しかし風になびく木の葉のように、
マザランがとりなす。
「シスターとわたくしは、まったく別個の目論みを持っております。彼女はHastur再臨の阻止。そしてわたくしめは
「……」
呪いを解く方法ーーそれこそが
無論マザランは、空手形を切っているのかもしれない。あるいは自分の目的を達したならば、わざわざ危険を冒す気が失せてしまうかも。だが、何もしないよりはマシであろう。
「よかろう。その話、乗ろう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます