第24話

 そしてその時はやって来る。

 父王ダオ・ファン・リャンが病の床につくと、王宮内に俄かに不穏な空気が流れ出す。群臣まえつぎみの一部に、シン王子を廃してコウ王子を擁立しようという声が高まる。まことしやかな流言がその気運を後押しするーーコウ王子擁立の後ろ盾は、王太子妃ラナ殿下だと言うのだ。

 当然これに反発する動きも生まれる。反コウ王子派は言う。それは王太子妃の故国ロンギニアの陰謀であると。ラナ殿下は、コウ王子を篭絡してアグリ=ム=オンを乗っ取ろうとしているのだ云々。

 国中に、人ならぬ〈眼〉を放っていたシン王子は、すでに両方の噂を捕らえていた。一説には噂を流した張本人はシン王子その人とも言われるが定かではない。とまれシンは狂喜する。謀叛人として、公然と弟を葬り去る事が出来るからだ。

 このはかりごとは後に、ごく一部の臣下の暴走であり、コウ王子ともラナ王太子妃とも無関係であったことが明らかにされる。だが、たとえ真相が明らかになっていたとしても、シン王子は矛先を納めはしなかっただろう。偽りであれ彼は、大儀を得たのだ。憎っくき弟をーーそれが愛ゆえだと気づくときがあろうかーー亡き者にする大儀を。

 斯くしてコウ王子とラナ王太子妃、コウ派の大臣たちが東の塔へ引っ立てられた。

 一同が連れてこられた塔の一室は、元はただの控えの間であったが、いまや窓や露台といった開口部は鈍重な織物で遮られ、部屋中所狭しと奇っ怪な品々が据え置かれていた。

 澱んだ黴の臭いと官能的な香の薫りがたちこめ、蜜蝋の朧な明かりが、天井から吊るされた乾燥植物や、動物の頭蓋骨や、卓上にうねうねとのたくる水瓶フラスコたちの影を伸び縮みさせているのだった。

 その最奥部に、シン王子が待ち構えていた。人骨にも見える無気味な素材でできた高座たかくらに身を沈めている。傍らに凡庸な顔立ちの女が控えている。くだんの愛妾という体の侍女である。

 咎人たちを捕らえては来たものの、ほとんどの衛士たちは恐れをなして、部屋の入り口で足踏みし、中に入ろうとはしなかった。

 シン王子がパチリ、と指を鳴らした。ひきつった表情の衛士が、嫌々ながら四人がかりで、緋色の繻子織りが被せられた戸板のような物を部屋に運びいれ、足早に出ていった。

 王子は戸板に近づくと繻子織りを掴み、取り去った。息を飲んだのは、コウ王子とラナ王太子妃であった。不様な悲鳴を上げたのは大臣たちだ。

 台の上には、あろうことか、シン王子の死体が乗っていた。

「驚いたか」

 シン王子が、得意そうに鼻を蠢かせる。

われの寝首をかこうなどと、思い上がったはかりごとがあると聞いてな。用心をさせて貰った」

「これはーー」

 蒼白な顔で、気丈にも王太子妃殿下が問うた。

 シン王子は部屋の一隅に歩いていった。そこには縦長の楕円形をした鏡が置いてあった。王子は鏡に手を乗せて言った。

「見よ! 我が魔術の成果を! これなるは異界より取り寄せたる〈ニトクリスの鏡〉。自らの鏡像を現身うつしみとして取り出すことの出来る魔法の鏡だ」

 王子が鏡の前に立つと、臣下からどよめきが起こった。驚くべきことに、鏡には王子の姿が映っていないではないか!

われは自らの分身を作り、密かに交代しておったのだ。万が一命を狙われたときの備えにな」

 シン王子が何かを呟くと、死体はグズグズと溶けていき、玉虫色に輝く気色の悪い物体に変じた。それはおぞましくも生きており、ふるふると半透明な身を蠕動させるのだった。

「案の定、分身が襲われーーわれは刺客を捕らえた」

 王子の表情に、恍惚とした色が浮かんだ。

「泣きながら頼んだぞ、其奴は。どうか殺してくださいとな。生きながら、世にも怖ろしい目に遭わせてやったのでな。其奴が全てを白状した。誰に命ぜられてわれを狙ったのか」

 そう言って、王子は大臣たちを睨みつけた。

「なあ、けいら」

 恐怖のあまり、大臣たちは口々に叫び始めた。命乞いをするもの、この期に及んで知らんふりを決め込む者。ある者は気を失い、ある者は失禁した。

 しかし、彼らの訴えを、王子は一顧だにしない。代わりにシン王子はコウ王子の前に立った。

「何か申し開くことはあるか」

 コウ王子は瞳に、静謐な深い悲しみを湛えて、答える。囚われの身となり、憔悴してもなおコウは美しかった。

「御座いません。全ては兄上の御心のままに」

 その従容しょうようとした物腰が、シンを逆上させる。

「ええい、腹の立つ!」

 シンはコウを足蹴にすると、居並ぶ衛士に命ずる。

「こやつを鞭打てい!」

 しかし誰ひとり動かない。いや動けない。それがまた、シン王子の怒りに油を注ぐ。

「……そうか、そういうことか。衛士どもまで手なずけおって」

 彼は一人に駆け寄ると、無理やり剣をもぎ取った。

われが切って棄ててくれる」

 彼が白刃を振り上げたとき、コウ王子に覆い被さるように、人影が滑り込んできた。

「おやめくださいませ! コウ様は無実に御座います!」

 彼の妻ラナだった。

 ふん、とシンは顔を引き歪めた。

退け。そなたの戯言など聞きたくもないわ。おおかたコウとしとねで、われの寝首をかく算段でもしておったのだろう」

 そのようなこと、とコウを守るようにかき抱きながら、王太子妃は答えた。

「そのような事実は御座いませぬ。それに……」

 彼女は顔を上げて、シン王子をひたと見据えた。

「私のほうを振り向いてくださらなかったのは、御身おんみでは御座いませぬか」

 思いがけず真摯な眼差しに、シン王子はたじろいだ。

「うるさい!」

 うるさいうるさいうるさいと王子は、剣を振り回す。

「おぬしらがわれを笑い乳繰りおうている間に、見よ! われは世界中の叡智を手に入れたのだぞ!」

 そう言ってシン王子は、部屋中に積まれたガラクタたちを指した。

「我が魔術の結晶たちだ! これは不老長生の秘薬!」

 王子は薄汚れた壜を、高々と持ち上げた。

「異なる次元を自在に往き来するための磐船いわふね! 人の魂を吸い込むひさご! こちらの書物には一千万のつわものを一瞬にして葬り去る方法が書かれている……」

 シンは誇らしげに宣言する。

「すべてわれの力だ。われ、に出来ぬことなどないのだ!」

 しかし、ついに王子に手に入れられないものが目前にあることは、もはや明白だった。シン王子は再び刃を突きつけた。王太子妃が観念したように瞳を閉じた。

「二人とも仲良くあの世へ送ってやる」

「兄上!」

 ラナ殿下だけはお助けくださいーー。コウの声を無視し、シンは王太子妃を切り伏せた。そして返す刀でコウ王子を貫く。

「兄……上……」

 コウの優美な指が、自らを貫いた鈍色の剣の上をすべり、やがて力なく床に垂れ下がった。あまりに痛ましい光景に、臣下たちは一様に顔を背けた。

 シン王子は哄笑していた。彼はついに自由を手に入れたのだ。だが笑いながら同時に、彼は涙を流していた。止め処もない哀惜の涙を。

 ふらふらとシンが、露台に歩み寄った。織物をひっぺがす。

 東の塔からの眺めは、恐ろしい惨劇とは無縁の静かな夕べであった。空には雲一つなく、西では薔薇色に輝く落陽が、瞬き始めた星にゆっくりと天の支配を禅譲していた。

 シン王子が、倒れこむように露台の手摺に両手をついたとき、それは起こった。

 蒼穹から、突如、黄金の雷挺が飛来したのだった。凄まじい轟音とともに降りそそいだ光のは、瞬く間にシン王子を、室内の廷臣や愛妾もろとも焼き尽くした。

 その日、王城を見上げたアグリ=ム=オンの民びとは、崩れ落ちる東の塔を見て、神々の怒りの大きさに慄いた。そしてコウ王子はやはり神々に愛されていたのだと頷きあったという。

 『フサンの謎の七書』の一節に、斯くてアグリ=ム=オン国タクル朝潰えたり、とある。

 やがて長い長い時の後、この挿話に名がつけられる。神々によって永劫の闇を歩くことになった男の物語に。〈最も忌まわしい魔法使いあるいは放浪王子の物語〉と。

 

24、

 自分が夢を見ている、と眠りながら自覚している夢があるが、きみがいま見ているのはまさにそれだった。

 その家は何度となく訪れたことのある場所で、胸をかきむしられるような郷愁をおぼえたが、きみが育った実家でもなんでもない。それでも建物のどこに部屋があって、そこにどんな調度品が置いてあるのか、物の質感や匂いや階段の軋みまで、たなごころを指すように明瞭なのだった。

「お前さんの創った世界だからな」

 そう言ったのはマザラン支局長で、彼は暖炉の前の大きなロッキングチェアで寛ぎながら、瓢箪キャラバッシュのパイプを咥えているのだった。たばこの甘い薫りが、きみの鼻腔をくすぐった。

「気分はどうですか?」

 ロッキングチェアの向かいの一人掛けにいたシスター・ソニエールが、心配そうに声をかけてくる。

 きみは、二人を等分に見る三角形の頂点にいた。三人掛けソファに横たわり、薄い毛布をかぶっている。暖炉の焔がパチパチと音を立て、その単調な響きがきみの心を落ち着かせている。

「痛くはない、です」

 上半身を起こしてきみは、ソファに座り直した。おそるおそる両手を見るとそれは、見馴れたきみの腕だった。左足のズボンの裾を捲るとやはり、きれいなままである。きみは安堵の息をつく。

 だが心のどこかでは判っていた。所詮これは夢なのだ。目が覚めれば、きみはやっぱりリストラされた探偵で、将来の展望もなく、それどころか人間ですらない化け物に変わる途中なのだ。 

「全部いちどきに解決なんてしやしないさ」

 またもマザランが心を読んで言う。

「もちろん、そういう人間もいるだろうが、俺たち凡夫は、いつだって一つずつ、ちょっとずつ、さ」

 きみは何故か、理不尽な怒りが湧いてきた。

「凡夫ってことはないでしょう、支局長パトロン。あなたはあんなにも易々とイルーニュ・タワーズに侵入してきた。そしてどうやってか自分たちをそこから脱出させた。あなた一体、何者なんですか?」

 それに、ときみは続ける。

「オレに〈ビヤーキー〉絡みの仕事を振ったのも支局長ですよね? どうしてだかオレの周りはあの忌まわしい三脚巴紋トリスケリオンばかりになっちまった。偶然にしちゃあ出来すぎだ。あなたが仕組んだとしか思えません。何でオレをこんな悪夢に引きずり込んだんです?」

「興奮しては身体に障ります」

 割って入ってきたのは、シスターだった。彼女はきみをまた横にさせて毛布をかけると、マザラン支局長を諭した。

「ここはブライチャートさんの夢の中。わたしたちも今この時点ではブライチャートさんの被造物で、彼の想像力を借りてこうして存在できているにすぎません。創造主の詞には逆らえないのでは?」

 少し面白がるような口調だった。

 キイキイと、ロッキングチェアが軋んだ。しばしの沈黙の後、

「参ったな」

 と、さして参っていない様子で、マザランが頭を掻いた。

「まあ、夢の内容は目覚めたら忘れてしまうものだしなーー」

 そう言って支局長は、話し始めたのだった。

 

 彼は夢見勝ちな子どもだった。貴族の家柄の出で、なに不自由なく育った。文学を愛し、小説を出版した。飛行機乗りピロットでもあったから、戦争が始まると志願して従軍した。そして一九四四年七月三十一日、偵察飛行の最中ドイツ軍に撃墜された。

「そんな、まさかーー」

 きみは呆然とマザランの告白を聞いた。普通ならば一笑に伏してーーいやむしろ正気を疑ったことだろう。彼の話す半生は、アントワーヌ市でおそらく最もよく知られた人物のエピソードだったからだ。

 ともかくも話の続きはこうだ。偵察機のコントロールが効かなくなり、彼は墜ちた。墜ち続けた。「地中海の水面までの時間が無限に引き延ばされたみたいだった」と彼は言った。そして彼はその無限のような墜落のあいだに、無意識のうちに子どもの頃にやっていたある手順を行った。それは彼が、つらいときや悲しいときに夢想した世界、幻夢境ドリーム・ランドに到る道だった。

幻夢境ドリーム・ランド?」

「そうだな……簡単に言ってしまえば、〈夢見ることを通じて訪れる異次元の世界〉とでも言おうか……」

 宇宙には数多の幻夢境ドリーム・ランドが存在しており、我々の地球を取り巻くあちらこちらや、フォマルファウトやアルデバランといった想像も出来ない遠い星々にもあるのだという。

 特異な力を持つ人間ーー夢見人レヴールというーーは、夢を通じてそこに出入りができるのだ。

 彼によれば、幻夢境ドリーム・ランドに到るステップは、夢見人レヴールによって異なる。その幾つかは、例のラヴクラフトとその後継者の描く物語で知ることができる。

 名高い夢見人レヴールにして幻夢境ドリーム・ランドの都イレク=ヴァドの王は、下降していくイメージを用いるという。〈浅い眠りの中で階段を七〇段下り「炎の洞窟」へ……そしてさらに階段を七〇〇段下りて「深き眠りの門」に達する……〉

 だが、落下する飛行機の中で彼が行った夢の世界への通り路は逆だった。

 それは上昇だった。光輝く翼の羽ばたきひとつで街の上空へ……もうひと羽ばたきで対流圏を突き抜け……さらに成層圏へ……熱圏へ……宇宙…。虚無の暗闇空間に到達すると彼は、自分がいつの間にか落下していることに気づく。天と地が逆転し、落ち行く先には、まったく別の世界がたち現れる。

 こうして彼は、〈目醒めの世界〉を抜け出して、幻夢境ドリーム・ランドに到ったのだった。

 

「それから俺がやってのけた旅や冒険は割愛するがーー」

 辿り着いた幻夢境ドリーム・ランドに彼は、安住しなかった。そこから探究のみちについたのだった。世界の真理を知るための旅である。多くの夢見人レヴールが同じような旅に出る。つまるところ夢見人レヴールというのは、目醒めの世界では充足できなかった者たちであり、その心根は幻夢境ドリーム・ランドに来ても変わりはしないのだ。

 だがそれは恐るべき旅程だった。

「イレク=ヴァド王以前に〈神を敬わぬ暗黒の深淵ガルフを横切り、他所の幻夢境へと往き来した者〉はわずか三人にすぎなかった。王は四人目の探究者だ。そして〈その内二人までがすっかり狂い果てた状態で帰還した〉」

 彼の旅も過酷を極めた。宇宙の中心へ中心へと向かい、その途中で〈蕃神〉と言葉交わした。大宇宙の真理の一部を垣間見たのもこのときである。

 だがやがて彼は、故郷を恋い焦がれるようになった。旅の途中で得た異世界の道具は、彼の生まれた世界を覗くことを可能にした。

 一九四三年にニューヨークで出版された『小さな王子ル・プティ・プランス』は、本国では彼の死後、ガリマール社から出版された。だが挿絵が酷く、彼は憤慨した。彼の名声は世界中に広がり、肖像は、ユーロ導入前の紙幣に描かれた。

 彼は次第に故郷の様子に耽溺するようになった。強烈なホームシックと言えた。やがて帰還を決意した彼は、あらゆる知識と技術を駆使し、時空の扉をこじ開けて地球に帰還したのだった。

 しかしーー。

「ちょっと待ってください。死後に出版だって? だってあなたは亡くなってなんかいませんよ。第一、お札の肖像はあなたじゃなかった……」

 きみの疑問にマザランは、激昂ともいえる反応を示した。 

「ああそうだ! ここはーーこの世界は、この時空連続体は、俺が出発し、そして帰還することを望んだ世界じゃなかった! 遠宇宙から恋い焦がれたふるさとじゃなかったんだ。よく似た別の宇宙だった。俺はしくじったんだ!」

 マザランの声には、ゾッとするような絶望が籠められていた。

「この世界での俺は、死んじゃいない。無事に第二次世界大戦から生還して、天寿を全うしているんだ。こっちの世界では、大日本帝国は三発目の原子爆弾投下によって消滅し、日本人はディアスポラによって今やアラスカの一角に、かりそめの住処を作って暮らしている。勝利したはずの米国はポピュリズムによって衰退してしまった。〈冷戦〉と言えば、めざましい戦後復興を遂げたドイツと、それ以上の経済発展をした中国の間の出来事だ。ここは……ここは、俺が帰りたかった世界じゃないんだよ!」

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