第23話

23、

 きみが連れて来られたのは、イルーニュ・タワーズ最上階の共用施設だった。正確には、六十九階と七十階が吹き抜けになっていてそこに、バーやジム、スパ、プールなどがある空間である。

 きみは三人がけソファに座らされた。プールを見下ろせるテラスになったラウンジ・スペースの端にあって、きみの位置から、タールを流し込んだような黒々としたプールの水面みなもが覗けた。共用スペースの壁面はガラス張りで、金の砂を撒いたようなアントワーヌ市の夜景が一望できた。

 ラウンジは、低く落とした間接照明と、何本もの柱と、繁茂する観葉植物の鉢植えで、隠れ家めいた雰囲気を演出している。天井の一部から、たぶん一四〇インチはある白い電動スクリーンが降りている。きっと普段は、動画や小洒落たイメージ画像でも流しているのだろう。いまそこには何故か、引き延ばされたアントワーヌ市の全体図が映し出されていた。

 だがそんな豪勢な空間もきみには、針の筵でしかなかった。きみを半円形に取り巻いて、人間大の昆虫がひしめいていたからだ。

 蟲たちの中心にいて、明らかに周囲を統率しているのがクリス・ローランドだった。クリスが、ソファのきみの隣にドサリ、と腰かけた。ビクッとなってきみは、少し距離を空ける。クリスが場違いな陽気さできみに話しかけた。

「さっき探偵さんは、良いことを言った。〈どうして生かしたままとりこにしているのか? 何か訳があるんじゃないか?〉。さて、今、探偵さんが殺されずにいるのはどうしてだと思う?」

 きみは何も言えず、ただゴクリと喉を鳴らした。歯の根が合わないくらい怯えていた。だが、喋っているうちは殺されないのでは、と言ういじましい願いで、何とか口を開いた。

「ほ、本物の教授は……生きて……?」

 クリスはニヤリ、と人の悪い笑みを浮かべる。

「美味くなかったぜ……骨と皮ばっかりでね……」

 ヒッ、ときみは息を呑んだ。

「で、でも、〈旧き印ル・シーニュ・ディ・アンシアン〉が……」

「そんな都合のいい切り札アトゥなんてないのさ」

 て言うかさ、とクリスはきみに顔を近づける。

「質問、聞いてた? 自分の言いたいことだけ言わないでよ」

 端正なマスクが、きみの恐怖をいや増す。きみは何とか答を絞り出した。

「お、おとりとかーー? シスターを誘き寄せるために……」

 それを聞いたクリス・ローランドがふいに哄笑こうしょうを爆発させた。身体を大袈裟に折り曲げて、ヒイヒイ言う。理由は判らなかったが、何となくお追従できみも、ヘラヘラと笑った。

「探偵さん。案外、図々しいんだなぁ!」

 涙まで流して、クリスは嗤う。

「自己評価高すぎじゃない? 自分が助けに来てもらえるほど重要人物だと思ってるんだ?」

 すうっと、足元に血が下りた気がした。まさかーー。

「シスター・ソニエールなら、あの眷属セルヴィトゥールに救け出されて、とっくにお逃げあそばされましたぞ、探偵シェイマス殿!」

「そんな……」

「あんたは、ここに忍び込むためのダシだよ。用が済んだら、ポイっ、さ。それが奴らのやり方なんだよ。俺もその一員だったんだから、よく知っている」

「一員……?」

「何だ、教えてもらえなかったの?」

 さげすんだ目でクリスが、きみを見る。

「俺も、クロエも、同じ高等教育機関グランドゼコールにいたのさ」

高等教育機関グランドゼコール?」

「魔術と暗殺のね」

 国連の秘匿機関〈S.I.E.G.E〉ーー〈邪神と地球外生物に対する戦略的作戦本部(strategic initiative against evil gods and extra-terrestrials)

〉は工作に必要な、人的な資産アクティフを生み出す下部組織を複数持っている。二人が所属していたのは教会エグリーズが所管するとりわけ伝統ある機関で、古今東西の魔術・呪術の類を徒弟アプランティに叩き込んでいた。徒弟アプランティの多くは、各国から集められた身寄りのない孤児たちだったが、取り分け尊ばれたのは、異教徒の、それも古い祭司や神官、魔術師の血筋に連なる者たちだった。

「なぜならその血に元来、ある種の力が備わっていると考えられていたからね。魔術の素養と言ってもいいかもしれない。真偽の程は分からない。ただ俺たちーー通称〈ル・ブラ〉と呼ばれたーーが優秀な邪神狩人ル・シャスール・ドゥ・ホラーであることは間違いなかった」

 異教をもって邪神にあたる。徹底的に己の手を、つまり神の名を汚さない教会エグリーズのシステムは、国連に秘匿機関が生まれる遥か以前から、実に円滑に機能してきたという。

「まあ、俺がぶっ潰してやったけどね」

 ニタリと嗤ったクリスが、さて、とあらためて問うた。

「話が逸れたけど、どうしてすぐに探偵さんを殺さないのか?」

 しかし答えを聞く前に、クリスは立ち上がり、きみの正面に立った。

「まあ、面倒くさいから答えを言っちゃおう。それはね、探偵さんはもうすでに俺たちの仲間になりかけているからだよ」

 そう言ってクリスが、右手をパチッとフィンガー・スナップした。バカでかい音だった。その瞬間きみの身体が焔に包まれた。少なくとも、そう感じるほどの激烈な痛みが襲ったのだった。

 それは、痛みの評価指標ペインスケールで言うなら、前回の数倍はあろうという甚大さだった。それに今朝の痛みは左足だけだったが、今回のそれは両手と背中にまで拡がっていた。身体の中に異物が生まれることに、肉体自身が猛烈な拒否反応を起こしている、そんな感じだった。

 きみはソファから転げ落ち、おいおい泣きながら床にうずくまった。焼死体のように縮こまった両手がブルブルと震え、やがて左右の手首に縦に裂け目が走った。皮膚が捲れ、血と粘液が滲み出した。きみは痛みで鼻水とよだれをダラダラと流しながら、自分の変容をなす術もなく見せつけられた。あ、あ、あ、と声にならない声が洩れた。手首の内側に、人骨とは明らかに異なる甲虫めいた表皮が覗いていた。

「ようこそ、全く新しい世界ア・ホール・ニュー・ワールドへ!」

 クリスがゲラゲラと哄笑こうしょうをあげたとき、それが起こった。

 

 唐突にきみの痛みが退いたのと同時に、鼻面を殴られたような衝撃をともなって異臭が押し寄せて来た。ほとんど固形物のように思えるそれが、魚の腐ったような、いや海そのもののような臭いだと脳が理解したときには、人垣が乱れ、暴動のような騒ぎが沸き起こっていた。

 きみは蹲ったまま呆然と顔を上げた。きみの目に混乱した蟲たちと、ラウンジ・スペースにどっと侵入してきた一群ーー少なくとも二本足で立っているーーが入り雑じって映った。

 手前の〈ビヤーキー〉が、群がった〈敵〉に引き倒された。〈敵〉が四肢と言わず胴体と言わず、〈ビヤーキー〉にしがみつき、かぶりついた。別の〈ビヤーキー〉が、〈敵〉を撥ね飛ばした。そいつが悲鳴を上げてきみの足許に転がってきた。

 きみはぎょっとなった。一見そいつは人間だったが、拭えない違和感があった。丸い両目が顔面の外側に寄っていて、瞬きしていない。ちょうど魚の目にそっくりだ。開いた口の中には、細かいギザギザな歯がびっしりと並んでいる。そいつの剥き出しの首筋には、ナイフの痕みたいな線が走っていて、それがまだヒクヒクと蠢いていた。そいつはそのまま、息絶えた。

 これはエラだ。きみは戦慄した。こいつらは人間と魚の中間生物なんだ。

「クソッ! インスマス面ども!」

 クリスが悪罵した。

 見るからに化け物じみた〈ビヤーキー〉に比べ、〈敵〉は強力そうには思えないが、数がおびただしい。何匹かの〈ビヤーキー〉が、飛び上がろうと皮膜を開いたが、津波のように押し寄せた〈敵〉にしがみつかれ、呑み込まれてしまった。さしものクリスも手をつかねて、後ずさった。

「どうやって侵入してきた、魚どもめ!」

 クリスが手をかざすと、にわかに彼の周りで空気が渦を巻いた。たちまちそれが旋風トゥールビヨンとなった。

 きみは恐ろしくなって床に這いつくばった。それが功を奏したようだった。クリスが腕を横なぎに払った途端、膨れ上がった空気の壁が、同心円状に拡がったようだった。ごう、と耳を聾するような轟音を立てて壁は、〈敵〉を〈ビヤーキー〉ごと吹き飛ばした。

 腕で顔を庇いながらきみは、信じがたい光景を目の当たりにした。

 鉢植えもソファも、ことごとくラウンジの端まで飛ばされた。それどころか壁際に、〈ビヤーキー〉と〈敵〉がごちゃ混ぜになって、吹き溜まっていくのだった。子どもが遊び半分に投げつけているみたいだった。ほんの少し前まで生きて動いていたそれらが無惨に積み重なっていく様は、たとえ化け物であっても吐き気をもよおすような凄惨さである。だが〈敵〉の手勢はまだ尽きていなかった。第二波が、ラウンジの入り口から味方の死骸を掻き分けて、殺到して来た。

 マズイ、とテラス側に頭を廻らせたきみは、別の意味で茫然となった。

 破壊された手すりの向こうに、夜景をしたがえてクリスが浮かんでいた。自ら巻き起こした風の反動で、テラスの外に飛び出したみたいだった。彼はプール上方から、まるで風に乗っているように自然に、テラスに歩み寄った。

「まとめて擂り潰してやるよ!」

 クリスが両腕を広げると、左右の手に放電めいた蒼白い光が纏わりついた。

 どちらを見ても絶望しかなかった。化け物に喰われるか、テラスから落ちるか、空気に擂り潰されるか。

 万歳するようにクリスが、両手を振りかぶったとききみは、テラスの端まで追いつめられていた。

 風圧を感じて、グラッ、と身体が傾いだのを感じたときは、すでに遅かった。端に寄りすぎたのだ。きみはあっさりと、宙に放り出されていた。きみは目を瞑った。三択で選んだのが墜落死だったらしい、と妙に納得しながらーー。

 内臓が持ち上がるゾッとする感覚ののちきみは、思いの外、柔らかい衝撃を身に受けた。

 誰かに受け止められたのだと気づいて目を開けると、そこにはまったく想像できなかった人物がいた。

「マザランーー支局長?」

「ふん、手間かけさせるな」

 そのときーー。

 プシュッ、とエアロックでするような音が弾けた。

「始めたな」

 マザランに下ろされて見上げた空中から、何かが落ちてきた。ドサドサと立て続けに、きみの目の前に落ちたそれは、人間の腕だった。

 宙のクリスの腕がーー左右とも、肩口から切り離されていた。

「まさかーー!」

 呆然となったクリスが向きを変え、唸りをあげた。クリスの視線を追ったきみは、息を呑んだ。

 それはプールだった。

 だが、何の変哲もないプールだったはずの場所に、〈何か〉がいた。その姿をはっきりと確認することは出来ない。何処からか沸き上がったもやが水面付近にわだかまり、曖昧模糊とさせている。だがやはりさっきまでのプールではなかった。黒い鏡のようだった水面は今や所々盛り上がって、その下に棲む巨大な体躯を暗示させているのだった。

「水神クタアトを、召喚んだだと?」

 クリスが絶叫する。

 水中からまたもプシュ、と何かが弾け飛んだ。圧縮された水流のようなものが今度は、クリスの足を切断する。

「アニュビスではーー神格の片腕だけしか召喚できなった。でもそれで間に合いそうね」

 ぎょっとなって振り向くと、いつの間にかプールサイドに、シスター・ソニエールが現れていた。彼女が片手を閃かせる。さらに数条の水流が迸る。

眷属セルヴィトゥールを生贄にしたのか!」

 それがクリスの最期の言葉だった。彼の身体はシュレッダーに突っ込まれたみたくズタズタに引き裂かれ、おぞましい肉片となって宙で四散した。

 マザランがシスター・ソニエールの許に寄っていき、きみもそれに倣った。彼女はしゃがみこんで、クリスのバラバラ死体を仔細に検分していた。

「そいつは、本体じゃない」

 マザランが覗き込んで言う。シスターが「畜生ピュタン!」と吐き捨てた。シスターは支局長に向き合って言った。

「その通り。こいつはshoggoth。それも若くて下等なーー」

 クリスだった肉片は、見る間にグズグズと、砂の城のように崩れていった。そしてドロリとした不定形の物体に成り代わった。玉虫色に光る粘液状のそれがふるふると震えているのを見てきみは、これがどうやら生きているらしいと気づき、ゾッとなった。

 マザランが懐から小瓶を取り出した。瓶の口を開けて、粘液の上で逆さまにする。それが何かはとんと見当がつかないが、粉のような中身がかかると、粘液生物から熱のない焔が上がった。きみの耳は、メラメラと燃え尽きていくそいつの苦鳴を聞いた気がしたが定かではなかった。それは「てけり・り、てけり・り」と聞こえた……。

「あいつは、〈ニトクリスの鏡〉を持っているんだわ。半年前に、大英博物館の収蔵庫を襲った犯人は、あいつだったというわけね……では、本体はどこに……?」

 おい、とマザランがシスターの独白を遮った。

「まずい……」

 それはきみにも察せられた。フロアに不気味な軋み音が生まれていた。それが、〈水流〉によって切り裂かれたビルのあげる悲鳴だと気づいて、声も出せなくなった。

 メキメキメキという破砕音とともに、四角い柱がずれ、ガラスが砕け、洒落た壁にひびが走った。

「来い! ずらかるぞ!」

 マザランがきみの肩を掴んだ。反対の手を伸ばし、シスターの肩に乗せる。マザランの口から、耳慣れない音が迸る。それは言語のようでもあったが、人間の舌が発音できるものとは思えなかった。しゃがれた、むせび鳴くような音律。たちまちきみの鼻腔を、強烈な臭気がくすぐる。梔子くちなしを香水にしたような強い刺激臭だ。鼻から頭に抜け、脳髄を強打するような官能的な香り。頭がぐらりと揺れたようだった。

 その瞬間。

 きみたちは跳んでいた。


 その感覚をどう表現したらよいか、きみには言葉が見当たらなかった。そもそも言葉で表せるものなのかすら分からない。テラスから落ちたときに感じた、重力からの自由という意味においての浮遊感とは根本的に異なるものだった。

 一瞬にして天地左右の別がなくなり、表と裏が引っくり返り、地獄と天国を同時に潜り抜ける。生きたまま身体を裏返され、ぞろりとした舌で、脳と言わず内臓と言わず舐め回される、そんな感覚を味わった。時間軸は存在せず、その間隔が一瞬だったのか、数時間いや、数千年であったのか、きみには判然としなかった。ブウウウウンという羽唸りに似た音を聞いたように思った。闇というよりも混沌そのものの後、きみは光を見た。

 気がつくときみは、重力を感じていた。わずかに荒い息づかい。きみとシスターの肩に手を置いたままマザランは、呼吸を整えようとしていた。

 きみはマザランの手から抜け出すと、数歩だけ歩いた。体中を粘土のように捏ね繰り回されたようだった。耐えられなかった。

 その場に蹲り、したたか地面に嘔吐した。吐いても吐いても、気分は良くならなかった。何も出なくなってから、吐しゃ物の横に顔をつけて呻いた。強烈な梔子の香り。それと土の匂いが鼻を突いた。目の前に雑草が生えていた。とても起き上がれる状態ではなかった。だが、そうはいかなかった。襟首を掴まれ、きみは無理やり立ち上がらされた。

「ここから離れるぞ」

 マザランは、きみとシスターを引っ張って、自分の車までもっていった。後部座席に二人を放り込むと、運転席に着く。最悪な心地ながらもきみは、そこがイルーニュ・タワーズ前の緑地と見てとった。

 マザランが車を出すと、背後から低い轟きが沸き起こった。きみたちが侵入していた棟の倒壊が始まっていた。

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