第22話
22、
サイレンはまだ鳴り続けていた。きみはヨタヨタと足許をもつれさせながら、精一杯急いで足を進めようとする。だがもどかしいほど、歩みは遅かった。
廊下は先で右方向に折れ曲がっていた。進むうち、フロアを取りまくかたちで廻廊状になっているのが判ってくる。おそらく断面図は、多角形のはずである。
廊下がやけに明るく感じられてきみは、自分が一点の染みになったようで落ち着かなかった。ひどく無防備で、目立つ気がした。
間隔をおいて、淡い色合いの重厚そうなドアが並んでいる。ドアが住居ごととするならば、一戸がかなり広いにちがいなかった。きっと内部には、何部屋もあるのだろう。
きみはその豪奢なドアが今しも開いて、化け物が飛び出してくるのではと気が気ではなかった。先ほどのアニュビスの推測が頭の中をグルグルと廻る。あの一戸一戸に昆虫めいた化け物がぎっしりと詰まっているとしたらーー。
そんなわけで、それまでと異質な実用一辺倒のスチールドアを見つけたときには、ホッと胸を撫で下ろした。焦るあまり飛びついたほどだった。
それは見るからに非常階段に繋がるドアで、L字型のレバーハンドルがありその上に、透明なアクリル・カバーに覆われた金属の
重たい扉の先は、やはり踊り場だった。明るい廊下と比べてかなり薄暗く感じられた。四角い煙突のような吹き抜けの上下に、階段が伸びている。
きみは手すりに掴まって階段を降りはじめる。疲労と焦燥で、足どりがおぼつかない。冗談じゃない、ときみは胸の裡で吐き捨てた。こんな化け物の巣にいられるか。先ずは逃げ出すにしくはない。
だがツーフロア降りたところできみは、足を止める羽目になった。吹き抜けの下方から、あの不吉な音が沸き上がってきたのだった。まるで千のスズメバチが群舞しているようだった。
bbbZZZZzzBBBbbbzzz……
bbbZZZZzzBBBbbbzzz……
bbbZZZZzzBBBbbbzzz……
bbbZZZZzzBBBbbbzzz……
bbbZZZZzzBBBbbbzzz……
空間中に木霊するそれは、明らかに一体の発する音ではなかった。咆哮とも羽唸りともつかない厭わしい音が群れをなして、しかもこちらに、上階に向かって立ち上ってきているのだ。
しばしフリーズしていたきみは、卒然と正気に立ち返った。茫然自失している場合ではない。踵を返すと、折角降ってきた階段を昇り直す。こんなに己の運動不足を悔やんだことはなかった。たちまち息が切れ、膝が軋んだ。
五十階まで戻ったころには、肩で息をしていた。
ドアを開けようとしたとき、スチール扉の向こうで物音がした。恐る恐る耳をつけて様子を窺う。廊下側に複数の気配を感じた。どうやら化け物たちが集まりはじめているらしい。
きみの進退はあっさりと極まった。もはや、上階を目指すしかなくなった。
六十階で立ち止まったのは目算あってのことではなかった。もうそれ以上、足があがらなかったからだ。都合三十階分を登ったことになる。きみにはかなりの運動だった。
きみはゼーハー言いながら、ドアに耳を当てた。目を瞑って集中しようとするが、自分の心音がうるさくて邪魔だった。幸いなことに今度は、それらしい気配がない。きみはノブに手をかけて、そろそろとドアを押していった。
細く開けた隙間からは、動く影は確認できなかった。きみはもう少し大胆になって、顔をこわごわ突き出した。
途端に、ジャケットの衿元が掴まれた。アッと思う間もなく引っ張られ、非常階段から引きずり出された。
「エイッ!」
気合いとともに、きみの肩に堅い何かが打ちつけられた。
「痛っーー!」
「貴様ーー人間か?」
恐る恐る眺める。人間か? というのはこっちの科白だった。そこにいたのは、剣のようにステッキを構えた人間だった。少なくとも〈ビヤーキー〉には見えなかった。そしてそれは、きみにとって
綿毛のような白髪に
*
老教授がきみを引っ張っていったのは、住居スペースの一戸だった。
そこの玄関はだだっ広く、床は大理石貼りだった。脇に大きな収納兼シューズボックスが据えつけてあるが、それでもきみのアパルトマンの一部屋くらいはありそうだ。突き当たりに両開きの扉があってその奧は、輪をかけて広いリビングである。
リビングの床も大理石貼りで、高級そうな絨毯が敷かれ、ソファセットの前にはマントルピース型の電気暖炉、壁の一方には豪華なオーディオセットが鎮座している。
しかしきみの目は、調度品よりも、リビングのど真ん中に横たわっているモノに引き寄せられていた。
巨大なシャンデリアの真下に、〈ビヤーキー〉が倒れていた。照明のもとに晒されたそれは細部がよく見え、これまで以上に忌まわしくきみには映った。超越的な存在が、地球の生命を嘲弄するために、人間と昆虫と蝙蝠と四つ足の獣を出鱈目に溶かして混ぜ合わせたような、恐ろしく邪悪な意図を感じさせる代物だった。そのうえ今、その化け物の頭部はグズグズと原型を留めないで崩れているのだった。
「
そう言って教授は、ソファにヨッコラショと腰かけた。きみもそれに倣った。
「いや、わたしのせいというか……」
事もなげな老教授の様子に、きみはかなり戸惑う。こんな化け物の巣のど真ん中にいるのに、この落ち着きぶりはどうだろう。そもそもどうしてこの老人はここにいるのだろうかーー。
きみの問いに教授は、にわかに興奮し出した。
「こやつらに拐われたんじゃよ! まったく儂も
老教授は堰を切ったように喋り出す。〈人間〉と話をしたくて仕方がなかったのだと言う。
ラバン・シュルズベリー氏は本人の言葉を信ずるならば、米国マサチューセッツ州アーカム市にあるミスカトニック大学の文学部教授であるらしかった。一度別の大学でリタイアしたあと、昨年、特別講師としてミスカトニック大学に勤務することになった。専攻は演劇の歴史で、その関係で大学の収蔵品ーー演劇に関わる美術品や人形、仮面、衣装、楽器、小道具、上演用台本、ポスターなどーーを管理していたという。だがそのコレクションの中でも、大学当局の規定で外部への持ち出し禁止品になっているのが、今般アントワーヌ市で上演予定の『
「なのに貸し出されているのは、レプリカでなく本物の方だと?」
「ああ、間違いないーー」
教授は疑念を抱いたがそれは、大学内部に不心得者がいると告発するに等しいことだった。すり替えるとすれば持ち出される前でしかあり得ないからだ。そこで大学内で騒ぎ立てる前にアントワーヌにやって来て、自らの目で確認しようとした。だが……。
「あの化け物どもに捕まってしまったのだーー」
教授が化け物に襲撃されたのは九日前のことで、例の古代文明博物館で騒動を起こした翌日のことだった。
「よく今まで……」
生き延びましたね、という言葉をきみは呑み込んだ。図らずも〈ビヤーキー〉の行動を追って来たきみからすれば、いかに彼奴らが容赦なく人の命を奪うかーーダヴィドやバローをあっさりと殺したーー知っていたからだ。
「それは思わぬ援助者がおったからじゃ」
「援助者? 何者ですか?」
「見たこともない男だった。アフリカ系でひょろっとした、四十くらいの男でーー」
A・フリーマンと名乗ったその男は、ホテルで教授を襲撃して来た〈ビヤーキー〉ーー人間の姿のーーをあっさりと返り討ちにすると、教授を伴ってホテルから脱出したのだった。彼は自分について、こんな風に話した。
〈ミスカトニック大学の、一部の年長でより経験にとんだ老教授陣によって構成される非公式団体があります。ウィルマース
フリーマンが語ったという話は、きみがシスター・ソニエールに聞いたのとほぼ同じであった。すなわち〈
到底信じがたいことだが、と教授は項垂れた。本当にその通りだ、ときみは同意した。しかしフリーマンが撃退した際に〈ビヤーキー〉がーーその死体がーー起こした変化を目の当たりにし、信じないわけにはいかなくなったという。
故ウィンゲート・ピースリーという人物によって創設されたこのウィルマース
「実はその、
ごく大掴みにいえば、ウィルマース
「その精華がこれじゃ……」
そう言って教授が指差したのは、テーブルの上に乗った奇妙な物体だった。コインほどの大きさの緑色の石で、不可思議な文様ーー中心から外へ向かう五本の線ーーが描かれている。
「儂らはしばらく隠れ家に潜伏してから、陸路づたいに国境を目指したのじゃが……またも襲われての。フリーマンは負傷して、生死は判らんようになってしもうた……。が、先んじてこれを渡されていたのじゃ。〈
教授がここに連れて来られたのが昨日だった。それ以来、ずっと閉じ込められていたという。
「それで、君はーー?」
教授に促されきみは、これまでの経緯をはしょって伝えた。きみもまた、この常識はずれの出来事を誰かと共有したくて堪らなかったのだ。
「そのシスター・ソニエールという
そして教授は、フリーマンの言う〈人類側の複数の組織〉について教えてくれた。
ウィルマース
「〈
きみは呟く。あのときシスター・ソニエールが説明しかけた言葉の意味がようやく判ってきた。つまりはこういうことだ。〈ビヤーキー〉たちは何らかの目的で、この街で活動している。それは何れかの
ふと気づいてきみは、訊ねる。
「教授、教授はいったい何をご存知なのですか?」
「というと?」
「彼らはわざわざ誘拐までして、教授を監禁しています。自分の知る彼らは、敵対する相手や、邪魔と判断した相手には容赦しません。失礼ですが教授を生かしたまま
「ふむ、それで儂が何か有益な情報を持っているためだと思ったのじゃな。ーーやるじゃないか、探偵さん」
きみはぎょっとなった。教授の声が急に変化したのだった。
変化したのは声だけではなかった。きみの前で教授の顔が、ゆっくりと、崩れていった。まるで蝋燭が熔けるのをスローモーションで見ているようだった。目が鼻が口がグニャリと歪み、のっぺらぼうなただの肉塊に成り果てた。そして最初から骨などなかったかのように、円錐形の、ふるふると蠕動する何かが、そこに現れた。
きみはソファから立ち上がって後退りーーそして腰を抜かして床にペタリと座り込んだ。
その間も肉塊は変化し続けた。円錐形の一部が持ち上がって膨らみ、フットボール大の塊になった。そこにゾロゾロと毛が生え髪が生まれ、その後に目と鼻と口と耳があらためて出来上がった。
そうして完成した顔貌にきみは、見覚えがあった。顔は少年の面差しである。華奢で中性的な美少年の顔だ。
その顔は市長の息子クリス・ローランドだった。
「あれほど忠告したのに。ーーしようのない探偵さんだ」
きみは市長の息子の声にも聞き覚えがあった。それは、いつかきみにかかってきた、脅迫電話の声であった。
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