第21話
21、
〈イルーニュ・タワーズ〉は、第七区新市街に立つ摩天楼群の通称である。広大な工場地帯の跡地が再開発で整備され、七棟の住居用超高層建築になった。各棟は蜘蛛の巣のような通路で結ばれ、全体でひとつのゲーテッド・コミュニティを形成している。
きみは今その中の一棟、黒々とした円柱状の建物の足許付近にいる。
きみの潜む場所から見上げると、七十階建ての上層は深夜二時の暗闇に溶けて霞み、航空障害灯の赤い瞬きがやけに遠くに思える。このビルの壁面は熱線反射ガラスと黒い太陽光パネルで覆われていて、昼間でも漆黒の円柱のようだった。ここはクリス・ローランドの家のある棟であり、ジャン=ポール・アルシェ医師の家は二つ隣の棟、ジュリアン・カルノーの家はさらにその西の棟だった。
真夜中のこととてビルの正面玄関は閉ざされ、脇の通用口に二十四時間常駐の警備員が詰めている。中に入るにはIDカードを提示したうえ身許を照会され、外来者はボディチェックを受けなければならない。
出入口はもう一箇所あった。円柱をぐるっと回った、正面玄関の真裏の一画が巨大な
「こんなところに、どうやって侵入しろってんだ……」
きみはボヤかずにはいられなかった。
確かにきみは、シスター・ソニエールに会わねばならない切実な理由がある。おぞましい〈何か〉に変容しつつあるきみの足について相談できるのは、彼女をおいて他にいないだろう。とはいえきみは、フィクションの探偵とは訳がちがう。言うなればただの会社員だ。偽のIDで警備員の目を誤魔化したり、壁面に貼りついてよじ登ったりできるわけではない。
「コッチ…ニ……来イ」
こぼすきみをアニュビスが導いたのは、摩天楼群の麓にある緑地だった。住民のために造られた、小さな公園のような場所である。
灌木の繁みに分け入ると、芝生に埋もれて、巨大なメンテナンスホールの鉄蓋があった。
「なるほど、下水口かーー」
きみは唸った。
アニュビスが、普通の人間が工具を使って数人がかりで開けるそれに指を引っかける。鉤爪のある指に力を籠めると、鉄蓋は軽々と持ち上がった。
鉄の梯子は、氷のように冷えていた。仕方ない、きみは渋々ながらそれを降りていく。恐る恐る段に足を乗せていきながら、先日来、すっかり感覚が麻痺しているのかもしれない、とひとりごちる。これはどうみても不法侵入だ。だが、ことはきみが人間でいられるかどうかに関わる。気後れしている場合ではない、ときみは自分に言い聞かせた。
*
コンクリートを踏みしめた感覚で、ようやく底に着いたと知れた。きみはホッと息をつく。見上げると竪穴の縁はぼんやりと浮かび上がっていた。携帯電話を取り出して、ライト機能で周囲を照らした。そこはまさに
元はおそらく、百年ほど前に造られた暗渠であったろう。壁は煉瓦や石を積んで造作してある。円筒を横たえたような内部で、天井部分は円く弧を描いている。円筒の下半分の真ん中に幅広い溝が切ってあって、下水はそこを流れていた。溝の左右は狭い通路になっていた。アニュビスが先頭にたって、通路を奥へ奥へと進む。きみは黙って後をついていく。
強烈な臭気も辛いがそれ以上に、墓場のように底冷えがして、身体に
アニュビスは目が利くらしく、明かりもつけずにスタスタと歩いていった。暗闇に浮かぶのは、ライトを点けたきみの姿だけだった。
アニュビスは時折ある分岐もためらわずに選んでいた。地下道の図面が頭の中に入っているようだった。第一印象からくるきみの偏見とは裏腹に、彼の知能はかなり高いと思われた。それに彼らが所属している組織も、あっさりと一帯の下水網の図面を手に入れられるだけの力を持っているようだ。してみると、まるっきり無謀な作戦ではないのかもしれない。きみは自分の臆病風を、何とか宥めすかそうとする。
じくじくと湿気の籠った空気の中を、きみは歩き続けた。魚の腹みたく
心なしか左脚が強張ってきた気がしてきみは、全身が総毛立った。こんな場所で今朝のような痛みに襲われるなんて、ゾッとしない。
侵蝕する冷気に加え、ライトの届かない暗闇の中に何千という瞼のない瞳が見つめている不気味な妄想と戦っているうち、ようやくアニュビスが立ち止まった。
そこは暗渠の枝道の行き止りで、そこから先は直径一メートル半ほどの、さらに小さな円形の管になっていた。管からはチョロチョロと水が流れてきていて、おまけに円いっぱいに頑丈そうな鉄の格子が嵌まっている。その堅牢な様は、きみを絶望させた。鉄格子は手首ほどの太さで、到底生身で壊せるとは思えなかったからだ。だがアニュビスの見解は違ったようだ。
ガン、と耳を
アニュビスの拳が、重機でも振るったように二度三度と打ちつけられると、信じがたいことに鉄格子が折れ曲がりはじめた。六度目の打撃で、ついに一部が弾け飛んだ。
破れた鉄の棒を、アニュビスが両手で掴む。毛むくじゃらの腕に、太縄のような筋肉が盛り上がったのが判った。
gyurrrruu……
獣の
それでも横坑は、きみでさえ身を屈まねば通れないような大きさである。鉄格子が邪魔にならないとしても、アニュビスが通れるとは思えない。
にもかかわらずアニュビスは、躊躇なく長い鼻面を突っ込んだ。
「お、おい……」
それは何度目かの、信じがたい出来事だった。
サイズを度外視して突っ込んだ彼の肩や腰は、当然のように坑の縁に引っかかっていた。それが容赦のない前進にあわせて、グニャリとへこんだのだった。烏賊や蛸といった軟体動物であるかのように、彼の巨体が横坑の形状に合わせ変形し、ズルズルと奥へ入り込んでいった。
きみあらためて、アニュビスが未知の生物であることをまざまざと思い知った。鉄格子を破壊したのはきみをついて来させるためであり、彼自身にとって潜入自体は、物の数ではないのかもしれなかった。
きみは前方に目をやらないようにうつ向いてーーそこで何を目にするか考えたくもないーー坑に這い入った。
*
きみたちが潜入に成功したのは地下三階で、駐車場になっているスペースだった。ようやく手足の伸ばせる場所に出て開放的になったきみを、アニュビスが押し止めた。
「……監視カメラ…ガ…アル……」
短い思案の後、アニュビスはきみに、自分の動きを真似するよう促した。
左手の親指を残りの四指で握り、拳にする。次いで小声で「ボロン」と唱え、掌中に
きみがそこまでやるとアニュビスは、その
きみが一連の動作を終えるとアニュビスは目を閉じて、その人間離れした口の構造に難渋しながら、低く何かを唱え始めた。
変化は瞬く間に起こった。
気がつくときみは、
視界がぼんやりと霞み、同時に鼓膜が水に潜ったときのように圧迫された。ちょうどプールに頭を沈めたみたいだった。
壁や床や天井が、それ自体が光を放っているかのように、白く輝いていた。だが眩しくはない。世界が白くなっただけだ。視認性は良好で、照明や壁の様子も普通に判別出来る。
アニュビスが「絶対に手を離すな」と言った。浴場に響くような、
「手の形を崩すな。ーーもう一層〈深く〉潜る」
そうアニュビスが言った瞬間、今度は視界が
「隠形印を外さない限り、敵に見つかることはない」
「
言葉の意味は判らなかったが、もはやアニュビスとのコミュニケーションに齟齬はなさそうであった。その代わり彼の〈声〉が、さらに
蒼く沈んだ視界の中、地下三階を半周した。心なしか身体にも、水の中を進むように負荷が掛かっている気がする。抵抗があって、うまく歩けないのだ。きみたちは三基並んだエレベーター扉を発見した。
どうするかと見ていると、彼の背中にモコモコと瘤が盛り上がった。まるで動画をはや回ししているようにその瘤が伸びて広がり、蝙蝠めいた皮膜の翼になった。
アニュビスは
エレベーターは、地下三階から地上五十階まで数十秒で到達した。ありふれたエレベーターの
五十階でドアが開いた。
ドアの先は、広いひと続きのホールになっていた。太い柱があちこちに整然と並んでいて、ホールの奥の半分は白い枠のある透明な壁で仕切られていた。ガラスだかアクリルだかの透明な壁には、空港にあるようなゲートが設置されていて、そこにはまた新たな警備員の姿があった。
ホールは間接照明の柔らかい光で照らされている。そこにエレベーター扉が開いてケージの明かりが洩れたので、警備員の二人が不審がって近寄ってきた。慌てて動こうとするきみを、アニュビスが言葉で押し留める。
ドアの前にやって来た二人を見てきみは、悲鳴を呑み込んだ。二人は真っ黒の影に見えた。比喩ではなく、シルエットそのものなのだ。影が動くと、塗りたての絵の具を無理やり
「動揺するな。奴らから俺たちは見えない。奴らのいる階層より〈深い〉からな」
彼らがきみたちの存在を認識出来ていないのは、アニュビスの言う通りだった。彼奴らはケージの中をまじまじと見渡したが、誰も乗っていないと判じて、首を捻りながらも持ち場に戻っていった。きみが、息すらかかってしまいそうな距離をこわごわすれ違っても、微塵も気づいた様子がない。
「なあ、あいつら〈ビヤーキー〉の仲間だよな? ここにはあんなのがたくさんいるのか?」
きみが訊ねるとアニュビスは振り返りもせず、応えた。
「……推測だがおそらくこのビル……いやひょっとしたら〈イルーニュ・タワーズ〉に棲むすべての人間が、すでに〈ビヤーキー〉に置き換わっている可能性もある……」
想像を絶する光景にきみは、眩暈を覚える。摩天楼群の全戸にびっしりと化け物どもが巣くっているのを思い浮かべて、これまで以上の寒気に襲われた。こんな都会のど真ん中のビルが、誰にも気づかれないうちに怪物の巣に変貌している、そんなことがあり得るのだろうかーー。
歩きながらきみは、自分がスズメバチの巣に迷いこんだアリになったようで、吐き気をもよおした。
一〇〇メートル以上進んで、ホールを分断する透明な壁までやって来た。
異形の警備員たちももちろん恐ろしかったが、それ以前にここを突破するのは至難の業に思える。ゲートには警備員が立ち塞がり、脇にディスプレイ付きの黒い機械があった。ゲートを通る者はどうやら、そのタッチパネルにカードをかざすことで開く仕組みのようだ。そのためのIDカードをアニュビスが用意しているとは思えない。
「……どうやってここを?」
アニュビスならば、透明の壁自体を破壊するのは容易いだろうが、そうすれば侵入そのものが露見してしまう。敵に囲まれたら、シスター・ソニエールの許にたどり着けないかもしれぬ。案の定アニュビスは、気づかれずに通り抜けるのは無理だ、と断じた。
「じゃあ……?」
アニュビスがこちらを向く。
「敵の注意を逸らすのさ」
アニュビスの翼手が素早く伸びて、きみの手を掴んだ。彼にとっては軽く揺すっただけだろうが、きみにとってはアメリカン・フットボールのタックルを食らったようなものだった。当然のごとくきみが手で作っていた〈印〉は、たちまち崩れた。水面から顔を出したようにきみの視界が、元に戻った。
きみは、あんぐりと口を開けた警備員たちと見つめ合うことになった。彼奴らにしてみればきみが、忽然と目の前に出没したように見えたろう。
一拍置いて警備員たちが動こうとした瞬間、透明の壁に
次いでアニュビスは、同時に三つのことを成した。右手の二撃目でガラス壁を粉々にしつつ、翼手で警備員を薙ぎ倒した。そして左手はきみをひっつかんで、ガラス壁の内側に投げ込んだのだった。
一瞬宙に浮いたあと床に叩きつけられたきみは、肺の空気を吐き出して息をつまらせた。先に散々痛めつけられた身体が悲鳴を上げ、気が遠くなった。
緊急事態を報せるサイレンが、ホールに甲高く鳴り渡った。それできみの意識は呼び戻された。割れ鐘めいたサイレンが、わんわんと耳鳴りのように頭の奥で木霊した。
倒れ伏して動けなくなったきみだが、bbbZZZZzzBBBbbbzzz……という例の昆虫の唸りを耳にして、反射的に顔を上げた。本能的な恐怖が、肉体の疲労を上回った瞬間だった。四つん這いで壁に寄っていく。壁に手をついて何とか立ち上がろうとした。
そのきみの前に、横あいから昆虫化した警備員が飛び込んできた。びちゃっと怖気をふるうような音がした。彼らはすでに生きていなかった。昆虫どもの頭部は、爆ぜたようにぐちゃぐちゃなっていた。アニュビスが両の拳から化け物の体液を滴らせて、悠悠とガラス壁を越えてきた。
彼はきみに一瞥をくれたが、すぐに
きみはそこにひとり、取り残された。
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