第20話

20、

 その夜の夢で聴いたのは、呼び声アペルではなかった。女妖精バンシーの咽び泣くようなそれは風切り音で、ひどく耳障りで忌まわしい。

 風音は明らかに次第に強まっていき、それは何者かの接近を暗示しているのだった。或いはその何者かは風そのものなのかもしれないのだったーー。

 

 それは出し抜けに訪れた。

 激痛で、きみの眠りソメイユは打ち破られた。その痛みは今まで感じたことも、経験したこともない種類のもので、身体の中に異物を無理矢理に差し込まれたーーいや、突如身中に異物が〈発生〉しかのたようだった。

 きみはベッドから転がり落ちて、のたうち回った。床に這いつくばって、昆虫みたく一つところに留まらなかった。じっとしていたら、気が変になってしまいそうだった。あられもない悲鳴が、口から洩れ続けた。自分のそんな声を聞いたのは、子ども時分以来と思われた。額に脂汗が滲む。

 覚醒の度合いが増すにつれきみは、ようやく痛みの箇所を特定することが出来た。左足だった。きみは、まるで他人の物のように感じる左脚を投げ出して、寝乱れたパジャマの裾をめくった。

 火傷のひきつれみたいだったそこは、いつの間にかあおぐろ瘡蓋かさぶたに変じていたが、表面の固さに比べてすぐ下の層はじゅくじゅくとしていて、皹割ひびわれた部分から緑色っぽい粘液が染み出しているのだった。

 汐が引くように痛みが薄らいでいった。

 きみは恐る恐る瘡蓋かさぶたに触れた。指が当たった途端、固い部分が弾けて剥がれた。卵の殻のように。その下に覗けたのはーー。

 あまりのおぞましさにきみは、スウッと意識が遠くなる。

 それはきみを襲った〈ビヤーキー〉の、昆虫じみた表皮にそっくりだった。


 次に目が醒めたときにはすでに昼近くになっていた。幸い痛みはなくなっている。

 慌てて携帯電話を掴むとメッセージが届いている。マドック支局長からだった。気を回してくれたらしく、今日は有給休暇にしたと書いてある。支局長ボスには最後まで世話になりっぱなしで、頭が上がらない。だが感謝の念とともに、一昨日の晩の〈小さな王子ル・プティ・プランス〉の言葉が蘇る。

(ーー上司パトロンが何者かを問うべきだろう)

 その無気味な警告の意味は判らなかったが一先ずきみは、支局長宛に礼を述べるメッセージを送った。

 それからのろのろと起き上がり、電気ケトルで湯を沸かした。スープを届けに来たときキャルが寄越してくれたバスケットに、ティーバッグが一緒に入っていた。キッチンでそれを探しだす。普段きみが飲む機会のないハーブティーティザンヌのティーバッグだったが、それを煎れるとカモミールの柔らかい薫りが部屋に漂った。

 こうした日常的なことどもは、きみの心を少しの間、喫緊の事態から逸らしたが、無論それで事態が解決したわけではない。だがきみはどうしても、再び自分の足を見る勇気がわいてこなかった。

 そして、これからどうするべきなのかも判らなかった。

 

 夜がその長い腕を伸ばして、世界の半分を墨色に塗り替えていた。

 常に一つは見えている三つの衛星のうち、いま空にあるのはべに鬱金うこんの月〈バルタザール〉だったが、それは心なしかいつもよりあかく、不吉に映った。タクシーの後部座席で震えていたきみは、さらなる悪寒をおぼえて首をすくめた。

 車内ではドライバーが、ボリュームを絞ってラジオを流していた。そのニュースは、ぼんやりと街を眺めていたきみの耳に、不意打ちのように飛び込んできた。

(ーー昨日、拳銃の不法所持で逮捕された医学生トーマ・アルシェに関する追加情報です。押収された拳銃のライフルマークが、半年前に第一区〈オーゼイユ街〉で射殺されたオウェン・モリス議員を撃った拳銃であることが判明しましたーー)

 現職のノナ・ローランド市長を追い詰め、歓楽街のゴミ箱の中でくたばっていた議員。市長選にまつわるスキャンダルの火元。それがトーマ・アルシェの、〈ビヤーキー〉の銃で殺されていた?

 錯綜する情報に、きみの頭はますます混乱する。この街には、人知れず毒虫ウンゲツィーファー蔓延はびこっているのではないか? 人びとの幾人かは気づかぬうちにおとしあなに嵌まっているのではないか? 彼奴らの目的は? きみの思考は千千に乱れた。

 ーーだがそれよりもまず優先せねばならないことが、きみにはあった。

 目的地に近づくときみは、タクシーのドライバーに頼んで、周囲をぐるりと一周してもらった。サン・ジャン教会である。

 先週訪れたときは目にも止めなかったが、教会の周囲はごく普通の住宅地である。街灯と家々から洩れる黄色い灯りが、路地をぼんやりと浮かび上がらせている。

 きみはなるだけ目を凝らして、怪しい車両がないか確認する。〈ビヤーキー〉を怖れてのことだった。きみが判断した範囲では、張り込みをしている車は見当たらなかった。もう一つの可能性は彼奴らが、どこかの住宅に上がりこんで教会を監視をしている場合だが、そうなるといずれにしてもお手上げだ。

 少し離れた道端でタクシーを停めて降り、徒歩で近づいた。やはり不審な気配はしなかった。もっとも、きみに見破られるような間抜けな敵とも思えなかったが。

 寒空のガスパールは、孤独をかこっているようだった。聖堂も司祭館も、弱い月明かりの下ではひっそりと息をひそめているように見える。建物のどの窓からも、明かりは漏れていなかった。

 司祭館の呼び鈴に反応はなかった。驚いたことにドアに鍵がかかっていない。抵抗なく手前に開いた先は、真っ暗な闇だった。

「すいません」

 何となく小声になってきみは、おとないを入れた。

「どなたかいらっしゃいませんか? ブライチャートです」

 室内に足を踏み入れる。耳をすませたが、人の気配はなかった。

「シスター・ソニエール。あの、どうしてもお訊ねしたいことがありましてーー」

 後ろ手に扉を閉めようとした瞬間、例の獣臭が鼻をついた。簡素な玄関は、すき間からの月影が僅かに室内の輪郭を浮き立たせているだけだった。しかしきみの真正面に、闇が凝り固まったように黒々とした何かが踞っていのだった。

 Grr-gvubd-rrr……

 きみは無意識に後ずさった。扉に背中がついた。到底、逃げおおせる距離とは思えない。きみは不用意に中に入ったのを後悔した。だがしかしーー。

 唸りをあげているのは〈スファンクス〉に間違いなかったが、前回とは少し様子が異なった。シルエットが歪なのは同じだが、先日よりも人類ヒトに寄っている気がする。その〈スファンクス〉の唸りが、きみの耳朶じだの奥で意味を結んだ。

「……狩猟頭グラン・ヴヌール…ハ………居ナイ…」

 擦り切れた絨毯の上で、〈スファンクス〉の目が赤く赤く耀いている。〈バルタザール〉のように。

狩猟頭グラン・ヴヌール……シスターのこと……?」

「オマエ……ハ…何ヲ、シニ来タ……」

「わ、わたしはーー」

 きみがサン・ジャン教会にやって来たのは、未明の激痛のせいだった。何かおぞましいモノに変容しつつあるきみの左足。シスターならばその対処方法を知っているのではないか? 本音では二度と此処に近づきたくなどなかったが、こんな〈異常事態〉への対処方法を識るであろう人物は、シスターしか浮かばなかった。

 きみはゴクリ、と唾を呑み込んだ。シスターが持っているであろう叡智ソフィーには、きみの〈人生〉ーーまさに人類ヒトとしてのーーがかかっているのだ。意を決してきみは話しかけた。

「シスターはーーどこに?」

 それまで身動ぎひとつしなかった〈スファンクス〉が、ブルッと身をよじった。

狩猟頭グラン・ヴヌール…ハ……〈ビヤーキー〉ニ……連レ去ラレタ…」 

 〈スファンクス〉のーー確か名前をアニュビスと言ったかーー話を聞いたきみは頭の中で情報をまとめた。

 五日前、きみへの説明を切り上げたシスターとアニュビスは、アントワーヌ市の中心部から、二〇キロメートル東南に位置する空港に向かった。

 この日、空港にはある劇団コンパニー・ドゥ・テアトールが到着したのだった。劇団コンパニー・ドゥ・テアトールの名前を聞いてきみは、心臓が一気に跳ね上がった。その劇団コンパニー・ドゥ・テアトールは、きみがキャルと観る約束をした聖誕祭ノエル特別記念公演のためにやって来た団体だったからだ。

 シスターとアニュビスは、空港と市街地を繋ぐ幹線道路に狙いを定めた。シスターが、劇団専用に市が手配した空港連絡バスナヴェットを追跡し、待ち伏せしたアニュビスが挟撃する。そういう手筈だった。

 だが二人が攻撃を開始した瞬間、四方から雲霞うんかの如くおびただしい影が沸き上がった。真一文字に影ーー〈ビヤーキー〉の群れーーが向かって来るのを見て二人は、自分たちが罠に嵌まったのを知ったのだった。


狩猟頭グラン・ヴヌール……ガ…何処ニ……居ルノカ……判ラナイ…」

 乱戦によって二人は分断され、相手の所在がつかめなくなった。さらに凄まじい突風ラファールがにわかに吹き出した。目も開けられないほどの風は逆巻き、やがて災害カラミテ級の巨大な竜巻トルナードになった。シスターはその、〈意思ある竜巻トルナード〉に拐われたという。

「〈意思ある竜巻トルナード〉……?」

 きみの疑問にアニュビスはよく答えなかった。ただ〈敵〉は風とその眷属サルヴィタールだと繰り返すばかりである。

 とまれアニュビスの方は、追い縋る〈ビヤーキー〉どもを何とか振り切った。しかし深手を負ってしまい、郊外農村部にある森の中で隠れていたという。

 ようやく動けるようになってから教会に戻り、シスターを探したが、彼女の行方はようとして知れなかった。

「ええと、その……あんたらは魔法っていうか、いわゆる精神感応テレパティーみたいので喋れたりするんじゃないのか? 前に彼女がそんな風にしてたけど……」

「判ラナイ……呼ビカケテモ…狩猟頭グラン・ヴヌール…ハ…答エナイ……」

 いささか途方にくれている様子のスファンクスにきみは、ようやく恐怖心が薄らいできた。絶対に口に出しては言わないが、飼い主ル・メートルの不在に悄気かえっている忠犬に見えなくもないからだ。

 そのとき、きみの脳裡に閃光が走った。

(ーーGPS追跡装置!)

 〈ビヤーキー〉のヴァンに取り付けようとして失敗し、ポケットに突っ込んだはずの機器だが、上着を探しても見つからなかった。何処かに落としてしまったらしいが、それはひょっとしたらーー。

 きみは携帯電話を出して、アプリを起動する。だがアプリ画面にはなにも映し出されなかった。当たり前だが、向こうがオンになっていないと画面には現われてこない。あのとき自分が装置の電源入れたことは覚えていた。その後、パワーを切ったろうか? まったく記憶に無かった。

 きみはいったん倍率を最大範囲まで下げる。アントワーヌ市の全図に切り替わった。だが光点は現れない。きみはがっかりしたが、別の手を試すことにする。このアプリには、過去の位置情報のログがしばらく残っているはずだ。

 操作をすると、ログが出てきた。日付は十二月十五日、きみが〈ビヤーキー〉のヴァンに取り付けようとした日だ。電源を入れていたので当然である。

 ログの位置情報を地図上に並べる。するとあの後、装置が移動しているのが判った。期待で胸が高鳴る。移動経路を見てきみは、快哉かいさいを叫んだ。位置情報はここサン・ジャン教会まで来ていた。どうやら追跡装置は、シスターの車の中に落ちているようだ。アニュビスが訝しげにきみを睨んだ。きみは彼に順を追って説明した。

「今現在、装置は反応してない。バッテリーは五日くらいしかもたないから当然だけど、ログを見ると……あんたらが敵と交戦したときもその後も位置情報は繋がっている。そして、しばらくしてから途切れたみたいだ」

「ソレハ……何ヲ…意味スル……?」

「おそらく……連れ去られたシスターがどこかの場所ーーたぶん地下ーーにそのまま車ごと閉じ込められているんじゃないか……と思う。かなり希望的な観測だけど」

 アニュビスの双眸そうぼうが、鬼灯のように煌めいた。どんなに望み薄であっても、万にひとつの可能性にも賭けたいにちがいない。

「ソレハ……何処ダ…」

「ちょっと待って……」

 きみは徐々に画面の倍率を上げていき、ログが最後に途切れた場所を特定しようとする。少なくとも教会でないのは間違いないし、きみの家でもない。

 そこはーー。

「〈イルーニュ・タワーズ〉?」

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