第19話

19、

 四辺を通りに囲まれたその広場は、国有鉄道の駅から北へ二十分ほど歩くと、石造りの灰色の建物群の真ん中にたち現れる。

 いびつな台形を成す広場は、木蓮の並木でぐるりと囲まれていた。通り沿いのカフェはみな、広場を望むテラスに席を設けていて、春にはそこに座って紫や白や黄色の花を人びとは愛でるのだった。しかしいま木々は、白い綿毛のような冬芽を、枯れ枝の先に揺らしているだけだった。

 南側には、ささやかな噴水や街のインフォメーションがあり、アントワーヌ市のシンボルと言える〈小さな王子ル・プティ・プランス〉の像なども置いてあるが、北側は、がらんとした拓けたスペースになっていた。人々はそこで、芝生の上をのんびりと歩いたり、ボール遊びをしたり、ベンチで読書したり、思い思いに過ごすことができるようになっているのだった。

 芝生の傍の一画にある巨大な青銅製の騎馬像を、きみは眺めている。銅像そのものも大きいが、それの乗った石の台座がまた大きい。見上げると、青空に雄壮な国王の姿が浮き上がる。

 この日も、長閑な日和だった。台座の周囲は、待ち合わせの目印にしているとおぼしき人びとが散見された。

 たった今そこに、グレーのコートを羽織った中年の男が加わりきみは、手元の携帯電話に目を落とした。やって来たのは、ジャン=ポール・アルシェ医師である。医師は、相変わらず目を血走らせ、梳かしつけていない髪は上等なコートに相応しくないほど乱れているようだった。

 医師を呼び出したのはきみだった。正確には、きみの依頼によって〈小さな王子ル・プティ・プランス〉(もちろん人間の方の)が、医師が出て来ざるを得なくしたのだった。

 彼を揺さぶるにあたって〈小さな王子ル・プティ・プランス〉が用いたのは、かなり大時代的な手段だった。紙に新聞から拾った活字でしたためた、アナログな脅迫状である。「こう言うのが今でも案外と元をたどり難いんだ」、と〈小さな王子ル・プティ・プランス〉は言っていたが、怪しいものだ。古いフィルムノワールじみた手口を楽しんでいたとしか、きみには思えなかった。

 文面は医師の違法行為ーー検視の不正ーーと、その淵源である息子トーマの犯罪を告発しているものだ。そして、このことをバラされたくなければ広場にカネを持ってくるように、とお定まりの指示をしてあった。事実無根であれば、脅迫罪及び名誉毀損に該当するのは間違いあるまい。医師が警察に通報し、すでに捜査が開始されていてもおかしくはなかった。或いは頭のおかしい奴マブールのたわ言として無視されるか。

 いずれの可能性も捨てきれなかったが、案に相違してアルシェ医師はやって来たのだった。そして警察に通報した様子もない。

 彼は台座を囲む鉄柵に寄りかかり、落ち着きなく辺りを見回していた。周囲にいるすべての人間が怪しく思えてならない、そんな表情だった。携帯電話をいじりながら近づいて来たアフロヘアの若者を、通りすぎた姿が見えなくなるまで睨みつけていた。

 きみは台座の近くの横長のベンチを、着ぶくれしたお年寄りと分けあっていた。手元の携帯電話から、まったく顔を上げなかった。被ったキャップのカメラで医師の様子を撮し、それを携帯電話の画面で見ていたのだった。

 画面の中の医師は、指定の時刻が過ぎても誰も接触して来ないので、見るからにイライラとしてきているようだった。何度か懐に手をやって、送りつけられた紙片を取り出した。文面の時刻を何度も確認しているのだろう。

 実のところきみは、内心焦りまくっていた。医師を呼び出すのは、ただの準備段階にすぎない。このあと発動する予定の仕かけこそが本命なのだが、それにたどり着けるかどうか。

 医師はどれくらいこの場所で我慢するだろう、ときみは彼を眺めて推測する。二十分か、三十分か。いずれ悪戯と判断して引き上げてしまうのではないかーー。

 じりじりと、神経を磨り減らすような時間が流れた。

 三十分が経ち、医師が痺れを切らしたように見えたとき、それが起こった。

 広場に、にわかにサイレンが鳴り響いた。そぞろ歩いていた人びとが、何事かと立ち止まり、周囲を見回す。

 ひとりの女性が連れの男性に話しかけ、広場の一隅を指差した。指した先の通りに、青いランプの光が瞬いている。警察車両のランプだ。

 それを見た医師の表情がみるみる歪んだ。医師は矢も盾もたまらない様子で、ランプの光っている方に駆け出した。

 きみはそれを確認してアプリを止め、ベンチを立ってあとを追う。

 そこは広場の北東の端だった。近づくにつれ、十字路になっている交差点に、数台の警察車両が詰めかけているのがわかった。警察車両はバリケードのように通りを塞ぎ、停めさせられた通行車両からドライバーが出てきて文句を言っている。それを警官が遠ざかるように大声で指示していた。突然の緊急事態に、周囲は騒然となった。

 四方から警官が、SUV車に乗っている男に拳銃を向けていた。屈強な二人が、車内から男を強引に引っ張り出す。それを見て医師が、半狂乱になって喚いた。

「やめろ! トーマ! トーマ!」

 ドアから、白いセーター姿の男が両手を上げて出てきた。男は、トーマ・アルシェだった。警官がSUVの車内に手を突っ込んで、拳銃を押収した。

 歩道に膝立ちで、両手を後頭部で組まされていたトーマは、従容しょうようとして無抵抗に見えたが、にわかに身を捩り出した。手品師のような手際で、身体のどこからかペン状の物体を取り出す。ギラリ、とそれが陽光に煌めいたのを見てきみは、全身の血がスウッと下がったようになった。

(マズイッ!)

 それは小型の注射器で、あれがトーマのくびに刺さると、変身メタモルフォーゼが起こってしまう。きみは己の浅慮に胸が苦しくなった。〈ビヤーキー〉にはこれがあったのだ。

 だがさすがに、凶器を見逃す警官ではなかった。きみが駆け寄るより速く、すかさず警棒が振られ、注射器を叩き落とす。それが道路に落ちて砕けた。黄金色の不気味な薬液が、アスファルトに飛び散った。トーマは多数の警官に組み敷かれ、道路にうつ伏せに倒された。警棒の打撃が、容赦なくトーマに降り注いだ。

「乱暴するな! わたしの息子だぞ! やめるんだ!」

 警官に食ってかかったアルシェ医師も、腕を捻り上げられ拘束される。それを尻目にきみは、その場を離脱した。

 広場を背に通りを突っ切り、一ブロックほど歩いてから、ファストフード店に入る。きみとは逆に、捕物騒ぎを見物しようと出て行く客とすれ違う。

 Mサイズのバニラシェイクを買ってきみは、安っぽいのプラスチック製の席に座った。チュルチュルと甘くドロドロとした液体を啜り込んだ。店のガラス越しに、混乱する通りの様子が見てとれる。

 まだ心臓がドキドキしていた。

 きみの仕かけの要諦は、アルシェ医師ではなく、息子のトーマを狙った点にあった。きみが脅迫状を送れば、今までの〈ビヤーキー〉の行動パターンからして、必ず脅迫者を消しにくると踏んだのだ。

 人目のある場所で直接襲うことはないだろうが、相手を尾行するなりして拉致し、仕留めにくるだろう。何にせよトーマを引っ張り出すことができるのではないか。

 賭けだったのは、その際にくだんの拳銃を携行してくるかどうかだったが、きみはかなりの割合で拳銃を持ってくるだろうと考えた。脅迫者がどんな人間で何をしてくるか判らないため、確実に仕留めるためには拳銃を準備しておくにしくはない。

 脅迫状を送りつけた上できみは、警察にも嘘の通報をしておいた。〈小さな王子ル・プティ・プランス〉を使い、痕跡を辿れない方法で国家警察の情報提供窓口サイトに報せたのだ。指定時刻に広場で銃の乱射が行われる可能性があるという内容であり、犯人の容貌としてトーマ・アルシェの外見を添えてある。

 あまりに具体的なので、たとえ悪質な悪戯を疑ったとしても警察は、人員を派遣し警戒せざるを得ないだろう、と〈小さな王子ル・プティ・プランス〉は読んでいた。職務質問で、トーマが警官の目に留まったらーー。

 首尾よくいくか判らない仕かけであったが、運がよかった。或いは謀殺に成功し続けているトーマが油断したのかもしれないが。

 ズズズズズズーーときみは、バニラシェイクを吸いきった。つくづく自分の見通しが甘かったのを思い知らされていた。

 現実に拳銃を持った男が警官に組伏せられている場に遭遇してみると、本当の乱射事件が起こらなかったのが僥倖に思えてくる。それにあの注射器のことを失念していた。

 きみの浅はかな行為で被害者が出てしまったら、悔やんでも悔やみきれなかったろう。その中にアンのような子どもがいたならーー。

 きみは今さらながら、手足がガタガタと震え出したのだった。

 

 その日の晩きみは、さんざん迷ったすえに、ダイナー〈カンサス〉に立ち寄った。

 ケイジャン・チキンを挟んだバーガーと、山盛りのオニオンリングをジンジャーエールで流し込みながらきみは、タイミングを計りかねていた。

 コーヒーを頼むついでを装って、キャルに話しかけた。

「なあ、キャルーー」

「うん? なに追加オーダー?」

「いや、あのーー。いま何か欲しいものとかあるか」

「え……」

 どういうこと、とキャルがきみを見つめる。思いがけず真剣な眼差しに、きみは我知らず、どぎまぎする。

「い、いや。このあいだ、具合が悪かったときにスープをもらっただろ。だからお礼をしたくってーー」

 ふい、とキャルが顔を背ける。気を悪くしたのか、ときみの心に不安がきざしたころ、キャルが満面の笑みで振り向いた。瞳が耀いて、頬がうっすら染まっている。きみは心拍数がにわかに跳ね上がった気がした。

「うれしいーー」

 ちょっと待ってて、とキャルはバックヤードに飛んでいった。すぐに駅前で配っているフリーペーパーをつかんでやって来て、きみの隣のスツールに座る。開いたページには、〈アントワーヌ市主催・聖誕祭ノエル特別記念公演〉の文字があった。

「これは古代文明博物館の……」

 キャルは頷き、あそこの隣の古代劇場で開催されるイベントだと説明する。開催日は十二月二十四日の木曜日午後八時とある。

「これ……一緒に行ってくれへん?」

 こんなに決まりが悪そうにしているキャルを見たのは初めてだった。それが含羞はにかみの表情と気づいてきみは、これまで以上に狼狽えたのだった。

 

 盟約に従い、ラナ皇女はシン王子の后となる。しかしすぐにシン王子は、ラナの心が未だコウの許にあることを知る。王子の心は暗く沈む。沈む。

 新婚の后を残し、シン王子は王宮のはずれ、東の塔にこもるようになる。東の塔には代々の王が求めた膨大な書物や道具類が収められている。古今東西の叡智の結晶だ。

 王子は最も下賎な身分の娘を妾に仕立て上げ、身のまわりの世話をさせる。気立てはよいものの、取り立てて美しくも賢くもない娘。気に入ったわけではもちろん、ない。誰でもよかったのだ。王子は娘以外の誰とも顔を合わせず、興味の赴くまま書物を読み漁り、やがて、ある研究に没頭するようになる。古い古い隠された知恵を用いた魔術道具の開発である。

 しばらくして、東の塔について様々な恐ろしげな噂が囁かれ始める。深夜に世にも呪わしい呻き声を聞いたとか、尖塔の先に怪しげな蒼い光が瞬いたとか。シン王子自身が怪しげな機巧で空を飛ぶ姿をみたという者まで現れた。いかがわしい隊商が出入りし、大量の実験道具と動物たちを持ち込んだ。家臣たちも、父君でさえも、塔には近づかない。ただ一人通うのはくだんの娘のみ。

 王子は娘に言う。「お前もオレの道具の一つだ」娘は答える。「仰せのままに」「オレが恐くないのか。皆がオレを忌み嫌い避ける。お前はどうしてオレの元に居られる?」「御心のままに。私は命尽きるまで、ラオ・ファン・シンの道具で御座います」ふん、と王子は鼻を鳴らす。「傀儡でくみたいなやつだ」王子の罵りも、娘は無表情で受け止めるのみ。

 時折、王宮に王子が姿を現す。この頃から王子の容色は変化を見せ始めた。昼夜を問わず部屋に閉じもっているため、肌は青白く生気がない。身体の周りには醜い肉が付きだしている。瞳は曇り、髪は油染みている。幽鬼めいた姿に、王宮の誰もが道を開ける。

 コウ王子はそんな兄を温かく迎え入れる。周囲の崇拝にもかかわらず、コウ王子はあくまでも慎ましく控えめで、兄を立てることを忘れなかった。「そんなに御こもりになってはお体に触ります」「お前にはその方が都合がよいのではないか」兄の皮肉に、弟は心底悲しそうな顔を見せる。その真っ直ぐな瞳に兄は深くたじろぎーー逆上し、苦痛を感じ始める。破滅の時は近づいている。

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