第16話

16、

 夢を見た。夢特有の不条理な論理できみは、主人公でもあり、自分を客観的に眺めている観客でもあった。

 主人公のきみは、得体の知れない敵に追い詰められていた。

 観客のきみには、出来レースのようにストーリーの先が読めた。

 主人公のきみは悪い方、悪い方へと面白いように流されていった。目隠しされた馬が全速力で崖へ向かって疾駆しているようだった。止まれ、という観客のきみの声は届かなかった。

 その先にはーー。


 朝はあっという間にやってきた。不快な音が意識に差し込んでくる。

 ベッドから這い出して、アラームを止める。こびりついた悪夢の残滓が急速に引いていったが、心臓はまだ強く脈打っていた。眠った気がまったくしなかった。再びベッドに戻り、ぬくぬくとした布団に埋もれる。つらつらと思考が頭の中を横切っていく。

 起きたくない、と痛切に思った。それで悪いことなど何ひとつなかった。有給休暇はまだあるし、調査は手詰まりだった。会社できみのやるべきことといえば、デスクの整理の続きだけだった。身体はまだとても本調子とは言えず、昨日はキャルのスープしか口にしていない。と、きみのお腹が、本来の役割を思い出したかのように鳴った。仕方なくきみはベッドから這い出す。トイレに向かう。

 ふとそれが目に入った。手前の洗面所で、長い間きみを一喜一憂させてきたそれが。ドラムロールがどこからともなく鳴り響き、きみはそろり、と体重計に足を乗っけた。

 おお、ときみは快哉を上げた。目盛りが二つほど下がっていた。この一歩は小さいが人類にとっては……いやいや、きみにとっては偉大な躍進だ。俄然、気分がよくなってきた。

 

 会社のエレベーターに調整中の札がかかっていたので、階段を上がるしかなかった。朝の気分はよかったはずだが、一段足を上げるごとに、身体が回復していないことを思い知らされた。息が切れ、各所の痛みがぶり返してきた気がする。気息奄々のきみは、パーティションに向かう途中でベリルに呼び止められた。

「いい所で会った」

 彼女はメモ用紙の切れ端をきみに手渡した。明日の夕方に、有志で送別会を開いてくれるとの事。

「それと、シャウテンという方からあなた宛に電話があった。あなた、昨日、携帯電話の電源をオフにしてたでしょ」

 〈ビヤーキー〉から再びコールがあるのを恐れて電源を切っていたきみは、ばつが悪くなる。

 シャウテンっていうと……ときみは頭を廻らす。思い出した。ダヴィドの事故現場近くのワンコおやじだ。何か思い出したら、と名刺を置いてきたので、律儀にも連絡してくれたらしい。

「こちらから折り返しさせます、って伝えたんでお願いね」

「わかりました」

 適当な理由をつけてきみは、会社を飛び出した。


 色々ありすぎて、久しぶりにダヴィドの事故現場にやって来たきた気がする。シャウテン企画に電話を入れたが不在のようだったのできみは、ひとまず、ガソリンスタンドの休憩スペースに立ち寄った。

 例の愛想のないにゃんこ親爺が、カウンターの客と喋りながら、カップを洗っていた。

 ここのところ立て込んでいて、シュゼットの依頼の方がお留守になっていた。約束の期限にはまだ少し間があるが、初めての依頼がこの有様では、独立など絵に描いた餅だ。まったく明るい未来だ。きみはため息をついた。

「そういえばどうだい、最近は」

 一人きりの客が親爺に親しげに話しかけた。

 んあ、と親爺が返事ともいえない返事をした。

「どうって何が」

「ホームレスだよ。ホームレス。残飯を漁りに来てた。この前も、えれえ、怒ってたじゃねえか」

 どうやら親爺は、誰かれ構わず愚痴っているらしい。親爺はぞんざいに手を振った。

「近頃はとんと見かけねえなあ。せいせいすらあ」

「そんなこと言って、ほんとはちっと寂しかったりしてな」

 客が間延びした声で、揶揄からかうように言う。親爺は不機嫌な表情で気色ばんだ。

「馬鹿言うない。あいつのあの赤帽シャポー・ルージュを見ると、ムカムカするんだ!」

 うへえ、と客が肩を竦めた。

 陽光が、埃の落とされていないガラス越しに差し込み、店内を黄色っぽくしていた。他に客の入ってくる気配はなく、誰もそのことを気にしていなかった。

「あのう、すみません」

 気がつくときみは、二人に話しかけていた。突然割り込んできたきみに二人は、不審な表情を向けた。

「その赤帽シャポー・ルージュってのは何のことですか?」

 まさかと思いながらも訊ねずにはいられなかった。親爺は無遠慮な視線できみをじろじろと眺めた。この前、あれだけ喋ったのに、きみの顔をまったく覚えていなそうだった。親切そうな客が答えてくれた。

赤帽シャポー・ルージュってのはよ、前にここらでよく見かけたホームレスのことだあ。いっつも赤い帽子を被ってるんで、俺らが勝手に渾名をつけたんだ」

「それって、確かえらく痩せてる人じゃなかったですか? 両手に紙袋を二つずつ下げたーー」

「そうそう、よっくこの店のゴミ箱漁りに来てたな」

 きっと味音痴にちげえねえ、と客はからから笑った。どういう意味だ、と親爺が睨んだ。

 きみはそれ以上聞いてはいなかった。馬鹿な。赤い帽子を被ったホームレスなんて星の数ほどいる。だがきみは思い出していた。赤い帽子のホームレスの行方を。


 午前のまだ早い時間とて、公園にひと気は少なかった。バロー事件の調査で聞き込みをした公園である。今日は曇が多く陽が翳って寒ざむしい。冬枯れた芝生は、灰色がかった絨毯のように広がっている。

 敷地の隅に、葉を落とした枝と枝にロープを渡してビニールシートを張った壁が作られていた。もちろん屋根もちゃんとある。壁の一部に切れ目があって、そこが玄関ということらしかった。

 傍によると、独特の臭気とアルコールの臭いの混ざった異臭が、ツンと臭った。シートの中から、ごうごうという鼾が外まで漏れ出していた。恐る恐るシートをめくる。臭気が強くなった。きみは必死に口で息をした。

 確かに、この前のホームレスが横になっていた。枕元にはトレードマークの赤いキャップと安酒の壜が並んでいる。いったんシートを閉め、息を吐き出す。

 さて、ときみは考える。

 彼がダヴィドの事故現場にいたという確証はもちろんない。仮にいたとしても、何かを目撃したかもしれないし、してないかもしれない。目撃していても覚えていないかもしれない。だが、他にきみが出来ることもなかった。きみは一旦駅前に戻ると、酒屋の袋を抱えて公園に舞い戻った。

 覚悟を決め、シートの中に入る。散々躊躇った挙句、手で男を揺すった。反応はない。さらに激しく揺らす。男は呻き声を上げて、寝返りを打った。

「起きてください」

 なおも話しかけていると、ようやく男が薄目を開けた。しばらく焦点の合わない視線を泳がせている。そのうちきみを認めたらしい。「あんた誰だ」と言った。しゃがれた声だった。

「勝手にお邪魔してすみません。聞きたいことがありまして」

 しゃがみ込んで、袋を掲げた。これには興味を示したようだった。男は、のそりと上半身を持ち上げた。

 伸び放題の髭が髪と繋がって顔全体を覆ってしまっていた。彫りの深い造作で、大きな鷲鼻が突き出ていた。肌には汚れが黒くこびりつき、瞳はおそらく酒毒で濁っていた。男は無造作に袋に手を伸ばした。きみはそれを引っ込めた。話が先です、ときみは宣言した。

「なんだ、聞きたいことってのは」

 不満そうに男が言った。

「あなたひょっとして、ここに来る前は、東部郊外のミンスターの辺りにいたんじゃないですか」

「ああ」

「あそこの角のガソリンスタンドの親爺さんが、あなたの話をしているのを聞いて思い出したんです。以前ここであなたを見かけたことがあったもので」

 親爺の名が出ると、男はあのクソオヤジと、毒づいた。

「おいらが残飯を取りに行くと目の色変えて追っ払いやがる。なんで毎日そんなに残飯が出るのか考えて見ろってんだ」

 どうやら味音痴でないことは確からしい。

「それでちょっと質問したいことがあるんですよ、赤帽シャポー・ルージュさん」

 男は露骨に嫌そうな顔をする。

赤帽シャポー・ルージュなんて呼ばんでくれ、腹の立つ。これでも仲間内じゃあ軍曹セルジャンで通ってるんだ」

軍曹セルジャン? 何でまた?」

「陸軍にいたんだよ。ーーリストラされたんだけどな」

 ご同輩というわけか。きみはげんなりした。気を取り直して本題に入る。

「二ヶ月近く前なんですが、あのスタンド前の交差点で、トラックの横転事故があったのをご存知ですか」

「ああ、ありゃあ凄かった」

「見たんですか?」

 一気に期待が膨らんだ。軍曹はずるそうな目できみを見た。仕方なく袋を差し出した。男は袋を覗き込むと満足そうに手元に置いた。

「で、軍曹セルジャンどのは、どこにいらっしゃったんですか」

「ガソリンスタンドの裏だ。いつもみたくゴミ箱を覗いてたんだ。んで、はじめに、ぱぱんて小さな音がした」

「音?」

「何だ? って思う間もなく、今度はどーん、てどえらい大きな音がしてスタンドの向こうが明るくなった。慌てて表に回ってみたら、あのトラックがすっ転んでおったわけだ。で、またぱぱんて音がした」

「ちょっと待ってください。その最初と最後の小さな音って何だったんですか。間違いなく聞いたんですよね?」

「信じないのか」

 軍曹は途端に不機嫌になった。いえ、そうじゃありません、ときみは慌てて取り繕った。

「ですがお話を聞くかぎり、その音ってのはまさか……」

「あー、ありゃあ、銃声だな」

 銃声だって? きみは混乱してきた。

「トラックは元々少し燃えてたんだが、それで完全に……」

 ぼん、だ。軍曹は手のひらを上に向けて開いて見せた。

「それ、パンクの音とか、バックファイヤー音とか、別のものが破裂した音ってことはありませんか」

「ないね」

 軍曹はきっぱりと言い放った。

「どうしてそう言い切れるんです?」

 どうしても、疑わしい心持ちになる。

「こう見えても軍で二十年飯を食ってたんだぜ」

 馬鹿にするな、とでも言うように、苦々しげに吐き出した。

「セミオートマチックの拳銃だよ。間違いないね」

「でもーー射撃の結果だとしたら痕跡が残るんじゃありませんか? タイヤだとか、どこかに」

「車は大破して炎上してるんだ、いちいち射撃痕を検出なんてするもんか」

 軍曹はあっさりと告げると、酒壜の封を切った。ぐびりとあおったとき、きみの携帯電話が震えた。手造りの家を脱出して、通話に出た。

「ブライチャートです」

(ーーマザランだ。今いいか?)

 はい、と言いながらきみは遊具の方へ歩いていった。エレファンを模ったそれは、鼻の部分が滑り台になっている。子供のいないエレファンはどこかうら寂しく、遥かな野生の地を想ってしょげ返っているようにも見えた。

 きみは鼻に腰かけた。まさか業務外の個人的な調査をしているとも言えずドキドキしたが、マザランは特に突っ込んではこなかった。

(ーーちょっと確認したいことがあってな。お前さん、GPS追跡装置を使ってないか? 磁石付きのやつだが)

 きみは本格的にドキドキしてきた。〈ビヤーキー〉を調べるつもりで磁石付きGPS追跡装置を持ち出したのだが、昨夜のゴタゴタですっかり頭から消えていた。そう言えばどこにいったのだろう。とっさに嘘をついてしまう。

「いえ、使ってませんがーー」

(ーーそうか、どっか別のところに紛れているのか……。マコーレン本部長がまた備品の数がどうとか、ごちゃごちゃ調べ出してるんでな)

 きみの適当な答えに納得したのかは判らないが、マザラン支局長はいったん通話を切った。

 きみは着た切りの上着のポケットをはたいたが、磁石付きGPS追跡装置はない。にわかに不安になってくる。〈ビヤーキー〉とあの〈スファンクス〉の戦闘に巻き込まれたときに落としたのだろうかーー。

 色々と重なってきみは、一瞬途方にくれた。頭を振る。一つ一つ片づけていくしかない。まずは、外出した用事を片づけてよう。

 きみはシャウテン企画に連絡を入れた。今度はすぐに出た。

(ーーああ、保険屋さん? あの後、例の屋台の親爺さんと会ったので、一応、連絡したんだよ)

「わざわざ、ありがとうございます」

(ーーそれで、親爺さんに聞いたところだと、特に何も見ていないらしいんだよね。というより、あの日、あの場所にはいなかったみたいで)

 何だ。まったくの空振りか。

(ーー親爺さん、あの日の夕方にどこぞの悪ガキに襲われて、ボコボコにされてたみたいでねえ。で、救急車で運ばれてたんで何も見てないと。酷い奴らもいるもんだねえ。でも警察も酷いよ。親爺さんが相手の特徴とか話してもあんまり真面目に取り合ってくれないらしいよ。大体さあ……)

 シャウテンの話は止めどない。しかし肝心な情報はきみが話を切り上げようとしたその後に出てきた。

(親爺さん目は悪いけど、しっかり見たらしいだよね。そいつら黒いヴァンに乗ってて、ハッチバックのバックドアに、三本腕の風車みたいな絵柄が描いてあったらしいんだよねーー)

 シャウテンの声がすうっと遠退いていった。悪寒がきみの背中を走り抜ける。

 きみの行く先々で死神ラ・モールが待ち構えている。三脚巴紋トリスケリオンを持つ〈ビヤーキー〉という名の死神ラ・モールが。

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