第15話

15、

 シスターは、きみの応えを待たずに話し出した。

「ブライチャートさんは、ハワード・フィリップ・ラヴクラフトという作家をご存知でしょうか?」

 その不思議な響きの名前は、つい最近耳にしたように感じたが思い出せなかった。

「すみません、生憎と本を読まないもので存じ上げないのですが……」

 彼女は困ったように首を傾げたが、仕方ないですねと肩を竦めた。

「昨夜の出来事の背景を知っていただくには、彼の作品をひもといていただくのが手っ取り早いのですけど……」

 そう言って彼女が淡々と話した中身は、常軌を逸したものだった。彼女によれば地球は、人類が登場する遥か以前、外宇宙や異次元や時空間を越えてやって来た異形のモノたちに支配されていたという。

「それは……恐竜とか、マンモスとかのことではなく?」

「いいえ。もっと恐ろしい、言うなれば〈ディユ〉と呼ぶべき存在です」

 それら〈神々ディユ〉は一枚岩ではなかった。神々は地球の支配権をめぐって互いにあい争い、殺し合った。神々だけでなく、神々を信奉するモノたちも、己の奉じる神のために殺し合っていた。きみは十字軍やジハードを思い浮かべて、いずこも同じだ、と独り合点したが、それが正しい理解なのかは判らなかった。

「人類が表面上、地球の支配者となった現代でもその闘争リュットは続けられています。昨夜、あなたがご覧になったように」

 ええと、ときみは困惑しながらも質問を続ける。

「それは小説の、虚構フィクションの話ですよね。小説家が書いたのですから……」

 きみを遮って、シスターが言う。

「そうであるなら、どれほどよかったか。しかしラヴクラフトの描いた物語は、純然たる小説フィクションではないのです」

 きみは絶句する。こんな馬鹿げた話など相手にするべきではない、そう思ってはいてもきみの中には、完全に否定しきれない何かがあるのだった。何故ならきみは現に、自分の目であの化け物モンストルどもを目撃しているのだから……。

 それでもきみは反論を試みる。

「その神々の〈闘争リュット〉とやらが、自分のような一般大衆レ・ジャン・デュ・プープルに知られていないのは、どうしてでしょう? 昨夜のような事件が起こったなら、ニュースなりで報じられて、世間一般に知れ渡っていないといけない気がするのですが?」

「それは、主に二つの理由があります」

 得たり、とばかりにシスターが答える。

「一つ目は、〈神々〉は今現在、眠っているか封じ込められているので、実際に争っているのは神々を奉じている種族や人間だけだからです。昨日のような闘いは世界各所で頻発していますが、神々自身の闘争に比べれば所詮は小競り合いに過ぎません。もう一つが、わたくしがここにいる理由わけに関わるのですが、〈神々〉の存在を世に知られないままにしておきたい人びとがいるのです……」

 シスターの話はそこからさらに、奇怪な、ほとんど妄想めいた陰謀論のようになっていった。

 

「ブライチャートさんは、〈恐怖の均衡エキリブル・ドゥ・ラ・テルール〉という言葉を聞いたことはありますか?」

「……また小説のタイトルか何かですか?」

「いいえ。イギリスの元首相チャーチルの言葉です」

 シスターは冷めたミルクティーに口をつけ、顔をしかめた。

「冷戦期の話ですが、軍事力の均衡エキリブルーーこの場合の軍事力は核兵器という意味ですけどーーを東西両陣営がとることで、報復によって自分たちが破滅する恐怖が双方に等しく生まれ逆説的に平和が生み出される、といういわゆる核抑止論が盛んになりました。ですがその当時、歴史の裏側で別のロジックに基づく、もう一つの〈抑止論〉が生み出されたのですーー」

「もう一つの?」

「詳細を省くとこんな概要になります。当時、国連で秘密の安全保障理事会が開催されそこで、世界各所において、〈神々〉を目覚めさせ人類を支配者の座から追い落とそうという〈神々の奉仕者〉たちの活動が観測されていることが、あらためて共通了解とされました。彼らにどう対抗するのか、それが安全保障の議題となったのです。しかし、さまざまな分析と検討の結果、人類の力ではそうした〈神々〉自身に対抗するのは不可能という結論に達したのです」

「そんな……」

 シスターの言う〈神々〉というモノがいったいどんな存在なのか、きみには判然としないので、話がまったく見えない。

「それは……通常の兵器では効かないということですか? 〈神々〉が、その、〈Gojiraゴジラ〉みたいな存在だから?」

 きみは有名なロック・バンドの名前の由来になっている怪獣映画フィルム・デ・モンストルのキャラクターを挙げた。

「当たらずとも遠からず、です。でも現実は、もっと恐ろしい。核兵器を含む大量破壊兵器ーーもちろん生物兵器も化学兵器もーー〈神々〉にはまったくの無力、無効なのです。それどころか、数万年に及ぶ人類の叡智が生み出したいかなる魔術的攻撃アタック・マジークすらも……」

 魔術的攻撃アタック・マジークとはまた聞き慣れない言葉だが、ハリー・ポッターがやっているアレのことだろうか。きみの脳裡に、青白い電撃を発している魔法の杖バゲット・マジークが浮かんだ。実際はもっと地味で、かつ隠微なものも多い。たとえばついさっき、きみの意識が攻撃に遭い、操られたように……。

 ふと気づいてきみは、余計な一言に口走ってしまう。

「失礼にあたるかもしれませんが、そうした魔女ソルシエール妖術ソルセルリのような力でなくてですね、その……」

 シスターが気づいて、にっこりと笑った。

ディユ御力ピュイサンスのことですね。わたくしもキリスト教徒クレティヤンの一人として主の御力ピュイサンスを信じております。ですが〈それはそれこれはこれ〉です」

 どうもはぐらかされた気がするが、きみは黙って先を促す。

「ともかく、安全保障理事会に集った各国はイデオロギー上の対立はさておいて、〈現実的〉な対処を考えました。決定された対処の一つめは、〈神々〉のことを人びとにできるだけ秘匿することでした。これは神々に対抗する力がどの超大国にも〈ない〉ことを隠して、国家の権威が下がるのを防ぐことと、それによって人びとが絶望に陥るのを防ぐという目的の二つがありました。人びとの絶望を防ぐのは、心理的な安寧のためではありません。〈絶望〉という負の感情が〈神々〉の霊的な糧になるのを予防するためです。対処の二つめは、〈神々〉に対する人類側の安全保障の骨子〈邪神抑止デイスウエイジャン・ホラー〉を実施することで……」

 彼女が続けようとしたとき、その気配が瞬く間に押し寄せ、部屋を取り囲んだ。もはや間違えようのないスファンクスの気配だった。

「ーーアニュビス?」

 シスターが何もない部屋の宙をながめ、話しかける。きみには判らないコミュニケーションが交わされているようだった。

 気づくと彼女は、ほっそりとした頸にかかっていた首飾りを取り出して指で摘まんでいた。その首飾りのペンダントトップは、奇妙な形をしていた。翡翠とおぼしき緑色の石を彫刻したもので、意匠はどこか東洋風を思わせる。だがなおよく見れば、刻まれているのは紛れもなく、あのスファンクスなのだった。うずくまり翼を備えたその像は、邪悪な獣性とでも言うべき厭わしい雰囲気を醸し出していた。

「……了解。すぐに向かうわ」

 きみに視線を戻すと彼女は、早口に詫びを述べた。

「申し訳ございません、ブライチャートさん。所用ができてしまいまして、話はここまでとさせていただきます」

「え?」

「車を用意しましたので、それでお送りいたします」

 あと、と彼女がきっぱりと申し渡す。

「再三ですが警告いたします。〈ビヤーキー〉から手を引くように。あなたに安らぎと智慧があらんことをーー」

 

 教会の玄関に停められていた自動車は、完全無人運転のセダンだった。きみが近寄ると後部座席のドアが自動で開いた。

 黒塗りの地味な車体で、初めて乗ったきみが期待していたような、とりどりのボタンや特殊な機器などは見当たらず、いたって普通の内装に見えた。もっとも出発すると、ハンドルだけがひとりでに動いていて、まるで幽霊が運転しているみたいでいささか落ち着かない。

 地下鉄の駅に着くと、AIとおぼしき音声が無機質に到着を告げ、勝手にロックが解除された。きみが降りると車は、さっさと立ち去っていった。

 ぽつねんとそれを見送った。

 スーツ姿の勤め人や学生風の若者が、駅前を行き交っていた。平日に休めたのに、ちっとも嬉しくない。風邪で家に居るのと変わらなかった。

 シスターはきみを手当てした際に鎮痛剤を投与してくれたらしいが、薬が切れてきたのか、今はしくしくと身体が痛み出してきた。きみは、家路を急いだ。

 アパルトマンに着く頃には本格的に痛みがしんどくなってきた。昼間に堂々と帰ってきたきみを、大家が見咎めた。小柄で愛想のいい老婆だ。いつもならば立ち話のひとつにもつきあうのだが、とてもそんな状態ではなくなっていた。どうしたんだい会社は? ちょっと体調が悪くて。それは大変だ、薬はいるかい。ありがとうございます、出来れば痛み止めを。

 親切な大家に箱ごと薬を貰った。よたよたとよろけながら自室に入る。冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して、鎮痛剤を流し込む。服を脱ぎ、着替える。ベッドに倒れこんだ。

 ズキズキという痛みが、まるで秒針が時を刻むようにきみに襲いかかった。カチ、カチ、カチ、カチ。じっと堪えていると、針の音が徐々に間遠になっていった……。


 目が覚めると、窓の外はすでに暮れなずんでいた。なんだか無性に損した気分だった。よく晴れた休日、起き出してみたら夕方だった、みたいな心持ちになる。あるいは、シスターに軽くあしらわれたせいかもしれなかった。


 次に起き上がったときは、本格的に夜が訪れていた。おそるおそる部屋の中を歩き回ったが、身体は随分楽になっている。キッチンで水を飲む。頭もクリアだ。不思議と腹は減っていなかった。

 きみはインスタントのコーヒーを淹れると、携帯電話で会社の調査報告システムに入った。そこでバロー事件のこれまでの調査概要をまとめる。

 化け物の話は当然省き、現場でギャング団アイヤール〈ビヤーキー〉の持ち物とおぼしきヴァンが目撃されたことを記入する。最後に、調査を継続するかどうかをマザラン支局長にはかった。警察に報告して手を引くようになることを願いながら。

 調査報告を終えるときみは、インターネットで〈血の風車ル・ムーラン・サングラン事件〉を調べだす。今朝きみが目覚めた場所について知りたかった。あっという間に数百件のヒットがあった。

 今でこそ下火になったものの、一時期この事件はアントワーヌのあらゆるメディアを席巻していた。新聞、ニュースショウ、週刊誌。生真面目に捜査状況を伝える続報から、殺された司祭のプライバシーをほじくりかえした扇情的な記事まで内容は多種多様だ。

 それに素人探偵たちの迷推理や一部のマニアによるトンデモ仮説の数々までが加わって、膨大な言説が飛び交っている。猟奇的な事件の様子はもちろんの事、どうやら教会エグリーズという組織は、その手のマニアの想像を掻き立てるらしい。試しに覗いてみると……。

 曰く、「教会は強大な権力を持ち、裏から世界を支配しようとしている」「いや既に支配している」といった陰謀説。さらに「教会は悪魔祓い師エクソシストを使って悪魔と戦っている」「いや教会こそが悪の総本山だ」などのオカルトめいた話まで、よりどりみどりだった。

 きみはそれらを斜め読みしていった。ある記事では第一発見者のコメントが取り扱われていた。ダニエル・ヴァンドスレールというその老人で、この世のものとは思えない光景について語っていた。バラバラにされ、三脚巴紋トリスケリオンに並べ直されていた死体の凄惨さもさることながら、現場はまさに黒魔術の儀式のような装飾がなされていたようだった。燭台やチョークで描かれた魔法円や動物の肢を切り取ったオブジェが置いてあったのだと言う。

 また、とある週刊誌は、アンリ・ニエマンス司祭の評判に関して次のように載せていた。

〈……この司祭様が亡くなって信徒が悲しんだかというとそうでもないらしい。司祭様がこの教会に着任したのは事件の一ヶ月前なのだが、ミサはすっぽかすわ、倣岸な態度で信徒に接するわで、評判はあまりよろしくなかったと信徒のひとりは語った……〉

 どこまで本当なのか、教会組織の内情に言及している文章もある。それによると、ニエマンス司祭は、数年前に亡くなった元大司教の息子で、現枢機卿の弟ということだった。優秀な兄に比べ出来の悪い弟は一家のお荷物だった。アントワーヌ市にも半ば左遷されたように来たらしい等々。さらに珍妙で荒唐無稽なものもある。ニエマンス司祭の所属していたのは教皇庁直属の「教理聖省」という組織なのだが、この部署は古来より連綿と異端と対峙してきた恐ろしい機関なのだ……。

 段々とアホらしくなってきたきみは、ネットサーフィンを切り上げた。

 と、手の中の携帯電話が着信音を奏でた。きみはよく見ずに反射的に通話ボタンを押す。

(ーーバズ・ブライチャートだな?)

 聞いた事のない声だった。まだ若い男の声だ。名前も名乗らず、無礼な奴だ、ときみは思う。

「そうですけど、どなたですか?」

 しばしの沈黙。やがて、クスクス、と無邪気にも思える忍び笑いが流れた。無邪気ではあるが、物が擦れるような嫌な感じの笑い声。

「誰なんです。切りますよ」

(ーーいや、あんたは電話を切れない)

 屈託のない喋りで相手が言った。

(ーードゥーム通り二〇八番地)

 このアパルトマンの住所だ。不意に胸が痛くなった。心拍数が一気に跳ね上がったのが分かった。見えない相手が自分の住所を知っているのが、こんなに気味が悪いものだとは知らなかった。だからなんだ、ここへ来てみろ、そう怒鳴ってやりたかった。しかしきみの口は凍りついたままだった。

(ーー探偵なんだって? 色々嗅ぎ回らないことだ。今度は怪我じゃすまなくなる)

 男ーー少年かもしれないーーの口調は脅し文句風ではなく、まるで仲間相手にお喋りしているような感じだった。それだけに一層、不気味さが際立った。

「嗅ぎ回るって何のことだ?」

 きみはようやく答えた。

(ーー椅子に座ってるのかバズ。それともベッドの上か)

 無視して男は続けた。

(ーーデスクの上に写真があるな。可愛い女の子だ。娘か?)

 今度こそきみは悲鳴を上げかけた。デスクの右前に写真立てが倒してあった。慌ててそれを持ち上げる。写真は入っていた。まだあどけないアンの笑顔。きみの口はからからに渇いていた。

(ーー俺たちはどこにだって行くとことが出来る。俺たちは〈魔法使いソルスィエ〉なんだぜ)

 気をつけるんだな、と笑い唐突に電話は切れた。

 きみは力なく携帯電話を切った。ふらふらとベッドに座り込む。まだ心臓は警戒警報を発し続けている。

 きみは自分が息を止めていたことに気が付いた。ゆっくりと、吐き出した。片手を額に当てる。油汗が吹き出ていた。目を瞑って今さっきの会話を反芻した。何がどうなったって? 思いついて立ち上がる。

 昨夜着ていた上着を探った。あるはずのものがそこには無かった。もうすぐ役に立たなくなる名刺入れが。そうだ。次にきみは携帯電話を取った。ケイトに電話するべきだろうか。しかし携帯電話の番号は登録を抹消していた。未練が残らないように自分で消したのだ。番号を必死に浮かべるが、まったく浮かんでこなかった。

 くそっ、どうして肝心なときいつもこうなんだ。きみはメモ帳やノートを片っ端からひっくり返した。檻に入れられた動物みたいにあてもなくうろうろと歩き回る。見つからない。きみはパニックを起しかけて、手にした物を部屋中に放り投げた。

 待て待て、落ち着け。意識して息を整える。冷静に考えよう。きみが二人を最後に見たのは彼女たちが出て行った日、空港のロビーでだった……いや待てカフェだったか……。

 じっと考え込んでいるうちに、別の考えが浮かんできた。連絡先の番号が見つかったとしてーー実際のところなんと言えばよいだろう。もはや電話の相手が〈ビヤーキー〉であることは疑いがない。きみはこう警告するべきなのかもしれない。やあ久しぶりだね、ケイト。いや大したことじゃないんだけどね。最近、ギャング団アイヤールに脅されたんだ、君もアンも気をつけてくれ。

 ーーだめだ。

 てんで説得力のある科白とは思えなかった。きみが元妻でもこう思う。元夫が、娘会いたさに約束を無視して電話をしてきたのだ、と。

 そしてすぐさま弁護士に連絡を取るかもしれない。そうなればきみは永久にアンに会うことは出来なくなるだろう。きみの手が力なく下がる。歩みがのろのろと減速していく。椅子に座り込んだ。

 安全に思えた自分の部屋が、急によそよそしい場所に感じられた。

 そのとき、部屋の呼び鈴がけたたましく鳴り響いた。きみは思わず飛び上がりそうになった。心音が耳の奥で脈打っている。

 深呼吸をしてからきみは、玄関にそっと近づき、ドアスコープを覗く。

 キャルが立っていた。全身の力が抜けた。

 扉を開けると、頬っぺたが真っ赤になったキャルが、荷物を抱えている。キャルはきみの顔色を見て、安堵の表情になった。

「……ベリルに聞いたの。体調が悪くて休んでるって。これ、よかったら食べて」

 キャルの差し出したのはピクニックに持っていくようなラタンのバスケットで、中には布に包まれた小鍋と瓶が入っていた。

「……スープを作ったの。あとホットワインヴァン・ショーも。アルコールは飛ばしてあるから、〈ぷよくんモン・グロ〉でも飲めると思う。温めて食べて。お大事に」

 きみにバスケットを渡すとキャルは、踵を返して足早に去っていった。いくぶん照れたような様子が、いつまでもきみの心に残った。

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