第12話

12、

 それから二日があっさりと過ぎた。

 きみは日中、例の保険外交員アルベールを尾行する一方、空いた時間でセルニール&バーネット運送や、交差点の辺りに足を運んだ。

 前回、話を聞きそびれたドライバーにダヴィドの様子を教えてもらう。念のため、他の女の影についても質問した。ワインのプレゼント先を確定させるためだ。結果は、ダヴィドがいかにシュゼットにぞっこんだったか分かっただけだった。

 交差点の周りのビルには夜間、守衛がつくところが多く目撃情報が期待されたが、いずれも空振りだった。もちろんガソリンスタンド(そしてコーヒー)には目もくれなかった。

 アルベールは大人しく生活している。きみは徐々にデスクを整理し始めた。捨てるものは捨て、必要なものは小分けして持ち帰る。子どものとき、夏休み前に先生に注意されたことを思い出す。〈きちんと計画的に持ち帰りましょう〉。

 二日目の晩きみは、ダイナー〈カンサス〉に向かう。シュゼットとキャルに中間報告をする。

 確かに状況からだとダヴィドは禁酒を続けていたように見える。だがワインを買ったのも事実だし、それが遺体から検出されたのも事実だ。今のところ、彼が酒を口にした理由を突き止められるか心許ない。きみはそのことを正直に話し、打ち合わせの末、日にちを区切ることにした。

 差し当たって一週間、調査を延長することにする。そこで結果が変わらなければ諦めるつもりだ、とシュゼットは落胆を隠さずにきみに言う。己の無能ぶりに、きみの胸はキリキリと痛んだ。


 三日目の昼過ぎ、アルベールの外回りに着いて回っていると、思わぬ瞬間がやって来た。アルベールが、若い女性を自分の営業車に乗せた現場に出くわしたのだ。

 フィアンセじゃないのかーーきみは疑わしげに携帯電話の画像で確認するが、見たこともない女性だった。フィアンセの画像は、実名制SNSからあらかじめ引っ張ってあった。

 電動三輪車トライクで尾行したきみの前で二人は、郊外のモーテルに入った。被っているキャップのカメラは、二人が腕を組んで入るところを、ばっちり捉えていることだろう。


「どういうことです? つきまとわないで下さいと申し上げたはずですが!」

 アルベールは電話の向こうで権高けんだかに言い放った。

「まあ、まあ、そうおっしゃらずに。あなたにとっても有益な話になると思いますよ」

 卑屈な態度に出ても、きみは一向に苦にならなかった。気持ちに余裕があるからだろう。そんなきみの雰囲気を察したのか、アルベールはこの間のカフェに、のこのことやって来た。アルベールが座るのを待ってきみは、おもむろにプリントアウトした数枚の画像をテーブルに並べた。手に取ったアルベールの顔が、驚愕に引き攣る。

「これは……」

 声が裏返っている。

「こちらのお嬢さんはアーダ・ヴェンバリさん。あなたの取引先〈トランス・コーポレイション〉の社員に間違いありませんね」

 呆然と写真に見入るアルベールの額に、冷や汗が噴き出している。

「突然、別れ話を持ち出したそうじゃないですか。彼女、酷いショックを受けてましたよ。もてあそばれたってーー」

 昨日、モーテルを後にするとアルベールは、途中で女性を降ろした。営業車で颯爽と遠ざかるアルベールは放っておいて女性を追った。

 女性の足取りが、雲の上を歩くような危なげなものだと、気がついてはいた。動き易いシンプルなスーツ姿で、彼女も外回りの職種であろうと想像できたが、さりとて、まったく帰りを急いでいる風に見えないのが不審だった。

 とある交差点に差しかかったとき、彼女の上体がふいに車道に傾いだ。歩行者信号は赤。すぐ後ろの車道にいたきみは、必死でアクセルを回し彼女に急接近した。クラクションとともに白いセダンが、すぐ隣を通り抜けていった。きみの電動三輪車トライクが、交差点の途中でくずおれた彼女の傍に滑り込んで、セダンをブロックした形になった。

 慌てて飛び降りて駆け寄ると、彼女は茫然自失のていで、その場にへたり込んでいたーー。

「ご結婚前に身辺を綺麗にしようと、焦り過ぎたみたいですな」

 腰が抜けてしまった彼女を動かすのは骨がいったが、おかげでたいした労もなく話を聞きだすことが出来た。よく見ると、小麦色に焼けた肌の大変チャーミングな子だった。クソ、なんでこんなやつばかりがモテるんだ。

 アルベールが掠れた声で呟いた。

「え?」

「お、お金なんて払えません」

 一転、縋るような目できみを見上げる。

「おや、今度、私の顔を見たら、訴えるんではなかったですか」

 軽くいたぶる。

「それは……あの時はちょ、ちょっとした勘違いを」

 冷や汗が脂汗っぽくなってきた。きみはいい加減にしておくことにする。

「お金なんていりませんよ。この間も言いましたが、教えて欲しいことがあるだけです。ひと月前、クラーセンさんの家を最後に訪れた日です。あなたがあの家を出た時刻は、真裏の無人店舗U・Sでちょうど強盗があった時刻なんです。車が止まっていた位置から無人店舗U・Sの様子が見えたはずです。さあ、何がありましたか?」

 アルベールは渋々、口を開いた。

「……ヴァンですよ」

「ヴァン?」

「ええ。僕が車に乗ろうとしたとき、パン、て乾いた音がしたんですよ。何の音だろうって顔を向けたら、無人店舗U・Sの駐車場に止まっていたヴァンに人影が乗り込んだんです。僕が見たのはそれだけですよ」

無人店舗U・Sには近寄らなかったんですか」

「別に用もなかったし、そのまま帰ったんです。そしたら翌日のニュースであの事件を知って……」

 僅かにアルベールが身震いした。その時、アルベールが通報していたらリュシアン・バローは助かったろうか。きみは考える。強盗と同時に警備会社からの通報でパルドー署は最短で現場に到着した。アルベールの通報があっても結果は同じだっただろう。ただし犯人逮捕には役立ったはずだ。

 嫌悪感と同時にきみは興奮してきた。影のみだった、名無しの犯人が初めて姿を現したのだ。

「人影ははっきりと見えたんでしょう? 男でした? それともまさか女?」

「そんなの分かりませんよ。一瞬でしたし、暗かったし……」

「顔は? 髪の色とかは分かったんじゃ」

「遠くてよくは……それに頭全体が黒かったですよ。というか全身黒ずくめで」

 残念ながら、車に乗るまで犯人は目出し帽を被っていたようだ。

「ヴァンの特徴は?」

「特徴っていっても……普通のですよ。車高がやけに低かったかな。それくらいです」

「色は?」

 少し余裕を取り戻したのか、偉そうに言う。

「夜ですよ。分かりません。まあ、ブラックだったと思いますけど。そうそう、ガラスもスモークだった……だから思い出せと言われてもですね……」

 ジロリと睨むと、アルベールは目を閉じて必死に考えている振りをした。

 きみはため息をつく。確かに進展ではあるが、その情報から車両の特定は難しいだろう。該当する車はアントワーヌに何千とある。

 するとーーアルベールが、そういえば、と呟いた。

「ちらっとでしたけど、ヴァンの後ろに絵が描いてありました」

「絵?」

「絵っていうのかな、マークみたいな感じの。よくエアブラシとかでペイントする人いるじゃないですか」

 どきり、と心臓が跳ね上がる。不安がむくむくと持ち上がってきた。自分に言い聞かせる。車にペイントする奴なんてごまんといる。必ずしもギャング団アイヤールとは限らない。

「どんなマークです?」

 きみはペンを渡す。アルベールは、紙ナプキンにマークを書きつけた。

 

 フィアンセには絶対ばらさないから、と無理やり納得させて、アルベールを解放した。しつこくせがむので写真はくれてやったが、元データをこっちが持っているので気が気ではないだろう。正義の味方を気取るつもりは毛頭ないが、これくらい気を揉んでもらった方が、アーダ・ヴェンバリのためにもいい。

 グラスを傾けてきみは、咽を焼く琥珀色の液体を舐めるーーふりをした。下戸のきみだが、場に溶け込むには致し方なかった。ウイスキーのロックはさほど減っていなくても、気にかける者はいないーーはずである。

 そのバーは、第四区〈オーゼイユ街〉のとあるビルの地下一階に入っていた。店内はすべて間接照明で薄暗く、雑談や音楽に負けじと大声でオーダーをする客で、騒然としている。雑踏やこういう雰囲気の店の中は考えごとをするのに適している。みんな自分たちのことで頭が一杯で、誰もが周りから背を向けている。

 手元の紙ナプキンに目を戻す。

 アルベールの目撃した、ヴァンに描かれていたというシンボルマークは、本人の表現を借りるなら、〈クエスチョンマークを三つ、根元で合わせたような〉絵柄だった。それだけ取ると単純な図柄だが、何を表しているのかはさっぱりだった。

 試しに画像検索をかけてみると、幾つか似た絵柄がヒットした。それらの図像の一つを見てきみは、ぎょっとなる。それは三脚巴紋トリスケリオンで、ということは、例の〈血の風車ル・ムーラン・サングラン事件〉の現場に残されていた図像と同じなのだった。

(ーーまさかね)

 きみは首を振って、余計な考えを振り払おうとする。

 と、にわかに携帯電話の調子が悪くなった。画面がフリーズし、三脚巴紋トリスケリオンが映し出されたままになる。まるで不吉な前兆のように。いや、店のWi-Fiが不安定なのだろう……。

 ブラウザを閉じて、テーブルを立った。客や店員たちの間を通り抜けて、店の奥まったところ、幾重もの薄布で仕切られた一隅いちぐうを目指す。

 そこの前に立つと、何故か喧騒が遠退いたように感じられた。片手で垂れ布を持ち上げると内部は、赤い照明に照らされて小部屋のようになったスペースだった。その席は〈小さな王子ル・プティ・プランス〉の特等席だった。

 〈小さな王子ル・プティ・プランス〉を名乗るその男は、店内のどの椅子とも違う特製のソファに埋もれていた。痩せて薄い胸板をしていて、身体を覆う布地は、古代ローマのトガのようだった。頭は剃りあげられていて、光沢を放っている。〈小さな王子ル・プティ・プランス〉の前の赤い布のかかったテーブルには、タロットカードやアストロダイス、グレープフルーツ大の水晶といった占い道具が置かれている。この席は、バーに間借りする形で開かれている、いわゆる〈占い館〉だった。

「本日はどんなお悩みでしょう?」

 ねっとりとした、低い声で男が喋る。丸い縁のサングラスをしているので、表情は読めない。浅黒い肌は、きみより若くも見えるし、老人の様にも見える。スペースの端に置かれた香炉から煙が立ち昇り男を捲いている。

 演出過剰な様子にきみは、いささかたじろいだ。このコスプレ男が、本当にマザラン支局長の言う〈情報屋〉なのだろうか……。席の周りには端末どころか、ケーブル一本とてない。

 胸のうちに不安が渦巻くが、やってみるしかない。

「ええとーー。『今晩これから、夜間飛行ヴォル・ド・ニュイは可能か?』」

 それが決められた合図だった。彼は片方の眉を吊り上げた。きみをじっと見つめる。おもむろに口を開く。

「『ああ、大丈夫だ、僚友コレーグよ』」

 聞いていた通りの答えが反ってきみは、ホッとした。〈小さな王子ル・プティ・プランス〉の前に紙ナプキンを置いた。

「このマークの入ったヴァンを探している」

 〈小さな王子ル・プティ・プランス〉は上体を起すと、ゆっくりとした動作でナプキンを手に取った。しばらく見つめてから右手にナプキンを持ったまま目を閉じ、呪文を唱えるようにぶつぶつと呟き出した。

 それにしてもーーときみはある意味、感心する。この街で〈小さな王子ル・プティ・プランス〉を名乗るなんて、結構な心臓の強さだ。言うまでもなく、街の中心部、第二区の広場には〈小さな王子ル・プティ・プランス〉の銅像があって、観光名所にもなっている。この街出身の作家が書いた著名な童話の登場人物だ。作家は第二次世界大戦中に、偵察飛行の機体が落下して一時期行方不明になった。しかし戦火を縫っての懸命な捜索のすえ発見され一命を取り留めた。戦後、彼の息子の一人は政治家になり各大臣を歴任した。

 〈小さな王子ル・プティ・プランス〉の呪文はまだ続いている。眠気をもよおすようなそれを聴きながらきみは、昔、まだつき合っていた頃にケイトがしてくれた話を思い出す。〈王子プランス〉というキーワードからの連想だった。こんな話だ。

 

 むかしむかしあるところに兄弟の王子様たちがいました。お兄さんの王子様は悪い王子様。意地悪で自分勝手で魔法で悪さばかり。弟の王子様は善い王子様。優しくて思いやりがあってみんなの人気者。ある日、自分より弟王子の評判がよいことに腹を立てたお兄さんの王子は、弟を殺してしまいました。怒った神様はお兄さんの王子に罰を与え、蛙に変えてしまいましたーー。

 

 ケイトは米国ニューイングランド出身のプエルトリカンだった。このおとぎ話が、〈魔女の街〉とケイトが呼ぶ彼女の故郷の街に伝わるものなのか、あるいは彼女の遠いルーツのカリブ海に起源しているのかは判らない。ただ、そんな話をしているときのケイトの魅力的な表情が、まだきみの心に焼きついていた。

 ーーその笑顔を見ることは、もうないけれども。

 どうして最後の仕事にここまで入れ込んでいるのだろう、ときみは、ぼんやりと自問する。

 通常ならば、情報屋などに頼る前に、とっくに会社か警察に知らせて自分は手を引いていただろう。あるいはこれまでの探偵仕事では使う機会のなかったこの〈奥の手アトゥ〉を、最後に使ってみたかっただけなのかもしれない。さんざんに追いつめられてからようやく〈最後の切り札エース・イン・ザ・ホール〉を出す、ハリウッド映画の主人公気取りで。

 ようやく呪文が止み、〈小さな王子ル・プティ・プランス〉が踊るような手つきで、ナプキンをテーブルに戻す。

「報酬は?」

 厳かな口調で言う。

「すぐに分かるのか?」

 驚いた。調べがついた頃、また来るつもりだったのだ。きみは疑わしげに紙幣を数枚、置いた。無機質な瞳がそれを見下ろす。話にならないという風に、〈小さな王子ル・プティ・プランス〉はきみの方に紙幣を押し返した。

「足らないか? あとは飛行士ピロットのツケだ」

 それはきみが教えられた魔法の言葉で、マザラン支局長は一度きりならそれで通用すると言っていたが、本当だろうか。〈小さな王子ル・プティ・プランス〉は動かず、じっときみを見つめた。香煙が、カオスそのままにたゆとう。きみは喉をごくりと鳴らした。

 〈小さな王子ル・プティ・プランス〉の手がマジシャンのように閃いた。次の瞬間には、テーブルの上から紙幣が消えていた。

「これは、〈ビヤーキー〉のシンボルマークだ。」

 短く、だがはっきりと口にした。

「〈ビヤーキー〉?」

ギャング団アイヤールの一つだ。それも〈マーリド〉ーーつまり第一階層ファースト・ヒエラルキーのチーム」

 きみは目の前が真っ暗になった。悪い予感ほどよく当たる。

「元々は小規模なガキどもモルピオンの集まりだったが、半年ほど前、ひとりのガキがチームのサルハングになってから、急激に勢力を伸ばし始めた」

 サルハングは司令官という意味だ。ギャング団アイヤールは軍隊を模しているらしく、司令官サルハングをトップとしてその下に隊長ナキーブ、ヒラのメンバーは配下の者ハシャムと呼ばれている。

「そのサルハングの身許は?」

「さあな、ただたいそうなカリスマって話だ」

「そいつらの居場所を聞いたら別料金になるのかな?」

 〈小さな王子ル・プティ・プランス〉は口の端を引き上げた。薄く、剃刀のような笑いだった。

「いいだろう。サービスしてやる。〈ザ・フリークス〉というクラブに行くといい」

 〈小さな王子ル・プティ・プランス〉は再び、ソファに沈んだ。謁見が終わった合図だった。

 

 不幸の始まりはシン王子の母君チリー王妃の妬心としんにあった、と言っては言い過ぎだろうか。

 もちろんすでに憎しみの種は蒔かれ始めていた。年を重ねるにつれ、シン王子の心には少しずつ澱のように、わだかまりが積もりつつあった。あまりにも秀でた弟とあまりにも凡庸な自分との間にある、埋めようもない深い溝についての。その頃になると、コウの麗名は近隣の国々にまで及んでいた。しかしーーいや、やはり種に水を撒いた最初は、王妃に相違ない。

 夫君が寵姫の元から帰らないことは許せてもーーそんなことは、彼女は歯牙にもかけなかったーーかの下賎の者の子どもが自分の息子より王位に相応しいなどと噂されるのは、彼女には我慢がならなかった。もちろん息子への愛情などではない。高貴な青い血筋として生まれついた己の矜持が許さなかったのだ。

 かくして王妃は、ことあるごとにシン王子を弟と競わせた。弟と口を利くことも禁じた。あなたはいずれ王位を継ぐ身。弟は家臣となるのだ、と。

 初めて母に振り向いてもらった喜びに、シン王子は奮起する。生来の怠け癖もどこへやら、学業、武芸、音楽……あらゆる分野で寝る間も惜しんで刻苦勉励する。しかし、人の努力を天は嘲笑う。シンがどれほど励んでもコウの天賦の才には及ばない。シンが半月かけて身につけたものを、コウはほんの数日でより巧みにこなすことが出来た。そのことが王妃をいっそう焚きつける。

 コウ親子に対するあからさまな(あるいは陰湿な)攻撃が始まる。心労がたたったのだろう、元々身体の弱かった寵姫が死にーーいっとき溜飲を下げたものの、同情とともにより一層強まったコウへの賞賛が、王妃の妬心を燃やしつづける。シン王子は母の薫陶を受け、弟を軽んじるようになっていく。憎しみの種に水は撒かれ続ける。

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