第13話
13、
あるいはこの段階でなら、引き返すことは出来たかもしれない。だがきみは、そうしなかった。結果だけを見て論評することは容易いが、現実はそう上手くはいかない。その時きみには、目の前の道が平坦に思えた。陸上競技場のトラックとは言わないまでも。
聞き覚えがあると思っていたら、〈ザ・フリークス〉はあの高校生ジュリアン・カルノーとクリス・ローランドが入り浸っていたナイトクラブだった。ざっと周囲をチェックしたが、〈リヴィングストン・リサーチ〉の張り込みはいないようだった。あれから一週間経っている。ジュリアンの調査は切り上げたのだろう。
きみがその車に遭遇したのは、張り込みを始めたその晩だった。スピーディな邂逅で幸先がいい、ときみは胸を躍らせた。
アルベールの描写どおり、低い車高にメタルブラックのボディのそのヴァンは、南から通りを流して来て、〈ザ・フリークス〉の角を曲がった。後部のバックドアのペイントがちらりと見えた。どこか近くに止めるつもりだろう。きみは慎重に道路を渡ると、ゆっくりと徐行するヴァンのお尻を追いかけた。
裏路地を折れたところでブレーキランプが瞬いた。きみは建物の陰に身を隠した。
そこはビルとビルに挟まれた、奥まったスペースの時間貸しパーキングの前だった。ただしパーキングに止めるつもりはサラサラないらしい。堂々とその場所の前に違法駐車すると、運転席のドアが開いて長身の人影が出てきた。続いてサイドドアがスライドして、中からばらばらと若者たちが降りる。全部で六人。
ヨーロッパ系のブロンドの若者は、襟にファーの着いたモッズコート姿だった。ドレッドロックスのアフリカ系は、サングラスにゆったりとしたシルエットのトレーナー。ダウンベストにチノパンのアジア系もいる。その他皆、思い思いの格好をしている。
チームというから、
誰かが冗談を言って笑いが弾けた。馬鹿でかい声。集団は表通りへと移動して行く。〈ザ・フリークス〉へ続く角を曲がったのを見届けて、きみはヴァンに近づいていった。
ハッチバックのバックドアいっぱいに、シンボルマークが描かれていた。アルベールが、〈クエスチョンマークを三つ、根元で合わせたような〉と表現していた、あのシンボルマークだ。
きみはぐるりと車の周りを一周する。懐から小さな黒い箱を取り出す。ガスライター程度の大きさのそれに電源を入れると、一部が赤く点滅し始めた。
磁石付きGPS追跡装置を使うのは初めてなので、いささか手つきが覚束ない。きみはしゃがみ込むと、リアバンパーの内側で、取りつけに具合のいい場所を手探りで求めた。
「おっさん、オレらの車に用か」
背後で甲高い声がした。
きみは冷凍庫で高速フリーズされたみたいに固まった。バンパーの下に差し込んでいた手をそろそろと戻す。GPS追跡装置を出来るだけさり気なくポケットに仕舞い込む。
「いやなに、小銭を落としちゃってね。おっかしいな、確かここら辺に転がったんだけどーー」
下手な芝居をしながら立ち上がって、振り返った。さっきヴァンから降りたサングラスのアフリカ系と、初見のキャップの若者だった。
サングラスの方はがっしりとした大づくりの体格で、見るからに頑強そうだ。足元はごついブーツ。キャップの方は、グレーのパーカーの上にミリタリージャケットを羽織った中東系で、顎髭を生やしている。クラブで合流した仲間だろうか。
「ーー見つからないみたいだ。邪魔だったら悪かった」
離れようとするきみを、キャップが手を広げて遮った。
「ざけんな。今、何しようとしてた」
甲高い声の主はこっちらしい。ぎらぎらした目で睨んでくる。きみは咄嗟に位置関係を測る。きみの後ろはパーキングで行き止まり。通りへの通路は二人に塞がれている。絶体絶命だ。きみは必死に言い訳した。
「いや、だから小銭を……」
最後まで言えなかった。
タメのない動きで、キャップが前蹴りを跳ばしてきた。鳩尾に入る。後へ吹っ飛ばされた。天と地が入れ替わる。灼熱の塊りがきみを貫く。問答無用に身体が折りたたまれた。
気がつくと頬にざらりとしたアスファルトの感触がした。きみは地面に這いつくばっているのだった。
頭の上に、耳障りな声が降り注ぐ。キャップが携帯電話で仲間を呼んでいる。すると今度は、身体がもの凄い力で持ち上げられた。きみは襟首を掴まれて上半身を起き上げさせられた。そのまま引き摺られる。パーキングの奥に連れ込まれる。バラバラときみの方へ向かってくる足音がしたする。
「答えろ。何してた」
ノイズのかかった視界の中で、かろうじてきみはそれが、サングラスの方だと分かる。口を開こうにもきみの声は、「あ」とか「う」という呻きに変換され、言葉にならない。途端に脇腹に硬い塊りがぶち当たった。サングラスのフックは容赦がなかった。堪らず倒れこんだきみは、無意識に腹を頭を庇う。
尾てい骨に蹴りを入れられた。激痛が走り、悲鳴が漏れる。所かまわず蹴られ続けた。脂肪が衝撃を吸収するなんてまったくの嘘だ。頭の天辺に抜けるような激痛が延々と続く。もうわけが分からなかった。きみは蹴られ、痛めつけられ、ひいひいと情けない声を挙げ続けた。だからしばらくして、きみへの攻撃が止んだことにも気がつかなかった。
*
最初に目を開けたのは、呻き声のせいだった。きみの口から漏れているのとは違う声。深い海の底に沈んでいたようなきみの意識は、重りを外したダイバーが浮力に抗えなく水面に浮き上がっていくように勢いを増して聴覚が嗅覚が触覚が復活したのだった。
きみは失神していたようだった。
バーベルみたく瞼が重い。持ち上げるには相当な努力が必要だ。ほら、もう一度! 一、ニ、三!
無理矢理に抉じ開けるとすぐ前で、サングラス野郎がのた打ち回っていた。呆けたようにしばらくその様を眺める。全身が痺れて感覚がないが、アスファルトからじんじんと冷気が身体に侵入しているのだけは感じられる。
何が起きたのかーー。
苦労して首をめぐらすと、視界が
一瞬、殴られすぎておかしくなったのかと、我が目を疑った。真ん中の影は、遠近法を無視したかのような大きさだった。
その男は、周りの少年とは桁違いの体格をしていた。背は一番大きな少年よりもさらに頭ひとつ分でかい。スーツ姿だったが、内側からはちきれんばかりの肉の厚みを感じさせた。何より全身から圧力のようなものが噴き出ている。サバンナの真ん中で、象とライオンの群れの対決を見ているようだった。
男を囲む輪が、じりじりと狭められていく。男は泰然と動かない。輪がさらに圧縮された。突然、ダウンベストの少年が男に向かって飛び出した。
突き出した腕の先が煌めく。ナイフだ、と思う間もなく真ん中の影が動いた。巨体からは想像もつかない、軽やかな動きだった。
巨漢はサイドステップで切っ先を易々とかわすと、ナイフを持った手を掴んで回り込んだ。少年の後頭部に拳を叩き込む。声もなく少年は崩れた。
触発されたように一斉に輪が乱れ、乱戦になった。
少年たちは、ほぼ全員がなにがしかの得物を手にしていた。よく訓練された獣のように、少年たちの攻撃は疲れを知らなかった。特殊警棒や大型ナイフの攻撃が幾つか巨体を捉えたが、男は意に介さなかった。
こんな騒ぎになっているのにどうして、誰も気づかないのか? 近隣の者が警察に通報しないのか?
きみの不審も当然だ。そもそも
それに、不審をおぼえたきみはすぐに、別のことに気を取られてしまう。きみの身体には次第に感覚が戻りつつあった。それは不快極まる感覚で、身体のあらゆる場所で打撲痛がわき起こっているのだった。きみは痛みに呻き、また意識がなくなってくれるのを願ったが、望むような安寧は訪れてくれなかった。むしろ本当の悪夢はそこから始まったのだった。
逃げ出すかと思われた若者たちはしかし、再び巨漢を中心に
変化はすぐに起こった。
若者たちの輪郭がーー暗闇に滲んだのだった。
その無気味さ、不可解さをどう表現すればよいだろう。思いつくのは、若者たちの着ていた服は実は服ではなかった、としか言えぬ。つまり服装と見えていたのは、恐ろしく巧妙に人間の服に〈擬態〉した〈表皮〉であったろうということだ。布地に見えていたそれが瞬く間に褪色し闇色に染まり、形もまたぶよぶよと崩れる。たちまち衣服としての形状は失くなり、表面は甲虫の外骨格の如くテラテラと光を返すそれになる。やがて若者たちは、身体ごと
四肢は細く長く伸び、さらに体側から腕が追加で生えた。頭と腰が張って、相対的に胸が小さく見える。縮尺がおかしいだけでそれは、蟻や蜂によく似ているのだった。ただし背中から出ている羽は昆虫のそれではなく、蝙蝠のような皮膜である。顔が人間の面影を残しているのが、かえっておぞましく冒涜的であった。
一方、巨漢はと言うと、こちらもまた悪夢めいた変容をしていた。ただでさえ大きな身体が、さらに身内からはち切れんばかりに膨れ上がっているのだった。しかしその膨らみかたは歪で、上半身と前腕が異様に大きく、そのうえ脇の下から左右に二本目の腕が生えている。それらの変容が、まるで早回しの映像を見ているようにきみの眼前で起こったのだった。
巨漢の顔は鼻面が伸びて狗類を思わせ、口からは厭わしいシュウシュウという声が洩れている。巨漢の背中にもあつらえたような翼があり、そのシルエットは、〈
たとえ
昆虫どもがbbbZZZZzzBBBbbbzzz……という威嚇の警戒音を発し、スファンクスは厭わしいシュウシュウ声を、Grr-gvubd-rrr……と遠雷めいた威嚇の唸り声に変えている。
急速に接近した影どもが、いかなる闘争をしたのか、きみの目は追いきれなかった。
重なった影の何れかから、黒々とした液体が
ビチャッ、と毛の逆立つような音を立てて落下したそいつを見てきみは、悲鳴を上げた。そいつの
そいつの、人間に似ているがゆえにいっそう非人間的な感じの際立った目が、きみを捉えた。ヒッ、ときみは息を呑む。そいつは哄笑とも
恐怖というよりは、毒虫を踏んでしまったときのような
bbbZZZZzzBBBbbbzzz……と声をあげ、昆虫が肉薄してくる。きみはさっき以上にあられもない悲鳴をあげていた。ビチャビチャとそいつから落ちる体液が立てる音が後ろに迫ってきて、吐き気をもよおす腐敗臭めいた臭いが強まる。
必死に這い進むきみを、強烈な痛みが貫いた。万力のように挟まれた左脚が引っ張られる。きみは身体ごと後ろに引き摺られていく。
アスファルトに身体が擦れる痛みなど何ほどでもない。もはやきみは、すすり泣くことしか出来なかった。生まれて初めて神に祈った。
生きながら喰われる自分の想像して、再び意識が闇に溶け込んでいった。
‡
やがて決定的な二つの出来事が起こる。一つは王妃の死。
今ひとつは言祝ぐべき婚礼の場で現れる。その頃、シンに縁談が持ち上がる。相手は北の大国ロンギニアの第二皇女ラナ。もちろん政略結婚だ。だが結納の儀式の日、シンの目は許婚に釘付けになった。星を集めたような輝く瞳と珊瑚色の唇。たおやかな首。亜麻色の髪は柔らかく肩にかかっている。美しい娘だった。この娘が俺の伴侶となるのか。シンは有頂天になった。母の死以来、沈みがちだった心が浮き立つ。甘やかな期待に胸が膨らむ。しかしそれも、ロンギニアの侍従とゴラン卿の会話を小耳に挟むまでだった。
ラナ皇女が部屋で泣きくれていると、侍従は困ったように訴えていた。どうしてわたしの
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