第11話

11、

 話好きなワンコおやじにつき合っているうち、いつの間にか日が傾いていた。風が冷たい。街の灰色がかった建物群が茜色に染められて、美しさというよりは物悲しさを際立たせている。その影響ではないだろうが、きみまで切ない気持ちになってきた。一日歩き回っても、さして収穫が上がったようには思えなかった。

 ーーよし。

 きみは決心する。仕事を辞めて、ダヴィドの件を片付けたら、思い切りのんびりしよう。旅行をするのも手だろう。遠い南の島とか。切り詰めれば、そんなに旅費もかからないだろう。とにかく、ここから脱出エヴァジオンするのだ……。

 きみが妄想を拡げていると、携帯電話が震えた。メッセンジャーアプリの着信だった。


 ぷよくんモン・グロ

 マジメにはたらいてる?

 急だけど

 今日、夕方六時に

 メトロのヴュー・アントワーヌ駅に来られる?

 いっしょに行きたいところがあるんだけど。


 きみは携帯電話の時間表示を見る。時刻は午後四時。まだ仕事を上がる時間ではいない。だが今日はこれ以上、やる気が起きないのも事実だ。

 きみはしばらく考えて、メッセージを返した。


「ゴメン、待った?」

 自分から呼び出しといて遅れるなよ、とつっこみそうになったきみの口は、あっさりと閉じられた。

 白くふわふわとしたタートルネックのセーターに、濃いベージュのチェスターコート、細身の黒いパンツ。シンプルないでたちながら、キャルの姿はきみの文句を打ち消すに足る美しさだった。飾らないことで引き立つ美しさと言うものがある。不覚にも見惚れている自分に気がつく。

 日は暮れていたが、街の灯りが夜のとばりが世界を包むのに抵抗していた。狭い改札を出たところにある小さな広場は、待ち合わせ場所に利用するので多くの人々がたむろしている。その中で、きみの目にキャルは、抜群の存在感を放ってみえた。

「怒ってる?」

 キャルが心配そうに、覗きこむ。

「……遅い」

 辛うじて返した。不機嫌そうに聞こえてくれるとよいが。ごめんねと、キャルがきみの腕を取って、歩き始めた。

「こっち、こっち」

 車道をきみたちは急いで渡る。坂道だらけの地区には、案外と人が流れている。街の中心部に向かうお洒落した若者や勤め人。反対に買い物帰りの子ども連れの女性。大人、子ども、老人ーー。

「今日、仕事は?」

 へへ、とキャルが笑う。

「お休みなのですよ。だからつき合ってもらおうと思って。行ってみたいところがあるの」

 何処だよ、というきみの声はかき消され、キャルはきみをぐいぐい引っ張っていく。

 そこは建物と建物の間に挟まれたケーブルカーの駅で、街を見下ろす丘に登ることができる。キャルはためらいなく切符を買い、ケーブルカーに乗り込んだ。

 数分で上の駅に着いた。観光地でもある荘厳な雰囲気のノートルダム聖堂がすぐ前にそびえているが、きみたちは人波を背に坂道を下り始める。

 駅から五分ほど歩くときみたちは、崖の上に出た。

 右手に東向きの丘の斜面が見え、左手に麓に広がる街が一望できた。斜面の奥には、古代遺跡の巨大な劇場がある。夏にはそこで様々なイベントが開催される。さらに奥の音楽堂でも。

 手前に、崖に添って施設があった。幅の広いゆるやかな階段状のアプローチがあって、その先に直方体を寝かせたようなモダンな外観の建物がたっていた。アプローチは暖色でライトアップされており、十二月の冷たい空気を少しだけ温かみのある幻想的な雰囲気に変えていた。

「古代文明博物館」

 言わずもがなだが、一応きみは訊ねた。

「そういうのが好きだとは知らなかった」

「意外?」

 きみは肩を竦めた。

「こういうところ、嫌い?」

 不安の影が浮かぶ。

 そんなことはない、ときみは打ち消した。本当はあまり興味はなかったのだけれど、素直に言ってしまうのは憚られた。

 きみたちはアプローチをゆっくりと歩き、入り口に向かう。丘の斜面に添って造られた博物館は五層で、入り口のある最上階は受付レセプション、一つ下の階から展示エリアになっている。

 美術館の中は、しん、としていた。平日の夜だからということもあるのだろう、客はまばらだった。

 館内はスロープで結ばれていて、車椅子でも観て廻ることができる。空間が贅沢に使われ、ゆったりとした間隔で展示物が置かれていた。老夫婦が、古代のレリーフの前で何も言わずにじっと佇んでいた。

 きみたちは思い思いに眺め始める。

 きみは展示ひとつひとつを、解説までいちいち読んでいく。一方、キャルはというと、解説は適当に流し、直感的に気に入った物を探している風だった。見事な細工の装飾品は一瞥をくれただけで去ったが、素朴な土の壷には飽きずにいつまでも見入っていた。

 これまで遥か昔を想いを馳せるなんて、きみはしたことがなかった。だが古代でも、人間がいればそこには喜びや悲しみや怒りなど様々な感情が生まれたに違いない。そう、古代にだってリストラもあったかもしれないーー。

 そんなことをつらつらと考えているうちに、きみたちは最下層のエリアにたどり着いた。出口を挟んでギャラリーショップの反対側に、小狭いスペースが造られてる。そこに〈特設展示〉という控え目なプレートが掲げられていた。

 説明文によるとそれは、聖誕祭ノエルの記念公演として、斜面の古代劇場で上演される演劇『黄衣の王ル・ロア・オン・ジョーヌ』で使用される舞台衣装や小道具ということだった。

 『黄衣の王ル・ロア・オン・ジョーヌ』は、二幕からなる劇のようだが、話題づくりのためか、どんな物語なのか秘密めかしてぼかされており、いまいちよく内容が判らない。色々と書いてあるのに、よくよく考えてみるとカミラとカッシルダという登場人物が出てくることくらいしか情報がないのだ。断片的に書かれている〈暗黒星が空にかかるカルコサ〉だの、〈二つの太陽が没するハリ湖〉などが舞台なのだろうか?

 ギクリ、ときみが立ち止まったのは、ある小道具の前だった。

 〈蒼白の仮面マスク・ブルーブロン〉という名前のついたその被り物は、ひどく無気味で、忌まわしい物だった。一見、無邪気な子どもが紙粘土をこね繰り回してデタラメに人の顔を造ったように見える。そして金と灰色と深緑と土留色を混ぜて塗りたくったように。だが尚よく見るとそこには、友愛や善性といった人間性に対する嘲笑ーーいや悪意を感じさせるのだった。それは人間とはまったく異質で邪悪な知性の被造物に思える。こんな仮面を被ったら、中の人間の精神こころまで侵食されてしまい、人ではないモノに変容してしまうのではないかーー。

「何かこれ、怖いね……」

 きみの傍らには、いつの間にかキャルが寄り添っていた。キャルもまた、不安げな表情を浮かべていた。きみがキャルに声をかけようとしたとき、さざ波のように騒然とした気配が伝わってきた。

 出口の方から、警備員の一人を引き摺るようにして、短躯の人物が登場してきた。年季の入ったブラウンのコーデュロイ・スーツに、ループタイを絞めている。

「放せ! 無礼だぞ貴様ら!」

 その人物はかなり興奮しているらしく、綿毛のような白髪とひげは乱れ、剥き出しの褐色の頭皮はより一層、紅潮していた。英語訛りの言葉といい、ネイティブ・アメリカン出身と思われた。あまりに大きな声なので、さらに別の警備員も駆け寄ってきた。

「ええい、放せというに!」

 老人は口角に泡を飛ばして喚きたてた。

「いいか、お前らがなんと言おうとこいつは外に出しちゃいかんのだ!」

 そういって、老人は〈蒼白の仮面マスク・ブルーブロン〉を指差した。

「誰かがコレを無断で持ち出したんだ!」

「言いがかりは止してください! これはちゃんと米国マサチューセッツ州アーカム市ミスカトニック大学に依頼したもので、正真正銘の本物です!」

 年配の係員が、ヒステリックに応答する。だから、と老人は地団駄を踏んだ。

「本物だから問題なんだ! そのミスカトニック大学の責任者は儂じゃ。ラバン・シュルズベリー教授とは儂のことじゃ! その儂が言っとるんじゃ!」

 老人は一歩も譲らない。

「コレは非常に危険なものなのだ。だからレプリカしか貸し出さないはずなんじゃ。それを……ううむ」

 興奮しすぎたのか、息も絶え絶えになった老人は苦しそうに顔を歪めた。手にしたステッキが床に転がる。

「と、とにかく、あちらでお話を聞きましょう」

 そう言って係員は、警備員に目配せをした。やけに体格のいい警備員は、無表情に老人を羽交い絞めにした。

「こら、はなさんか!」

 老人は文字通り、出口に引き摺られていく。強制退場だ。容赦なく締め上げられて、老人の顔は茹でタコみたく真っ赤になっている。いくらなんでもあれは可哀相じゃないかと、思ったとき、つかつかと警備員に歩み寄った人間がいる。キャルだった。

「ちょっと、お年寄りに乱暴しないでよ!」

 警備員の前に仁王立ちになる。

「手を離しなさい!」

 係員と警備員の口がぽかんと開けられたのは、キャルの美貌のせいに違いなかった。警備員の腕が弛んだ。老人は、じたばたともがいて腕を振りほどくと、すかさず抜け出す。

「大丈夫ですか」

 キャルが手を差し伸べたが、老人は無礼にもその手を振り払った。ふんっ、と鼻息も荒く警備員を睨みつけた。ずかずかと退出していった。

 呆気に取られてそれを見送っていた係員は、不意に己の職務に立ち戻ったようだった。残された客に、しきりに頭を下げる。きみはぽかんと口を開けて、〈蒼白の仮面マスク・ブルーブロン〉に視線を戻した。

 こいつがーー危険だって?

 戻ってきたキャルが呟いた。

「ねえ、出よっか」

 部屋は騒然となり、係員も警備員もこっちにかまっている余裕はなさそうだった。今のうちだ、ときみはキャルを促してそそくさと部屋を後にした。

 外の空気を吸って、キャルがふう、と息をついた。

「ごめんね、せっかくつき合ってくれたのに」

 お前さんのせいじゃないよ、と答える。ひんやりとした夜気が肌を撫でた。どこからか夜鳥の啼き声がした気がする。街の上空は光の靄がかかったみたいに、ぼんやりと明るかった。キャルの後から、きみはついて行く。

「大丈夫かな、あのお年寄り……」

 振り返りながら、キャルが言った。

 老人の常軌を逸した態度を見ると、自称大学教授というのも疑わしい、ときみは思った。確かに気味の悪い仮面だったが、それを持ち出したところでどんな危険が生まれるのか、想像もつかなかった。

「ねえ、せっかくだから、ご飯食べていこう」

 物思いに沈んだきみをキャルが呼び戻した。

きみたちは駅へ向かって歩き出した。

 自分からキャルを誘うべきだったかなと、きみが気付いたのは、随分経ってからだった。

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