第10話

10、

 携帯電話の地図アプリで、行き先の住所を確認した。〈スコフィールド酒店〉は、東部郊外のフロンド地区にあった。市営バスの別の路線を利用することにした。

 外環道をぐるりと廻るかたちで、バスに揺られた。

 七十三号線に面した酒屋は個人商店で、さほど大きな店構えではなかったが、オーナーにこだわりがあるとみえて品揃えがよかった。店舗の内部は左右の面がショーケースになっていて、よく冷えたシャンパーニュや日本酒サケが並んでいる。店の中ほどにも陳列棚があり、そこにも壜がぎっしり詰まっていた。

 前掛け姿で酒瓶を磨いている、初老の店主らしき男に近づいていって名乗った。携帯電話を出して、画像を見せた。

 店主はダヴィドのことをよく覚えていた。

「警察の方も来られましたからね」

 ダヴィドは店の商品をじっくり眺めていた。熱心だったので店主は、お探しのものは御座いますか、と声をかけた。

(ーー七十七年のワインはあるかな)

 ダヴィドは照れくさそうに言ったという。

 オーナーは何本か良心的な価格の銘柄を示した。ダヴィドはその中から慎重に一本を選び、ボトルにリボンを掛けさせた。

「リボン?」

「ええ。どなたかへのプレゼントじゃないですかね。誕生年のワインを贈り物にされる方は多いですから」

「プレゼント……」

 ダヴィドがプレゼントを贈るような人間は、今のところ、一人しか浮かばなかった。

「そのことは警察には?」

「話しましたよ。あんまり関心のある風じゃなかったですけど」

「他に買ったものはありませんか」

「それ一本だけです」

 ダヴィドは満足そうに帰っていったという。きみはその場で、シルヴィアに連絡を取った。

「先程はどうも。ところでつかぬ事をお聞きしますが、十一月七日はあなたか、ダヴィドさんのお誕生日ではありませんか」

(ーーいいえ。私は七月ですし、ダヴィドは三月だったと思いますけど)

 訝しそうにシルヴィアが答えた。

「それでは、十一月にお二人の間で一緒にお祝いしている日はありませんか。なにかの記念日とか」

 電話の向こうは沈黙だった。しばらくして返事があった。

(ーー確かに……十一月九日は二人で過ごすようにしていました。私たちが初めて出会った日なんです。でもそれがなにか?)

 シルヴィアは、ダヴィドがプレゼント包装のワインを買ったことは、知らされていないようだった。はっきりしたら後ほどまとめてご報告します、と答えきみは、通話を終わらせた。

 なんとなく、ダヴィドがワインを手に入れた理由は見当がついてきた。二人が出会った記念日。一緒に飲むためか、彼女へのプレゼントか、ダヴィドはワインを買ったのだろう。そしてーー。

 そして、ひとりでそれを飲んで事故を起こした?

 やはりどうも釈然としなかった。


 事故現場は見通しのよい交差点だった。直交するペリエール通りとヴァセ通りは両方とも幅の広い道で、中央分離帯として鋼鉄製のポールが立っている。

 ダヴィドのトラックは、ペリエール通りから侵入してきて、右折してヴァセ通りに向かったが車線を大きく逸れ、中央分離帯のポールにぶつかり横転した。

 交差点の四つ角には、向かい合ってガソリンスタンドと無人店舗U・Sがあり、あとは中層建物が並んでいる。そのほとんどがオフィスのようだ。

 きみはガソリンスタンドに近寄っていく。スタンドの屋根には、「毎日営業7j/7」と「二十四時間営業中24/24」の文字がある。給油自体はセルフサービスだから、働いている従業員は見当たらない。スーツ姿の客と、つなぎを着たエンジニア風の客が、そろって哲学書でも読んでいるような顔つきで自動車に給油している。

 完全に無人でクレジット決済のガソリンスタンドも多いが、ここは支払だけは有人のようだ。併設されているガラス張りの建物には、安物のスツールが四つ並んでいた。レジと一体化したカウンターの奥にコーヒーのディスペンサがあって、休憩できるようになっている。鼻の下にちょび髭を蓄えた親爺が、閑そうにタバコを吹かしていた。

「コーヒーを」

 親爺がカウンターに置いたのは、正体不明の液体だった。本来あるべき、あの鼻腔をくすぐる官能的な香りは陰もかたちもなく、ほとんど無臭に近かった。色だけは悪くなかった。きみは恐る恐るカップを持ち上げる。

 泥水を熱々にして出したら、こんな味がするに違いない。静かにカップを下ろした。外の客が、一様に眉間に皺を寄せていたわけが身に沁みて解った。メニューには他にサンドイッチなどの軽食も載っていたが、頼む勇気はなかった。

 はて、どうやって話を切り出そうかと考える。親爺は、客などお構いなしにカウンターの下のゴミ袋をまとめると、店の隅の勝手口を開けて出ていった。と、扉の向こうからクソッメルド! という怒声がした。親爺は顔を真っ赤にして戻ってきた。

「どうしたんだい」

 話すきっかけが出来たきみは、すかさず声をかける。

 親爺がぎろりと目を剥いて、ホームレスだ、と吐き出す。

「ホームレス?」

「あいつらいつもいつも、裏の残飯をさらっていきやがる」

 憤懣やるかたない様子の親爺。

グリブイおまぬけのご飯がなくなっちまうだろ」

 どうせ捨てるんだから、ゴミ箱の周りが散らからなきゃいいような気もするが、そうでもないらしい。それにしてもここの食べ物を持っていくなんて、よほど空腹に耐えかねたのだろう。ところで、グリブイおまぬけって???

 口の中でぶつくさ呟いていた親爺が、顔を上げてきみを見た。

「あんたどっちだ」

「は?」

「ネコかイヌかってきいてるんだよ」

 決まってるだろ、と言った調子で睨む。きみは内心で唸り声を上げた。

 目下話題沸騰中の市長選は、例の古代劇場の特別公演にからむスキャンダルに加え、別方面でも過熱しつつあった。

 マスコミのセンスのない命名で《ワンニャン対決》などと呼ばれているそのいさかいのきっかけは、現市長ノナ・ローランドの講演会の出来事が発端だった。

 選挙応援に駆けつけた、愛猫家協会の副会長も務める某議員が、リップサービスのつもりか、大の愛猫家だったという米作家ハワード・フィリップ・ラヴクラフトのエッセイ「犬と猫」を引用し、「賢いネコ好きの皆さん、ノナ・ローランド氏に投票しましょう」とのたまったのだ。

 本という本を読まないきみには理解しづらい話なのだが、ニュースサイトの記事によると以下のようになる。

 一九二六年、ニューヨークのアマチュアサークル〈ブルー・ペンシル・クラブ〉で行われた〈犬猫論争〉に寄稿したラヴクラフトの当該文章は、(どこまで本気かはさておき)猫を〈貴族のごとき超然たる態度、自尊心、個性豊かなる風格を具備しているこの上なき優雅にして美麗なる生き物〉と持ち上げる一方、犬には辛辣で、それ以上に愛犬家を〈性鈍感なる田舎者ペクノ〉だの〈考うるよりは感じ、人類と、通俗かつ陳腐なる平民的心情を後生大事となし、メダカのごとく群居して暮らしつつ、媚びへつらいと、べたべたしたる愛情に無上の慰めを見出だす底の輩〉と散々にこき下ろしているものだったらしい。

 シャンパーニュをきこしめしていい気分だった議員は、さらに口が滑って〈イヌが好きなんて変わった方は、たぶんよそ者エトランジェでしょう。そうした人々はアレクサンドル・マルナル氏に入れるかもしれませんが〉などと付け加えてしまったのだった。

 対立候補のアレクサンドル・マルナルは、ギリシャ系ユダヤ人とハンガリー人の子孫だが、こうしたルーツの人物を外国人エトランジェ呼ばわりするのは極右勢力の物言いである。

 ややこしいのは、発端の文章を書いたラヴクラフト自身が、現代の観点からすると完全に人種差別主義者に当たることだった。彼は〈人間〉と〈黒人〉を同じ範疇に入れていない。何せ自分は〈犬族に対し殊更なる嫌悪の目を向ける者ではない〉とアピールしたあとで、〈サル、人間、ニグロ、牛、羊、はたまた翼竜を見る目と些かも異なるところはない〉と続けているのだから。

 ここに、愛犬家団体の理事であるアフリカ系議員とアジア系議員が異議を唱えたので、揉めに揉めているわけだ。愛犬家議員はすぐさま「イヌ好きはアレクサンドル・マルナル氏を応援しましょう」とキャンペーンを組んだ。以来、ネコ好きとイヌ好きの間では、密かな対立が巻き起こっているということだった。

 発端が些か滑稽味があるのと、背景に人種問題がからんでいるため双方表立って言わないものの、裏では踏絵のようにイヌ派ネコ派を確かめては、お互いに攻撃し合うらしい。そのため、そこここで要らぬ禍根が生まれているというのがもっぱらの噂だった。

「いえ、私は特に……」

 ちらり、ときみは店内を見渡す。壁には仔ネコの写真の載ったカレンダー。レジの横には東洋の縁起物ポルトボヌールーー確か、招き猫ル・シャ・ポルトボナーとか言うやつーーが三つも置いてある。それに、グリブイおまぬけという愛称。これは……。

「……もちろん、ネコ派ですよ」

 ふにゃあ、とおやじの顔がとろけた。

「だろう。やっぱネコだよにゃー」

 まあまあ飲みねえ、とコーヒーのおかわりを勧められた。やんわりと、しかしきっぱりと断った。折角なので、調子がいいうちに、聞けることをきいておこう。

「そういえば、ちょっと前に、そこの交差点で大きな事故があったようですね」

「ああ、そうらしいな」

 興味なさそうに、おやじが答える。もっとネコの事が話したいに違いない。

「ということは見てらっしゃらない?」

「その時間は営業してないんでね」

 きみは入り口のガラス扉を見る。腰辺りの位置に数字が書かれている。裏からだが営業時間を読むことはできた。7:00~22:00。事故は十一時頃だから、そのときの様子を目撃していなくても不思議ではない。

 ーーまてよ。

 きみは胸のうちで呟く。残飯を漁っているホームレスが、なにか見ている可能性はあるだろうか。

 ーーいや。

 すぐにそれを打ち消した。たとえ目撃したホームレスがいたとしても、そのホームレスを捜し出すことが難しい。

 きみの使命は、ダヴィドがどうして酒を飲んだのかをつまびらかにすることであって、事故の原因を究明することではない。どうしてダヴィドがハンドルを誤ったのか、興味を惹かれないわけではないが、今となっては本人にしか分かるまい。

 きみがカップの残りをどうするか考えあぐねていると、懐で携帯電話が振動した。慌てて取り出すと、〈ル・プログレ〉紙のシャンポリオンだった。カウンターに代金を置く。ニャンコ親爺を残して、店から逃げ出した。

「ご連絡お待ちしてました。記事を書いた方の件ですよね?」

(ーーここに居るわよ。ちょっと待って)

 ガサガサと雑音の後に、野太い男の声が変わった。

(ーーマッケイと言います)

 記事の記者は、威圧感はあるが丁寧な口調の持ち主だった。きみは早速、事故について詳しく知っているか訊ねた。

(ーー申し訳ないんだが……)

 マッケイの話によれば、記事の内容は警察の発表を元に作られたもので、マッケイも詳しく調べてはいないのだという。やはり、わざわざ取材に走るほどのネタではないのだろう。

 ただ参考になった情報もあった。現場検証の際のスリップ痕についてだ。割り出されたトラックのスピードは時速三十七マイル。制限速度はオーバーしているかもしれないが、充分、常識の範囲内のスピードだ。少なくとも事故の原因が、飛ばしすぎでないといえるはずだ。

「そうですか」

 思ったほどの情報が得られなかった落胆が、滲み出ていたのかもしれない。

(ーーちょっと待って)

 マッケイの声が電話の向こうに消えた。すぐに戻ってくる。

(ーー取材には行かなかったんだけど、事故の第一通報者の連絡先を控えてあったから、教えとくよ)

 ナンバーを手帳に書きとめ、改めて礼を言ったきみは、少し考えて、もう一つマッケイに訊いてみた。担当した警察署が、遺体の司法解剖を依頼した先が分かるか訊ねたのだ。マッケイは、近隣の大学の法医学教室を挙げた。そこの医者が解剖にあたったとのことだった。きみは医師の名前をメモする。

(ーーで、一体全体、どんなネタなんだい?)

 記者って生き物は、同じ科白しか喋れないらしい。

 

 電話で聞いたビルは、事故現場の交差点から一分ほどの距離にあった。結構な年代物の中層建築で、壁は黒ずみ、雨の伝った跡がくっきり残っている。玄関のガラス扉は埃で曇り、相当の期間、磨かれていないのではと思わせる。

 テナントを表示している金属プレートを目印に二階に上がる。〈シャウテン企画〉と掲げられている頑丈そうな扉を開けると、中はすぐに作業所になっていて、男が二人、遅めの昼食をとっていた。

「失礼しました。シャウテンさんはいらっしゃいますか?」

 〈シャウテン企画〉は印刷物の製作会社ということだった。

「わたし?」

 奥に陣取っていたほうが、片手にホットドッグを持ったまま、立ち上がった。長い顔。頭頂部はかなり寂しくなっているが、それに抵抗するかのように周りが長髪だった。丸いふちの眼鏡は、レンズがやけに分厚い。シャツの胸元に、でかでかとプリントされたダックスフントのキャラクターによく似てる。

「お忙しいところ申し訳御座いません」

 保険会社を名乗ると、シャウテンが物珍しそうにきみの顔を見た。

 ボー・シャウテンの話は簡潔だった。急ぎの仕事があったので、十一月七日は会社に残っていた。突然、どーんという音がしたので、窓から外を覗いてみると、辺りが真っ赤に照らされていた。しばらく呆然としていたが、引っくり返ったトラックが燃えているのだと気がついて消防署に電話した。

「じゃあ、実際、トラックが横転したところは、見ていらっしゃらないんですね」

「全然」

 シャウテンは顔の前で手を振った。唇の端に、ホットドッグのマスタードがちょっぴり残っている。

「ずっと画面と睨めっこしてたんだからね」

「事故の前後で、気がついたことはありませんか。例えば接触しそうになった自動車を見たとか」

「あれ? あれって自損じゃなかったっけ。飲酒運転で」

 まあ、座りなよ、と椅子を勧められた。

「そこを調査するのが、私どもの仕事でして。私どもの調べですと、どうもドライバーの方はお酒を飲んでいなかったんじゃないかと。そうなりますと、別の事故原因があるわけですが……思い当たることはありませんかね」

 さあてねえ、直接見たわけじゃないしなあ、シャウテンの口調は曖昧だった。ひと月前の出来事だ。そんなものだろう。

「ここら辺は、二十二時くらいだと誰も居なくなるんですかね」

「オフィスしかないからね。残業でもしてない限り、居ないんじゃないのかなあ」

「あ、あの人どうなのかな、移動式屋台カキリマの」

 コーヒーを持ってきた、エッカルトという蓬髪の同僚が口を挟んだ。

「いやー、あの大将、あの日は居なかったよ」

 シャウテンは首を振った。

 そ、そうかな、とエッカルトは納得がいかないように頭を掻いた。ただでさえ爆発したような彼の蓬髪が、いっそう広がった感じがする。

 そうだって、とシャウテンが断言する。話が見えない。

「誰です。その、移動式屋台カキリマって」

 きみは二人に割って入った。

 いやね、とシャウテンが説明する。ここら近辺には、シャウテンのような残業している勤め人をターゲットに、夜な夜な自動車でラクサ(東南アジアの麺料理)を売って回る屋台が出没するのだという。ヴァセ通りを中心に車を流し、時々止まっては客寄せの音を流しているらしい。定位置は交差点近くのパーキングということだ。

 なるほど。そういう人物なら目撃者にはうってつけではないか。

「その人、今日も来ますかね。いつも何時から店を開けるんですか」

「いつもだと、二十時くらいだけど……そういえば、大将、最近見かけないなあ」

 シャウテンが円らな瞳をぱちくりする。

「こ、腰が痛くって、し、仕事にならないって、い、いってたから、お、お休みしてるんじゃないかな」

 代わってエッカルトが教えてくれた。

「あー、それで」

 どうやら話の移動式屋台カキリマは開店休業中らしい。

「まあ、うちも似たようなもんだけどね」

〈シャウテン企画〉も仕事量が少なくて困っているようだ。どうりですっかり長話の態勢なわけだ。どの業界も厳しい。転職先は、よくよく考えて選ばないといけないだろう。

「た、大将、もう来ないかもね」

 何故か嬉しそうに、にやりと笑われた。きみは肩を落とした。

 ところで、とコーヒーを啜ってシャウテンが言った。何か嫌な予感が……。

「あんた……イヌかいネコかい?」

 うわっ、またそれか。きみは再び部屋の中に目を走らせる。ダックスフントテッケルのプリントTシャツに、柴犬シバのスクリーンセーバー。これは間違いなくイヌ好きだ。いやまてよ、ホットドッグを食べてるってことは、反対に物凄く嫌いだったりして……。

「イヌ……ですね……」

 ギラリ、とシャウテンの双眸が光った。やばい。違ったかしら。とーー。

 シャウテンの顔がほとんど眼鏡ごとふにゃあ、となった。

「やっぱ、ワンワンだよなー」

 きみは引き攣った顔で、頷いて見せた。

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