第9話
9、
次の日の朝いちきみは、会社でラップトップを立ち上げて、ダヴィド・ロースンの記事を検索した。バロー事件が順調に進んでいるとは言い難いので、ダヴィド事件の調査も、業務の合間にこっそり混ぜてしまう腹づもりだった。横領だの、背信だのとまでは行かないだろうが、自分を
だが、昨夜シュゼットに見せてもらった〈ル・プログレ〉紙の他に、〈トリビューン〉紙にも記事を見つけたものの、事故状況が少し詳しいくらいで、内容はほとんど変わらなかった。
〈
きみは逡巡したが、結局、デスクの受話器を取って、うろ覚えのナンバーをコールした。
(ーーはい。〈ル・プログレ〉編集部)
無愛想な男の声だった。
「シャンポリオンさんをお願いします」
男は咽の奥で唸り声をあげた。返事のつもりらしい。
すぐにシャンポリオンに代わった。
(ーー誰? 忙しいから手短に!)
相変わらず、パンチの効いた姐さんだ。マザラン支局長は本当に顔が広く、マスコミ関係とも繋がりを持っている。
「バズ・ブライチャートです。〈リヴィングストン・リサーチ〉の。以前、マザラン支局長とお世話になった」
(ーーおー、あのときのふとっちょ。で何?)
「ちょっとお聞きしたいことがありまして」
きみはダヴィドの事故を説明した。
「この事故のことを調べているんですけど、記事を書いた方を教えて欲しいんです」
ネットの当該記事には、署名が入っていなかった。
(ーー何々、事件? 面白そうじゃないの)
「いえ、そういうわけじゃないんです。まだ、下調べの段階で……」
(ーーなあに教えてくれないの? まさか
途端に不機嫌な口調になる。ここで機嫌を損ねられては堪らない。
「勘弁してくださいよ。本当にまだ何も分かってないんですって。第一、僕らに守秘義務があることくらいご存知でしょ」
きみは必死に縋りつく。
「いずれ、マザランと一緒に何かしらのお礼をさせて頂きますよ」
よろしくお願いします、ときみは見えない相手に頭を下げた。どうせいなくなるんだ、構うものか、ときみは腹をくくった。
シャンポリオンは鼻を鳴らすと、今は担当した記者がいないから後で連絡する、といって乱暴に通話を終わらせた。
*
たまたま同じ方面に向かう先輩がいたので、きみはその車に乗せてもらうことにする。会社の電動
ナセル大通りに出てから南下する。すぐに十四号線に当たるので、それを左折した。後はひたすら道なりだった。十四号線はトラックが多く、進みは遅かった。
地図によると、セルニール&バーネット運送は、第七区ドレー地区のごみごみとした下町にある。きみは適当なところで先輩に落としてもらい、歩いて探すことにした。
うろうろと路地をニ、三、覗き込むうちに、見つけた。スライド式の鉄の門扉が開け放たれているのが、ダヴィドの働いていた運送会社だった。
奥に倉庫があって、手前の駐車スペースにトラックが二台止めてある。倉庫の開口部には半透明樹脂のカーテンがかかっていて、中に積み上げられた荷物が透けて見えた。倉庫の脇にガラス扉の小さな事務所が併設されていた。中で赤毛の若い女性が、PCのディスプレイに向かって作業をしているのが見える。
「すみません」
きみが事務所の扉をノックすると、女性がこちらを向いて、立ち上がった。
きみは名刺を出して来意を告げた。お待ちください、と女性は奥に長い事務所の突き当たりの扉をノックして、「社長ーー」と呼ばわった。ハスキーな色っぽい声だった。扉の中から、社名入りの作業着を引っかけた男が出てきた。
「ダヴィドの話だって?」
セルニール&バーネット運送の社長ジム・セルニールは、よく陽に焼けた、五十年配の男だった。頭は真っ白で、マッチ棒みたく痩せているが声量がある。社長は応接用のイスをきみに勧めると、自らも腰を下ろしタバコに火を点けた。
「保険屋さんだってな。なに調べてんの」社長の吐き出した煙が、きみの顔にかかった。「あいつの死に方がおかしいってか」
いえいえ、ときみは首を振った。
今日の設定は、保険会社の調査員だ。別に探偵と名乗っても良かったのだが、リヴィングストンの仕事ではないので、気を回したのだ。
「そういうわけではありません。あくまで形式上のものです」
ふうん、と社長は、分かったような分からないような顔をした。どうぞ、とハスキーヴォイスがカプセル式のメーカーで煎れたコーヒーを二つ運んできた。お構いなく、と言いつつコーヒーに口をつける。
ダヴィドさんの会社での様子はどうでしたか、ときみは切り出した。
「真面目だったと思うよ。時間はきっちり守るしな。サボったりしてるのも見たことないな」
なあ、と後半はハスキーヴォイスに向けられた。優しいし、人に気を遣う人でしたよ、とハスキーヴォイスが答えた。
「職場の皆さんとも仲良くされていたようですね」
「嫌われるような奴じゃなかったな」
「皆さんでお酒とかも飲みに行かれたりしたんですか?」
「たまにな。でもあいつは飲まないよ」
「ほう、どうしてですか」
「二年前にパクられてんだよ、あいつは」
二年前の事故のことは、シュゼットから聞いていた。ダヴィドは仕事中に、酒気帯び運転で捕まったのだ。人身事故でなかったため、免許の取り消しはまぬがれたものの、それで前の会社をクビになっている。
「一年位前かな。うちに面接に来たとき、馬鹿正直にもその話を喋ってな。『でも今は大事にしたい女がいるから、二度と酒は飲みません』なんてぬかしやがった」
社長がしんみりと引き取った。
「では、一年間、お酒は一滴も?」
少なくとも俺らの前ではな、社長は言った。どうやら、シュゼットの言っていた通りのようだ。
「事故があった日のことですけどーー」
きみは七日のダヴィドのスケジュールを訊ねた。社長は快く業務記録をハスキーヴォイスに持ってこさせた。
その日の業務は、なかなかの過密スケジュールだった。午前中に刷り本の移動が二往復。午後は別の印刷物を引き上げてから、加工所に運び、今度はそこからまた別の工場へ。再び加工所に戻って、今度は完成品を納品しなければならない。
まったくのゼロとは言わないが、合間にアルコールを入れる余裕はなさそうだ。実際、ダヴィドが酒屋でワインを買ったのは、最後の納品を済ませた後、会社へ戻る途中ということだったはずだ。
きみは、他のドライバーにも話が聞きたい、と申し出た。
セルニール&バーネット運送のドライバーはダヴィドを入れて、四人いる。そのうちの二人に会うことが出来た。二十歳になったばかりという青年は、ダヴィドに可愛がられていたと寂しそうに話してくれた。がっしりとした体格の同僚は、あいつが酒を飲むはずがないと断言した。男はシュゼットのことも知っていた。「もう少しお金が貯まったら、所帯を持ちたい、子どもも欲しいって言ってたんだけどなあ」とため息混じりに答える。
礼を述べて事務所を出ると、携帯電話で次の場所へのルートを検索した。しばらく歩いて市営バスの
バスは、外環道の外、郊外のワッツア地区へと向かった。そこには、ダヴィドが最後に納品したトラック・ターミナルがある。
バスの中は暖房が効いていて、揺られていると眠気をもよおしてくる。ガソリンの臭いがなぜか郷愁を誘う。
ウトウトとして、危うく乗り過ごすところだった。
きみは社長にもらったメモを片手に、倉庫の森へ分け入った。ひとつひとつ番号を確認していく。十番倉庫がダヴィドがあの日、最後に荷物を降ろした場所だった。ぽっかりと口を開けた倉庫の入り口の先は、下りのスロープになっていた。倉庫には地階がありそこが目的地だった。きみはスロープを下っていった。
地階は余計に寒々として薄暗かった。コンクリートの柱の合間に、様々な荷物が山を作っている。その山の一つで、荷をチェックしている作業員に話しかけた。
「すみません。僕じゃ分からないですね」
気の良さそうな若者は、事務スペースに、きみを案内してくれた。中で同じ説明をすると今度は別の若者が外に出て、口に手を当ててフォークリフトに乗っている年配者に声をかけた。
「特に変わった様子はなかったよ」
当日にダヴィドから荷物を受け取ったというフォークリフト操作者は、面倒臭そうに答えた。作業を止められたので少し不機嫌だった。
「酒の臭いなんかしなかったぜ。俺も好きだからなあ。喋ってる相手が飲んでたら、一発で分かる」
操作者の他に、ダヴィドを知っている人間を二人見つけた。そのうち一人は、事件の日の事を覚えていた。彼の証言も、操作者と似たり寄ったりだった。ダヴィドにいつもと変わった様子はなかった。酒を飲んでいるようには見えなかった。
少なくとも、ここを訪れた時点で、ダヴィドが酔っていた可能性は薄いとみてよさそうだった。
次は問題の酒屋だが、その前に寄るところがある。
*
シュゼット・マルシャンに教えてもらった第六区の住所には、新しい瀟洒なアパルトマンが建っていた。
正面ドアを入ると玄関ホールで、奥にもうひとつドアがある。左手には、今時珍しい郵便受けが並んでいた。右手に小さな演壇みたいな装置があってそれがインターホンになっているらしい。きみは七〇三と打ち込んで、コールした。
(ーーはい)
「バズ・ブライチャートです」
(ーーいま開けます)
カチリ、と金属音がしてドアが開いた。エレベーターで上階を目指して部屋を探す。七〇三号室は南向きの角部屋だった。
昨夜とは違い、シュゼットはゆったりとしたパンツにニットというラフな格好だった。化粧も心なしか控えめだ。だがこっちの姿の方がよっぽど魅力的だった。中に通された。
リヴィングはかなりの広さで、ソファセットに大きな木のテーブルがあり、壁には趣味のいい風景画がかかっていた。なんとグランドピアノまで置いてある。
「わたしが弾くんです。上手じゃありませんけど」
きみの視線に気付いたシュゼットが言った。
「いつか……子どもが出来たら一緒に弾きたいと思っていました」
シュゼットが眼を臥せ、きみも無言になった。
「ごめんなさい。それに、わざわざこんなところまでお越し頂いて」
「いえ、お店よりここの方が伺いやすいですから」
勧められるまま、きみはソファに腰かけた。シュゼットが、キッチンからお茶を運んできた。テーブルの上にはすでに古風な見た目の赤い表紙のアルバムが置いてある。
「お構いなく。それで写真は?」
彼女はアルバムを手に取ると、表紙を開いた。中身が電子フレームになっているものだった。サムネイルの中から一枚を触り、拡大する。
「これが多分、一番はっきり写っていると思います」
それは二人が仲良く並んだスナップショットで、背景は赤茶けた巨大な渓谷だった。グランドキャニオンだ。きみはそのショットを、携帯電話に転送してもらう。画像データをもらうだけなら、わざわざ自宅を訪れなくてもよいわけだが、ダヴィド・ロースンの人となりについても、もっと詳しく聞いておきたかった。
ダヴィドは、レスラーのような立派な体格の男だった。アッシュブロンドの髪は丸刈りに近く、よく日焼けした小麦色の肌をしている。眉は太く男性的だったが、厳つい身体つきの割には優しそうな眼をしている。同性のきみから見ても好ましい容貌で、はっきり言ってモテそうだ。肩を組んだ二人は、緊張しているのか、ぎこちない笑みを浮かべていたが、幸せそうだった。
「それ、二人で始めて旅行に行ったときの写真です」
自動車のサイドミラーを擦った擦らないで揉めたことがきっかけで、ダヴィドとシュゼットは知り合ったのだという。結局、彼女のほうがダヴィドの家に謝りに行ったことから、二人の交際は始まった。
高級クラブの副店長と貨物トラックのドライバーとは、奇妙な取り合わせとは思っていたが、ドラマかコミックのような「運命の出会い」を地でいっていたようだ。
その頃のダヴィドは酒癖が悪く、酔うとシュゼットをよく殴っていた。ついには飲酒運転で会社を解雇されてしまう。だがシュゼットは彼を諦めなかった。無理に休暇を取り、ダヴィドを旅行に連れ出した。旅先でシュゼットはダヴィドと徹底的に話し合った。二人の未来について。
「あの人、立ち直ってくれました。お酒をきっぱり止めて、真面目に働き出したんです」
シュゼットの瞳に初めて、涙が盛り上がった。
それを聞いて、きみの中でますます疑問が膨らんでいく。本当にダヴィドは約束を破ったのか?
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