第2話
2、
それは今日の昼過ぎのことだった。思えば予感めいたものは、まったくなかった。
*
アントワーヌ市の西のはずれ、第九区で地下鉄クロード=ギルボー駅の改札口を出て階段を上がると、目の前がナセル大通りである。〈リヴィングストン・リサーチ〉アントワーヌ支局は、大通りから外れた七階建ての細長いビルの四階にあった。
午前中のこと、オフィスできみは前日の調査報告書を作成していた。電子日報や手書きメモや録画メモリを元に、ラップトップで入力していく。
経験が浅い下っ端のきみに先輩探偵が教えてくれたところでは、近年、親が子どもの生活を調査して欲しいという依頼が結構多いらしい。アントワーヌ市で少年犯罪自体は微減傾向にある一方、凶悪化してもいる。徒党を組んだ若者たちが、
本件の調査対象は、ジュリアン・カルノー。私立高校に通う十七歳の少年だ。学校は、聞けば誰でも知っている、教育レベルも授業料も一流の学校である。父親ジョエル・カルノーは代議士で、母親のジャクリーヌは某銀行頭取の娘。典型的な
依頼してきたのは母親だった。息子が夜間、頻繁に外出しているので、何をしているのかつきとめて欲しいとのこと。本人に問い質しても、友達の家に遊びに行っている、としか教えてくれないらしい。まあ、そもそもこの年代の子どもが、大人に自分の行動全てを明かすとは到底思えないが。
調査開始から五日間、少年はほぼ毎日、同じ行動を繰り返している。放課後に友人と合流し夜の街を徘徊する。ゲームセンター、ナンパ、ファストフード店。小遣いは潤沢にあるようだったが、特に濫費しているようには見えない。比較的、多く足を運んでいるのは昨夜のナイトクラブ〈ザ・フリークス〉だ。店の背景を簡単に調べたが、堅気が経営しており、ドラッグや違法カジノで官権に眼をつけられている風でもない。数日の調査だけではなんともいえないが、若者のありふれた夜遊びというのが、きみの感想だ。
「報告書は出来たか?」と、野太い声が背後から降ってきた。
ヴィクトール・マザラン支局長は大柄な男で、控えめなきみの身長とは頭ひとつ分違う。椅子に座って見上げると、いっそう威圧感がある。おまけに若い頃、社交ダンスで鍛えたとかいう身体は、六十近いのに無駄な肉がない。
「午前中に出せよ」
彫りの深い顔が、きみを覗き込んだ。渋いバリトンとロマンスグレーには、いまだ根強いファンがいる、とは本人の弁。
「遅れるな。今日は本社の人間も来てるからな」
ちらりと、支局長室に目を走らせる。首都に本社がある〈リヴィングストン・リサーチ〉は、規模は小さいが業界では老舗に入る。
「マコーレンだ」
マザラン支局長は、苦々しげに言った。
リヴィングストンの本社以外、すなわち全支局の営業統括責任者が、マコーレン本部長だ。整髪料でべったりと固めた髪。やけにソフトな喋り。柔らかな物腰とは裏腹に、支局へのノルマ査定が厳しいので、マザランのような叩き上げの調査員からは評判が悪い。
「こんな時期だからな。つまらないことで、ごちゃごちゃ言われたくねえ」
いっこうに上向かない景気のせいで、管理職のサラリーが軒並みカットされているため、支局長はここのところ機嫌が悪い。おまけに、マコーレンが主導で、近々全社的なリストラが実施されるという噂がまことしやかに飛び交っていては、ぴりぴりしたくなるのも仕方あるまい。
もっとも、マコーレン本人は、そんな雰囲気を知ってか知らずか、支局に来るたびに、「あれが無駄だ」とか、「これを削れ」とか、細々とした注文をつけるのを忘れない。
しつこく念を押されたのもあってきみは、証拠品の整理を進めた。部長には逆らえない。家族や仕事を失い、ホームレス同然でこの街に流れて来たきみを拾ってくれたのは部長だからだ。元々は本社で指揮を執っていた調査の鬼で、その強面は裏の世界にもかなり利くと囁かれている。
きみは前夜のカメラを物品保管庫から取り出してラップトップに繋げ、少年たちが写っている動画をチェックする。
ジュリアンは、人工的に着色された浅黒い肌と、角度によって薔薇色に煌く金髪の持ち主だった。母親から渡された写真は、一年前のヴァカンスの時のものらしく、カメラへ向かって屈託なく微笑んでいる。今のほうが髪が伸び、顔つきも大人びているが、どこか甘えた感じの目許は変わっていない。
もう一人のほうーージュリアンとツルんでいる少年の身元も割れていた。クリス・ローランド。細身で中性的な顔。銀色の髪の典型的な今風の
きみは嘆息する。よりによってノナ・ローランドとは。息子よりも母親の方が、俄然、興味がそそられる。彼女はまぎれもなく、いまアントワーヌ市で最も注目されている女性に違いなかった。
任期切れの市長選に伴う、お定まりのスキャンダル合戦が沸き起こっていたが、二期目を狙うローランドに突きつけられたのは、そんじょそこらの醜聞とはわけが違うメガトン級の爆弾だった。
対立候補でジャーナリストのアレクサンドル・マルナル氏は、目下、一年前のさる市議会議員の死にローランド市長が関与していると仄めかしており、氏の発言の是非を巡って、議会及び報道は連日紛糾しているのだった。
*
ことの発端は半年前、議会での市議会議員オウェン・モリスの質問に始まる。市が協賛し、半年後に開催予定となっている古代劇場での特別公演に関して、担当セクションを飛び越して市長の強力な、あるいは強引とも言える後押しがあったことを、モリス議員は突き止めていた。
そこに何らかの癒着があったのではないか。二世議員でルックスも弁舌も爽やかなモリスは、メディアでの露出度を上げる一方、議場では苛烈とも言える調子で市長を詰問した。
しかし、老獪な答弁でローランドはこれをのらりくらりとかわし、容易にイニシアチブを取らせない。ごうをにやした議員は、特別公演の開催中止を求めて、市民に対しキャンペーンを張ることを明言した。メディアを使った多分にスタンドプレー的な攻撃ではあったが、市長サイドにも少なからぬ打撃があるとみられていた。事件はその矢先に起こった。
第四区の〈オーゼイユ街〉。女が街角に立ち、いかがわしい店の建ち並ぶこの街区で、冷たくなったモリス議員が発見されたのだ。
至近距離から拳銃で撃たれた死体は、ゴミの集配所に、生ゴミとともに埋もれているところを通報された。見つかった場所が場所なだけに、議員の私生活の品位を疑う声が続出し、いつの間にか市長へ疑惑追及は尻すぼみになった。
アレクサンドル・マルナル氏はこの事件を取材し、市長にとってあまりに都合のよい議員の死に疑問を抱いたのだという。真実の程は分からない。警察の発表によれば、議員の死は、個人が狙われたと言うよりも、
だが、一度沸き起こったスキャンダルの火を消すのは、容易ではない。市長側は当然疑惑を真っ向から否定。アレクサンドル・マルナル氏を名誉毀損で訴えることも検討中だという。事態は泥沼化の様相を呈している。
案外とーーときみは漠然と思う。ジュリアン・カルノーは、クリス・ローランドに付き合ってやっているだけかもしれない。母親が火だるまになろうとしているのだ。息子のクリスがクサって遊びたくなるのも分からないではない。
というのもここ数日の監視で、行動をリードしているのは、クリス・ローランドに見えたからだ。クリスは、ジュリアンと同じ高校の同級生だ。この学園は幼稚園から大学までの一貫教育が売りだから、幼馴染なのだろう。見たところ仲のよい友達同士といった感じで、どちらかが無理やりつき合わせているようには思えない。
報告書を完成させ調査報告システムに上げるとすぐさま、ベリルのところに寄るようにマザランから返信が入った。ジュリアンの調査もそろそろ打ち止めなので、次の仕事の内容を確認しておくように、という指示。きみは階段を使って三階へ下りた。
〈リヴィングストン・リサーチ〉には、きみのような
「依頼人はジュリー・バロー、五区在住の三十二歳。食料品店の店員で既婚者ーー」
ひと月前、十一月七日の深夜十一時過ぎ、ジュリーの夫リュシアンは、タバコを買いに行くといって家を出た。約五分後の午後十一時十四分、彼が近所の、二十四時間営業のU・S(
拳銃を持った強盗が店に侵入。リュシアンを撃ち、財布の金を奪って逃亡した。頭部を撃たれたリュシアンは即死。八分後、警備会社からの通報で、所轄のパルドー署の捜査員が現場に到着したときには、もちろん犯人の姿は跡形もなかった。
「クライアントの希望は、犯人を見つけ出すことよ」
なるほど、と適当に頷きかけて、危うく思いとどまった。さらっと、とんでもないことを言う。
「ええと…犯人を見つけ出す?」
警察で正式な捜査が始まっているのであれば、探偵などに出る幕はない。
「それは警察の仕事では…?」
「その警察が動いてくれない、というのが依頼人の主張なの」
ベリルが、ため息をついた。それが充分にあり得ることだと、きみには分かっていた。アントワーヌでは武装強盗は珍しくない。一方、警察の人員は限られており、多発する犯罪を全て解決するのは不可能だろう。被害者やその家族にとって、それがどれほど無念であろうとも。
「ーー警察は動いてないのではなく、動けなのでは?」
実際にその可能性が高いはずだった。余計なお節介だろうが、探偵を雇う金があるなら、どこかで一からやり直した方がましではないだろうか。きみがそうしたように。きみの内心を察してベリルはつけ加える。
「そう言ったわ。でも、どうしてもお願いしますって」
まだ旦那さんを愛しているんですって、とベリルは気のない様子で、きみの手に資料を乗せた。
戻りの階段で、携帯電話の着信音が鳴った。
「はい。ブライチャートです」
(ーーもしもし、バズ君か。)
「はい?」
(ーーマコーレンやけどもな、いま時間あるか?)
「え、はあ、大丈夫ですけど」
(ーーほな……会社の前にカフェあるやろ。そこで待ってるから、出てきてくれへんか。)
なんだって社内でなく、わざわざ外で会わなきゃならないんだ。エレベーターの中できみは首を捻った。
カフェ〈コック・ロビン〉は、やけに照明の暗い店で、きみも時折、サボりにくる。マコーレンは、一番奥のボックスシートに陣取っていた。明らかに密談の雰囲気。腋の下に冷たい汗がにじみ出てきた。
「何がええ。何たのんでもええで」
猫撫で声が一層不気味だ。オーダーしたコーヒーが来るまでの間、きみは自分の顔が引き攣っているのを感じていた。ウェイトレスが立ち去るのを待って、それでな、とマコーレンは切り出した。
「忙しいところすまんな。手短にすませるわ」
そういったくせに、眉間に皺を寄せて、マコーレンは黙り込んだ。
「こんなとこに呼び出して、なんや、良くない話ゆう見当はついてるかもしれへんけどな」
マコーレンがようやく口を開いた。
「君にな、戦力外通告せなあかんのや」
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