タブロイド

@ikuesan

第1話

0、

 いつとも知れぬ時代の、〈もう一つの〉ユーラシア大陸、その片隅で。

 

1、

 ぐらり、と大地が揺れたように感じ辺りを見回すが、誰も何も気にした様子の者はいなかった。地震ではない。気のせいだろうか。近ごろとみに、ぐらぐらと世界が揺れているーーきみは、そんな気がしてならなかった。

 きみは十二月の夜に潜んでいる。所在なげに、手元の携帯電話を眺めている風情だが、その実、じっと斜め向かいのビルを窺っている。

 その通りには、舗道の縁石に乗り上げて駐車している自動車や二輪車が、何台も列なっていた。それらに混じって、市内でよく見かける電動三輪車トライクに座っているのが、きみだった。

 フードデリバリーのギグワーカーに変装していて、お仕着せのユニフォームを身にまとい、ロゴの入ったキャップを目深に被っている。配達用の四角くてバカでかいバックパックが荷台に載っている。待ち時間中で、手持ち無沙汰になっている配達員に見えるよう、きみは願っている。

 吐く息が紫煙のようにわだかまり、冷気は小さな針のようにチクチクと顔を刺す。熱を生み出そうときみは、グローブを嵌めた手をニギニギと動かした。キン、と冴え渡った冬の空に、豆粒のような衛星たちが、珍しく同時にかかっていた。べに鬱金うこんと、青金石ラピスラズリと、ひわいろをした、三つの月が。

 

 この場所で張り込みを始めて二時間が過ぎようとしていた。腹が減って、見えない手で胃袋を掴まれているような気がする。

 日々増え続ける体脂肪は、きみの身体を重くはするが、押し寄せる寒さから護ってはくれなかった。腹まわりを気にしている小太りの三十男が、熱量カロリー不足で震えているなんて、笑うに笑えない。

 アントワーヌ市随一の殷賑いんしん地帯、第四区の〈オーゼイユ街〉は、丘の中腹の坂道だらけの地区にあった。低層のビルがごちゃごちゃとひしめき、それらを五色のネオンサインが妖しく彩っている。窮屈なバー、薄暗いクラブ、眩しく光るキャバレー、タトゥーショップ、怪しげな電化製品店、質屋……。建物の狭間にある小さな公園の暗がりには、客を引く女がいる。小狭い通りを上下する自動車のクラクションと、行き交う人波の発するざわめきに、酔っ払いの調子っぱずれな歌声が混じっている。

 目を上げると遠景に、黒々とした摩天楼群が佇立していた。新市街、第七区のイルーニュ・タワーズだ。二つを一つの構図に納めると、きみが監視しているビルは、巨人イルーニュの足元にうずくまる忠実な番犬のように思える。

 〈アントワーヌ市はどの街にも似ていない〉と論評する人がいるが、きみは少し違うと思っている。どこにも似ていないのではなく〈あちこちの街の要素が混ざって統一感がない〉のではないか。げんに〈オーゼイユ街〉はまるで、動画チャンネルで観た、迷路のように入り組んだイスタンブールの下町みたいに見える。

 その店は、若者のたむろするナイトクラブだった。のっぺりとした、装飾を抑えたモダンな外観に大きな正面玄関があり、フットボール選手みたいなダークスーツの巨漢が、周囲を睥睨している。出入りする人間はすべて、そのスキンヘッドのアフリカ系が入念にチェックをしていて、重い扉が開かれたときだけ、内部の音楽EDMが洩れてきた。

 きみはナイトクラブを目の端に残したまま、隣のビルの外壁に目をやる。さもそこに、興味深いものがあるかのように。けっしてナイトクラブを見張っているわけじゃありませんよ、と無言で言い訳するように。

 スプレーで吹きつけられた、イラストとも文字ともつかない落書タギング芸術アートと呼ぶに値するものなのか、きみにはよく分からなかった。少なくとも〈オーゼイユ街〉のそれは、ギャングたちーーこの街では〈アイヤール〉と呼ぶーーが、縄張りを誇示するのに用いる目印だった。まさにスプレー行為イヌのおしっこだ。

 ならず者アイヤールは、イスラム社会の任侠集団に由来する名称だが、アントワーヌに盤踞ばんきょするギャングたちは、ムスリムとは何の関係もない。言葉を上っ面だけで引っ張ってきているのだった。彼らは若者らしさフトゥッワだの、男らしさムルッワだのといった侠気とは無縁な、凶悪な輩だった。

 

 そうこうするうち、危うく調査対象者ターゲットが出てきたのを見過ごすところだった。スライド式の門扉が開いて、巨漢が二人の若者ミネを送り出した。少年、と呼んでも差し支えない年齢の二人だ。

 一人はニットキャップにブルゾン、もう一人は短めのコート。二人とも細いパンツ姿で脚が長い。華奢なシルエットは、女の子に騒がれるポップスターのようだ。ターゲットに間違いなかった。

 きみはキャップの側面に手をやると、録画ボタンをオンにした。携帯電話のアプリを起動し、小型カメラが撮しているものを画面で確認する。

 キャップの前面には動画撮影装置が組み込まれていて、録画が出来るようになっていた。微光監視型のカメラだが、画像の状態はまあまあクリアだった。きみの勤めている探偵社〈リヴィングストン・リサーチ〉の備品である。きみは電動三輪車トライクから降りて、二人を尾行し始めた。

 少年たちは、尾行つけられているなどとは露ほども疑っていない様子で、喋りながら歩いている。

 と、ジャケットの少年が通りを見回し出した。

 きみは慌てて電動三輪車トライクのところに引き返した。今日はクラブのハシゴはしないらしい。

 二人は十七歳で、高校の同級生だった。校則の厳しい学校で、アルバイトはしていなかったが、する必要もないだろう。裕福な家の子どもで、たんまりと小遣いを貰っていた。だから移動にタクシーを利用していた。

 きみが電動三輪車トライクを引っ張り出してスタートさせるのと、タクシーが停まって、二人が車内に滑り込んだのが同時だった。

 

 AIを積んだ自動車の流れは、澱みなく秩序だっていて、見失う恐れはあまりない。街の灯りはゆるゆると流れていく。それでも忍び入る冷気は身体を苛み、きみは震えながらハンドルを握った。運転が得意でないきみは、緊張しながら電動三輪車トライクを操る。

 少年たちを乗せた黄色いタクシーは、東に進んでから、北から来た通りに入って南へ折れた。

 ダラダラとした下り坂で、タクシーの屋根の社名表示灯が常に見えるのがありがたい。時折きみは、電動三輪車トライクのハンドル部分に取り付けた小さなモニタにチラチラ眼をやる。それはバックモニタで、元々は張り込み時に後ろ方向を監視するための装備なのだが、きみはそれを運転時のサイドミラーのように使っていた。これがきみが運転を苦手とする主な理由だった。

 AI制御されていても時折あるイレギュラーな動きをする自動車やバイクを警戒しないわけにはいかない。きみはとある理由で、鏡をまともに見ることができない。ゆえに運転の際はそれなりに緊張感を強いられる。

 坂を下りきるとタクシーは、二十分ほどで摩天楼の狭間にわけいっていた。通りは洒落た常夜灯でライトアップされているが、第七区のとりわけこの辺りは、アントワーヌ市でも圧倒的に異質な一郭だった。

 まず集まっている建物の一棟一棟がとてつもなく大きい。林立する超高層の建物群は、無秩序アナルシーに天に伸びた巨木の森のようだ。建物自体も、半透明な建材をふんだんに取り入れたものや、複雑に正多面体を積み上げたものが混じり、ありきたりな様式とは一線を画している。

 見上げると摩天楼の上層階は、枝のように横に張り出した舗道や通路が縦横無尽に連結されていて、そこを人や車が行き交っていた。架空橋の集合体は、巨大な蜘蛛の巣めいている。摩天楼群は、都市の支配階級ラ・クラース・ドミナーントの集まる、一種のゲーテッドシティを形成していた。

 前方でブレーキランプが赤く灯った。停まったのは黒壁の一棟だった。

 徐行しながら通り過ぎた。頭を何気なくそちらに向けた。ジャケットの少年が降りる姿を、カメラがちゃんと捉えただろうか。壁が途切れたところで右に曲がり、電動三輪車トライクを停めた。ライトもすべて落として待機する。必要もないのに息をひそめてしまう。

 しばらくして建物の前からタクシーが動き出す気配がした。その場でターンして、元の道に戻る。引き続きタクシーの後を追った。

 次の目的地は予想通りだった。タクシーは近くにある別の一棟に向かった。先ほどのと甲乙つけがたい豪奢な高層建築で、ニットキャップの若者が降りた。

 ふう、と息をつく。これで今日は仕舞いだろう。腹が鳴った。頭ではすでに、ダイナーのドアが浮かんでいた。

 それでもきみは携帯電話を取り出すと、会社の調査報告システムに繋げた。テンプレートにしたがって簡易的に日報をつづる。本当はいったん事務所に戻ってカメラ等を戻すのが会社のきまりだが、構うものかときみは思った。温かいメシが食べたかった。

 携帯電話に、メッセンジャーアプリの着信を報せるマークが着いた。キャルからのダイレクトメッセージだった。

 〈どうして?〉

 教えて欲しいのはこっちだ、ときみは思った。

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