龍に捧げよ 第3話

 生徒会の定例会議を終えた昼過ぎ、沙羅は帰宅の準備を始めた。

「申し訳ございませんが、家で神光祭の祭祀がありますので早退させて頂きますわ。鍵の返却は副会長の畑中さんがお願いしますわ」

「あいよ、会長もお疲れさん」

 畑中は視線を手元の書類からは動かさず、さっと手だけを挙げて挨拶をする。

 部屋を出ようとした沙羅はなにかを思い出したように、足を止めた。

「貴船さん、ちょっとだけよろしいかしら?」



 生徒会室を出た廊下の先で、二人は向かいあった。

 麻仁との身長差はクラスメイトのオカ研メンバーや生徒会の仲間たちよりもあるので、沙羅はその顔をぐっと見上げる。

「今日出てきた文化祭のキャッチコピー……貴船さんがおっしゃっていたイメージのお話ですが……」

 沙羅は何やら口をつぐみ、すっきりと言葉を出さずにいた。

 顔を上げたものの伏目がちで麻仁とは視線も合わせず、かつ慎重に言葉を選んでいるようだった。

「今回のテーマが『飛翔』だから、見事に鳥に例えられましたわね。その……大空を舞う秘めた力とか、祈りを込められた、とか」

「はい。自宅で思いついたんです」

 沙羅は大きな瞳をより見開き、麻仁の腕を掴んだ。

「きっ、貴船さんのご自宅でですのっ?」

 沙羅の勢いに一瞬、圧倒された麻仁だったが求められた会話を続ける。

「……はい」

「貴船さんのお社で鳥って、何があったんですの?」

「大した話ではないですが、あたしのうちにあった物がヒントなんですけど、石が光ったり、鳥の『行進』を繋げているうちに、パッと降りてきたっていうか……」

 麻仁の腕を掴む沙羅の両手が次第に震え出した。

 力無く声を発しながらもその指は、はらりと剥がれ落ちる。

「まさか、貴船さんもですのね……」

 突然、落胆し深く考え込む沙羅に対し、麻仁もいささか混乱したが、彼女を心配してどんな言葉を掛けるべきかと思案していた。

「もしかしたら鳥だと会長と被っちゃうかなと思ったんですけど……」

「貴船さん、もしやあなたが神光祭で……いえ、何でもありませんわ」

 沙羅は小さく頭を下げて足早に立ち去る。

「あっ……会長!」

 麻仁は咄嗟に呼び止めようとしたが、廊下の角を曲がった沙羅はすぐに消えた。

 困惑する彼女は、胸元に握り拳を添えたまま、その姿があった辺りを見ている。

「どうしよ、巫女舞のことをまた言えなかったな……」




「それにしても『羽ばたけ! 麗明ガールズ』とは、面白かったな。マニにしてはかなり思い切ったね」

「笑いごとじゃなくて、ホントに考えるの大変だったんだから!」 

 学校を出た麻仁はある家を訪問していた。

 そこは沙羅の自宅でもある神社にほどなく近い、花街のお座敷。

 すなわち副会長の自宅だった。

 ともに帰宅した後は、彼女の家で雑談をしていた。


 背の低い植木が丁寧に刈り込まれ、時間をかけて育てた苔が生えた岩と、石灯籠が配置された庭の見える和室で、お茶を飲んでいた。まだ昼間なので営業をしていない客間を開放し、応接替わりにと案内された。

「偶然なのかもしれないけど、敢えて鳥とはマニも挑発的だよな。もうじき会長んちの宵宮で<鳥の巫女>舞があるっていうのにさ」

 さすがと言うべきか、自宅が沙羅の神社の目と鼻の先である門前で商売する畑中の家は、神光祭のこともよく知っていた。

「マニの方こそ家が水神の神社なんだから、会長の案だった友禅流しとか、水のイメージで来るかなって思ってたのに、なんであそこで鳥なんだよ?」

「うーん……あたしも、そういうつもりは無かったんだけどさ。それはまぁ、大した理由じゃなくて……」

 麻仁もまったく意識していなかったと言えば嘘になるが、その原因は充分にあった。その端緒をまだ沙羅に伝えられていないのも彼女の懸念であり、まだ畑中には言えない秘密でもあったのだが。

 畑中は座敷からよく見える中庭をガラス越しに眺めながら言葉を続けた。

「それにしたって、マニはマジメで苦労人だねぇ。いつも大変なことを嫌がらず受け止めるんだから。文化祭のキャッチコピーくらい手を抜きゃいいのに」

 麻仁自身は苦労を買ってでもしている向きは感じていないのだが、周囲からは苦労人と見られているのだろうか、自宅が神社で巫女だからなのか、と思い巡らせる。


「おっ、マニ。こっちおいで!」

 畑中に急に呼びかけられ、一体なんだろうと庭の見える場所に向かう麻仁。

 すぐ隣に彼女が来ると、畑中は頭を掻きながらもう片方の手で地面を指し示す。

「あ、ごめん。マニっていうのはこいつのことなんだよ」

 金色の瞳を輝かせ、全身を漆黒の被毛が覆う黒猫が中庭に座っていた。毛艶が良いのでおそらくこの近所の飼い猫だろうが、首輪をつけていないので野良猫かどうかは未だ不明だという。

「使用人が余った食材をあげたら、懐いちゃったらしくてさ。それ以来うちの庭を散歩コースにしてるんだよ」

 畑中はガラスの引き戸を開けて、手を伸ばす。

 すると黒猫は喉を鳴らしながら撫でられている。

「あれ? この子ってこんなところにも居るの?」

「なんだ、マニも知ってるのか。確かにこの辺じゃ有名だもんな?」

「うぅん、違うの。うちの奥宮の境内で似た子を見たことがあるんだけど……」

「まさかマニんちとあたしんちの近くまで、野良猫が移動するわけないじゃん」

 以前、双子の弟と一緒に奥宮の境内で目撃した猫に似ているようでもあるが、黒猫の特徴などはどれも同じようなものだ。おそらく自分の勘違いなのだろうと首を捻っていた麻仁だった。


 だが、ふとあることに気づいた彼女は、憮然と畑中を見る。

「ちょっと、そういえば勝手に猫にあたしの名前を付けてるの?」

 なんとなしに釈然としない様子で、麻仁は黒猫と畑中を交互に見る。

「いやぁ、なんか黒い毛なのが、マニみたいでさ。マニも猫っぽいよな」

「え、そう? あたしは猫キャラなのかな?」

 性格の例えが愛くるしい生き物なら、まんざらでもない様子。

「なんだろ、近くて遠い存在って言うのか……神社や巫女っていう独自の世界があってさ、学校でのマニは同じ所に居ても同じ物を見てても、ずっと違う世界に居るんだな、あたしらの知らない世界を知ってるんだなって思う時があるんだよ。でも、性格が堅くて遊びのない会長とは違って、自分の世界を強制してこないし、無理に追ってもこないじゃないか」

「別にあたしのうちが神社で巫女だからって、みんなと同じようなものを見たり聞いたりしてるだけだよ。単なる普通の人だもん」

「そのマニが見たり聞いたりしたものを、神様のためにみんなにどう伝えられるかを頑張ってるんだろ? それが押し付けがましくないから、周りに人が集まるんだよ。でも、たまにはこうして自分を出して素直に甘えてみるのも悪くないと思うけどな」

 麻仁は膝を折り、ゆっくりと手を伸ばして黒猫に触れる。

 畑中に撫でられていた同じ名前の猫は、麻仁の指の匂いを嗅いだあと、眼を細めて額を擦りつけ、同じように愛でるよう催促してくる。

「あなたもあたしもマニなんだね」

 西日の差す静かな庭で、しばし猫と触れ合っていた。



 時間を少し戻した学校の廊下。

 沙羅は、神光祭の祭祀を手伝うために、生徒会を早退した。だが、彼女はぼんやりと前方を見つめてゆっくりと歩きながら通用門に向かう。

 すると、廊下の行く先から英会話講師のステーシーがやってきた。

「あら、サラ。今日も生徒会?」

「そうですわ。でも家でのお勤めがございますので、これで失礼いたします」

 なんとなく心ここにあらずで、素っ気なく振る舞う沙羅の違和感には、ステーシーもすぐに気づいた。

「どうしたのよ? オカ研のことでサラにゆっくりお話も聞きたいし、それにワタシは教員よ。困ったことがあったらワタシに何でも言ってよ」

「えぇ……そうですわね」

「こないだの返信もまだだし、落ち着いたらメッセージでもちょうだい。サラのおうちのお祭りも、もうじきよね。頑張ってね。ワタシもお休みなら見に行くわ」

 それに対する返事もせず、沙羅は眉を寄せるとおざなりに頭を下げて去っていった。

 ステーシーはその背中を見送りながら、小さく息を吐く。




 それからさらに数日後。

 終業式を控えた、七月中旬。

 世間では間もなくに迫る神光祭の山鉾巡行と、その前日の宵宮で、祭礼を今や遅しと待つ街の人々は気もそぞろだった。

 生徒会は変わらず文化祭の準備を行っていたが、沙羅は欠席していた。

 これまでの二年間と同様に、家業の手伝いが一番忙しくなる時期だからだ。


 だが、今日は麻仁も欠席の連絡が来ていた。


 厳しくも的確な指示を行う会長と、優しくフォローをしてくれる会計の貴船先輩の不在によって三年生は半減し、代行をする副会長・畑中の緩い指示系統のもと、なんとなく後輩たちも緊張感のない雰囲気になっていた。

 そこに、書記と庶務を統括する京極が少しばかり疲れの色を浮かべて戻ってきた。

「参ったよ……美術部の書き割りの発注が『飛翔』だからペガサスの下絵を作ってたみたいなの。無理言ってあたしの案に変えて貰ったけど、秋の文化祭で桜吹雪もおかしいし、イチョウやモミジの落ち葉にしてって提案したら『飛翔じゃなくて墜落ね』なんて嫌味を言われちゃってさ……」

「確かに、会長もマニも居ないもんなぁ。その辺の細かい根回しをすぐできる連中が不在だと大変だわな」

 いかにも他人事といった感じで、畑中も肩をすくめながら苦笑していた。


 眼鏡を外して額の汗をハンカチで拭った京極は大きな息を吐く。

「それにしても珍しいよね、マニまで欠席なんて。マニんちはテスト中の七夕にある水祭りが終わったら、秋まで神社の行事は落ち着くはずなのにね?」

「それがさ、会長のうちのお祭りにマニが出るらしいんだわ」

「ホントなの?」

 畑中はカバンから乱雑に折り畳まれた、近所や門前の商店会に配布された宵宮のスケジュール表を取り出した。


『七月十六日・午後六時 神賑奉納・境内舞殿 巫女舞 貴船麻仁さん』


「うそっ! マニが八坂さんちで巫女舞ってどういうこと?」

 それを見た京極だけでなく後輩たちも、にわかにざわめき出す。

「会長が最近なんとなくヘコんでるのって、こういう意味じゃないかな。あたしにはわかんねぇけどね」

「あ~……八坂さん、やっぱり嬉しそうだったもんね。お祭りで舞をできること」

 折に触れて、自宅が主催する祭りで舞を奉納するのを沙羅は楽しみに話していた。

 年に一度の祭りで十八歳の生娘という年齢制限もある巫女舞、自社の主催する祭事とは言え、一生に一度きりのチャンスである。神社とは無縁な京極たちにはわからないが、そこに選ばれた者はやはり名誉なことなのかもしれない。

「でもこれは、あたしたちもマニの応援に行ったほうが絶対にいいよね? その日は生徒会も学校の部活もお休みになるし、みんなで集合しよっか?」

 京極は興奮気味に後輩たちにも呼び掛ける。

 だが、畑中はあまり乗り気ではない様子で頭を掻いていた。

「なんかイヤな予感するんだよな……マニが失敗するのも見てて恥ずかしいし、成功したら会長がご立腹なのも怖いし、それにあたしんちは門前だからさ。あんまし触れないようにしたいもんだけどね」


 背もたれに身体を預けて後頭部に腕を回しながら、畑中はぼんやりと窓の外を見てひとりごちる。

「だから、マニは敢えて鳥って言ったのか……マジメで苦労人なりに、会長に対して抱えてる不満がある訳ないよな。まさかマニに限ってなぁ……」

 梅雨は知らぬ間に終わり、いつ夏を迎えたのか、という程に晴れ渡っている旧都の空は、容赦ない太陽の熱波と不快な湿度で、校庭も揺らめいているようであった。

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