巫女の本懐 第4話

「それじゃマニ。今日はありがとね。あと会長が言ってた<ナントカの巫女>の話、ちゃんと調べといてよね」

「うん。二人とも気をつけて帰ってね」

「うちらより山奥のマニこそ、オオカミや熊に襲われないように気をつけなよ」

 駅で斉藤、小池と別れた麻仁は自宅へと戻っていった。



 市街地を出た頃はまだ頭上で燦然と輝いていたはずの太陽は、電車を乗り継ぎバスを降りると山々の頂きに隠れ、赤い灯を落として辺りは薄暗くなってきた。


 麻仁が自宅に到着すると、なにやら父が慌ただしく大きな足音を立てて廊下や自室を行ったり来たりしながら、身支度をしている。

「やあ、マニ。おかえり」

「ただいま。お父さん、どこかに出掛けるの?」

 せわしなく着替えをしながら父が続ける。

「帰ってきてさっそくで悪いんだが、父さんはこれから隣町のお通夜に呼ばれてね。奥宮の朝御饌を下げ忘れてたんだ。母さんに頼んであるから夕御饌を貰って三方さんぽうごと交換しておいてくれないか」

 麻仁に顔も向けずに、父は鏡を見ながら白いシャツの上に慣れない黒のネクタイを締めている。神職として神式の葬儀を執り行うのではなく、単なる参列者としてのようであった。

「えぇっ、奥宮……?」

 明らかに麻仁の表情に困惑の色が浮かぶ。


 ゆうべの何とも言えない奇怪な雰囲気を思い出し、神域である奥宮によもやオバケが棲み付いてしまったのではないかと思ったからだ。

 加えてオカ研メンバーのせいで知ってしまったオカルトサイトの情報が蘇る。

「あっ、奥宮はほら、あの子たちの担当にしたでしょ?」

 麻仁は慌てて取り繕う。あの子たちとはもちろん彼女の弟のことだ。

「ふたりとも今日は塾に行ってるんだ。マニにしか頼めないんだよ」

 貴船家の取り決めとして、神社での勤めは各人の一日のスケジュールの中で家族が万遍なく分担している。奥宮の手伝いも同様だったが、つい先日、夕闇迫る境内で水たちが警告を発し、オバケが放ったかもしれない奇妙な光を見てからは、姉の絶対的権限で弟たちに丸投げをしていたものの、あいにく今日は塾に行っていた。

「……こんな時間に夕御饌、神様に怒られるよ」

 恨めしそうに父を見つめる麻仁。

 普段の貴船家ならば午後四時には供えたいところだが、時計は六時をとうに回っている。

「午後から急に祈祷が二件も入ってね。今日は千客万来だったな。神様もきっと腹ペコで祝詞を聞いてたよ」

 不躾な冗談を言って父が笑う。

 またしても遅い時間に奥宮に向かう羽目になり、麻仁は露骨に嫌な顔をしていた。



 両手には三方に乗せた夕御饌があるため足元をてらす照明もなく、山の日没が迫った蒼暗いただ一色に塗られた参道をおぼつかない足取りで麻仁は歩いた。

 わずかにある街路灯を通り過ぎると、後方から長い影が追い越していく。

 自身が踏みしめる玉砂利の音だけが周囲の山肌の中に吸い込まれ、時折聞こえる得体の知れない獣の遠吠えに、麻仁は全身を硬直させて歩みを止める。


 生まれ育った家であり遊び慣れた庭だったはずなのに、年齢を重ねると余計な先入観から物怖じしやすくなるのは不思議だ。

 近所の山林では猪や熊などが出没したとの知らせもたまに聞くが、境内は害獣も出ない守護された神聖なものであると日頃から錯覚していた。だが今日は奥宮で見た奇妙な光景が麻仁に恐怖心を植え付けてしまったようだ。

 いつもなら気さくに声を掛けてくるはずの水たちも、なぜかすっかり黙っている。

 三方を持つ手が細かく震え、御饌の白い磁器がカタカタと小さく鳴り出した。

 麻仁は目を閉じると肩を大きく開き、胸を膨らませて鼻から息を吸う。

「こわくない。こわくない。こわくない」

 小声で繰り返し、必死に自分を鼓舞する。このあたりは級友の中では落ち着いた神社の家の娘であっても、ごく普通の高校生の女の子だ。


 もうじき奥宮。この時間はさすがに参拝客も居ない。

 早く用事を済ませてしまおうと、麻仁はさっとおざなりに一礼して門をくぐる。

 昼間の市街地の気だるい暑さとは打って変わり、漆黒を纏うがらんとした境内の清々と冷やされた山の空気と、耳が痛くなるほどの静寂が支配するこの空間は、ここを神域だと改めて教えてくれるかのようだ。

「入りますよ。御饌をお供えするだけですから。すぐに終わりますからね」

 誰に向けての周知なのか、麻仁はひとり喋りながらそろりと歩を進めると、拝殿の格子扉のかんぬきを外して裏手にある本殿に進む。

 本殿に正面を向いていても、たびたび後方を振り返っては、異界の者が姿を現していないか、確認せずにはいられなかった。

「これから御饌をお供えしますよ。あたし別に悪いことしてないですから」

 あんと呼ばれる若木で造られた台には、今朝に供えられてすっかり冷え堅くなっていた朝御饌が既にあったが、それも下げずにその隣に夕御饌の三方をそっと置いた。

「すいません、また明日きますから……神様ごめんなさい」

 麻仁は祝詞も奉じず早々に立ち去ろうとした。


 その時。

 突然に視界がぼやけ、風が揺らす枝葉のざわめきと張り詰めた境内の凛とした空気が、鋭い音となって脳内に強く響きだす。

「きゃっ、また……」

 続けざまに頭痛が襲い、思わず背を丸めて手で側頭部を押さえる。

『聞こえますか』

 頭の中で誰かが呼んだ気がする。

『……巫女よ……聞こえますか……もうすぐ』

 今度は間違いないと確信した。

 誰かの声がする。だがそれは聞こえる音ではない。

 疼く痛みの中に紛れながらも、声が直接頭に届く。

 単語が途切れてしまい、はっきりとは判別できないが。

 脂汗を流して苦しんでいた麻仁は、その声が響くたびに意識が遠のいていく。

 それは以前と同様に不思議な光景が視界に広がった。

 遥か上空に浮かぶ天空の祭壇。その頂上には逆光で顔を霞めた巫女装束の女性。

『そなたが龍を……災厄が……早く』

 またもその女性は両腕を広げてこちらを迎えるような仕草をした。

 その声に誘われるように麻仁は無意識に手を伸ばし、右足を前に出す。

 もう一歩。

 そして左足を動かす。

 突如として何かに足元を取られる。

 麻仁は小さな切り株に躓いてしまい、そのまま倒れて両手をついたところで我に返った。

 あたりには闇が落ちた、いつもの見慣れた奥宮の光景が広がる。

 麻仁は両膝と両手を地面に付けて倒れ込んだ姿勢のまま、何が起きたのかと呆然として数度、瞬きをした。



 顔面蒼白になった麻仁が大急ぎで自宅へと戻ると、リビングでは父親と入れ替わりで帰宅したのか、小学四年生になる双子の弟がいた。

 彼らは塾のカバンを放り出したまま、さっそくポータブルゲームに興じている。

 奥宮からひとり駆け出してやっと家族に会えた麻仁は穏やかな日常を見て、ほっと安堵の表情を浮かべた。

 だが、双子の弟は背後でただならぬ気配を発している姉の存在に気づき、静かに振り返る。

「ねえちゃん、俺たちホントいま帰ってきたばっかだから。まだぜんぜん遊んでないってば!」

「塾の日は帰りも遅くなるし、ちゃんと勉強したからお勤めをしないでいいって父ちゃんとの約束なの、ねえちゃんも知ってるでしょ?」

 二人は息もぴったりに姉に言い訳を始める。


 小学生男子らしく考えるよりも咄嗟に言葉を出して、反射的に自身の立場を守ったのは右源太うげんた。そんな兄をフォローするかのように、理屈を並べたのは弟の左源太さげんただ。

「ねぇあんたたち、奥宮でさいきん変わったことはなかったの?」

 だが、小言を言いだすわけでもなく奇妙な質問を浴びせてくる姉に、双子はにわかに混乱した。

「あんたたちが奥宮に行ったときに、異変があったりしない?」

「ねえちゃんの嫌いな虫は逃がして、クモの巣もちゃんと払って、雑草は抜いてるよ」

「そういうんじゃなくて、もっと変なことよ」

「ドロボーが夜中のうちに、お賽銭を盗んでったとか?」

「違うわよ、例えばなんかすぐ近くで変な声が聞こえたり、女の人が立ってたりしない?」

「だとしたら、いままさに目の前に立ってる女の人に変な声を掛けられてるよな」

 麻仁がゲームで遊んでいたことに腹を立てていないと知った右源太が迂闊にも冗談を言った結果、姉に小さな頭を鷲掴みにされた。

「ふざけてると、あんたも祓うわよ。こっちはマジメに聞いてるの」

 このあたりの姉の機微を読み切れないのが、右源太の稚拙さだった。

 兄のおかげで危機管理能力が飛躍した左源太は、黙ってやり過ごしていた。



 双子のほかに自宅には家族の気配が無いようなので、麻仁は社務所へ向かった。

 そこには通夜から戻っていた父が閉門前の事務処理をしていた。

「やあ、マニ。さっきはすまなかったね」

「お父さん、それよりも奥宮が大変なの」

 麻仁は朝御饌を下げなかったことは少し詫びつつ、これまで妙な声や光がしたという不可解な出来事について、父に終始を伝える。まさか龍神様が顕現したのか、船形石で川を遡上してきた姫神様の降臨か、それともやはりオバケのオンパレードではないか、と――。

 それを聞いた父が大きく笑い出したので、少しむくれる麻仁。

 笑いが収まったところで、父は柔和な表情で語りかけた。

「疲れてるんだよ。いつもマニを頼りにして手伝わせ過ぎたかな。受験勉強もあるだろうし、藤谷くんの出勤でも増やすか」

「そんなわけないってば。あたし絶対に見たんだから」

「マニの年頃なら、そういう不思議なものを見たり聞いたりするもんさ。ましてや小さい時からずっとお社に居るんだ。神様が近くにいらっしゃると思えばありがたいだろう」

「神様……そうなのかな? そうだといいんだけど」

 麻仁は椅子を出してきて、父の斜め向かいに座った。

「そう言えば、お父さん。もう一回うちの奥宮の由緒を聞かせてもらっていい?」

「じゃあ、まずは成り立ちから話そうか」



 奥宮は、元々の神社の発祥であったと伝わる。切り立った岩肌から滾々と湧き出る水の一滴が集まり落ちる、清らかな水流を崇める龍神信仰が由来となっている。

 時として大雨が鉄砲水となり麓の集落を襲うこともあり、龍の怒りを鎮めようと手厚く祀られた。そこには龍が棲むと伝えられていた龍穴があり、奥宮はその上に建てられた。

 対して、本宮は御所から見て鬼門の方角に位置するため、災厄から街を守護するために後世になって今の場所に勧請かんじょうされた。

 太古の時代、水の姫神タマヨリが船形石――いわゆる<神の舟>に乗ってこの地上に飛来した時、もともとこの地にあった龍穴の上に着陸した。姫神は天空遥か高く太陽神のおわす神々の国からやってきたが、<神の舟>を操っていたのは<水の巫女>であったそうだ。

 船頭をする<水の巫女>により無事にここに降臨した姫神だが、けっきょく自らはこの場を去り、厚く信仰する民衆を鎮守する役目はいまの祭神に託した。いつの日かまた大地が災厄に見舞われる時には龍を解き放つために。

 龍の封印の証たる<神の舟>を<水の巫女>が復活させることで龍が眠りから醒め、その絶対的な力で災いを無に帰す――と云われてはいるが、では、その祭神はどこから現れたのか。<水の巫女>とともにやってきた姫神はどこに鎮まったのか。仔細はよくわからない。


 船形石も奥宮の成立よりも前か、同時か、いつどの時代に造られたかも不明だ。

 学術的には土着となった渡来系の海洋民族が使用していた漁業や貿易、果ては戦闘に用いた舟を模したものと推測されていたり、民族繁栄や五穀豊穣の祈祷をする古代祭祀で使われた石舞台なのか岩座いわくらではないか、実は太古の墓所ではないか、と解釈も曖昧だ。

 龍穴も地層の裂け目が偶然の産物で誕生した風穴か、崩落した地下水脈の穴ではないかと考察されているが、その存在について奥宮の本殿や船形石が立っているとされる以上は、文化庁の地質調査もこれまで行われておらず実態は知り得ない。



「街にも龍神様の言い伝えがあるじゃない。生徒会長の八坂さんのおうちには<鳥の巫女>様っていうのが伝わってるみたいだけど、うちの<水の巫女>様とは関係あると思う?」

 父の解説が一段落したところで、麻仁は首を捻ったまま質問を投げた。

「八坂さんのお社とも多少は関係あるだろうね。ここは山深い地だから、水が湧いたり大雨で鉄砲水になるのも水源ならではと言えるよ。龍穴を龍のと捉えることもできるが、単に地下水脈そのものを龍に見立てた説話と考えるのが自然だと思うね」

「それを巫女様たちが封印したのかな?」

巫術ふじゅつの一環として自然の神々に祈るのが巫女だからね。たまたま噴き出した地下水を発見したとか、水脈を言い当てた、というところじゃないかな」

「街の龍神様は、巫女や女の子を生贄とか人身御供にしてたっていうのも、噂なだけ?」

 娘の疑問に父は素直にうなずいた。

「龍に向かってそういう事を言い出すのもやむなしだね。例えば娘が洪水でさらわれた、あんなに龍を信仰して祈ったのにって、やりきれない嘆きや怒りを時として神に向けるのは理解できるよ。善悪の二元論じゃ語れないものだからね。自然は常に人類を超越するもんさ」

 父の言葉に麻仁はわずかに表情を緩めた。信憑性のない都市伝説だとしても、巫女が人柱になったり奇妙な出来事に巻き込まれるというのは、心持ち穏やかでは居られなかったからだ。

「それにしても、なんで姫神様はすぐに居なくなっちゃったんだろ? うちのお社にはそういう姫神様や巫女様の記録ってないの?」

「歴史の古い神社だが、なにせ縁起絵巻が残っていないし、僕らの家は当時からの直系の宮司じゃないからね。代替わりのうちにいろいろわからなくなったという所だよ。マニならなにかわかるかもしれないな」

 父はそう言い終わるか、事務仕事に戻った。


 疑問を解消できるかと期待していたのだが、なんだか真相をはぐらかされたような気もして麻仁はいささか不満を感じた。当然ながら父には娘が求める解答を全て知り得る術もないので、無理な注文というものだが、彼女自身でその結論を見出だして欲しいと願ってのことだった。

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