巫女の本懐 第2話

 麻仁が社務所に向かうと手伝いの巫女が作業をしていた。

「あら、マニちゃん。おかえり。片づけはある程度やっておいたからね」

藤谷ふじやさん、お疲れ様です。遅くなってすいません」


 藤谷は麻仁が学校に行く日や都合の悪い時に来てくれている巫女だ。

 大きな祭礼がある時など観光客の多い季節は、藤谷と二名体制になることもしばしば。彼女は麻仁が高校生になり、巫女として家業の手伝いを始める前からここに勤めており、気のいい姉のような存在だ。


 彼女のとなりに座ると麻仁は小声で話しかける。

「あの、急で申し訳ないんですけど、土日のどちらかって藤谷さんお勤めできますか?」

「もしかして塾か何か? べつに平気よ。大変よね、受験生って。わたしもずいぶん昔の話だわ」

「ありがとうございます。まぁ、確かに勉強も大変ですかね……」

 本当は友人と市内散策なので、そこは黙っていた麻仁だったが、昼間に斉藤たちから聞いた噂話をそれとなく確認してみた。

「ところでここ最近、街で龍神様を祀るお社やお寺で水が枯れてるって噂、ご存知ですか?」

「そんなことあるの? 少なくとも街中でそんな話、聞いたことないけど?」

 神社で奉職しているから熱心な神道であったり、その筋の話題に強いというわけではなさそうで、藤谷もここでの勤務以外はごく普通の生活をしているようだった。

 ただ、染毛をしていない長い黒髪の女性は昨今ではずいぶん目立つので、美容室に行くとたいてい髪の話題になるという、巫女あるあるを披露するくらいだ。

「ヘンなこと聞いてすいませんでした。あたし、ちょっと見回りしてきますね」

 麻仁は社務所を出て境内へと向かう。



 夏休みにはまだ早い季節のせいか観光客も少ないが、門前の飲食店が広げる川座敷は、山の日没が迫る参道を、提灯が煌々と照らす。

 山間いに位置し、市街地よりもはるかに涼しい麻仁の神社は、旧都の奥座敷として避暑にはもってこいの場所だった。

 麻仁は川のせせらぎに耳を傾ける。

 水たちは夏を待ちわびるように、嬉しそうに朗々と歌う。

 それを聞いて笑顔になった麻仁は、そのまま山道を進み奥宮へと向かった。

 その時、視界のはるか先の奥宮の境内がぼんやり光っているように見えた。

「どうしたんだろ?」

 麻仁は足早に奥宮へと向かった。 

 閉門が間もなくに迫る奥宮の境内には既に参拝客の姿は無い。

「いま確かにこのあたりが光ってたんだけど……」

 麻仁は拝殿と本殿を覆う透塀から中の様子を窺う。

「異常なさそう……それとも船形石が光ったのかな?」


 船形石ふながたいし

 この神社で<神の舟>と永らく伝えられているもので、苔を蓄えた大小の岩石が高さは麻仁の頭の先まで、全長は十メートル弱の台形に組み立てられているものだ。

 代々伝わる神社の由緒では、祭神がこの地に辿り着いた際に乗っていた、天駆ける舟を岩に変化させ末代まで遺したものだという。

 麻仁はぐるりと周囲を歩き、いくつかの石に触れてみるもやはり異常は見られない。注連縄しめなわもちぎれたり取れたりもしておらず、そのままだ。

「そもそも石が光るわけないか。なにかの見間違いだったかな?」


 その時だった。

 山肌から染み出す湧水たちが警告の声をあげている。

 何が起こるとも知れないが、麻仁に向けて注意を喚起している。

「どうしたの、みんな? なにかあるの?」

 地震が起こるのか付近で倒木や土砂崩れがあるか害獣が襲ってくるやもしれないと、麻仁は固唾を飲んできょろきょろと周囲を見回した。

「やっ……痛っ!」

 すると突然に頭痛が襲い、視界がぼやけてくる。

 麻仁は咄嗟に側頭部を手で押さえた。

 風が揺らす枝葉のざわめきと張り詰めた境内の凛とした空気が、鋭い音となって脳内に強く響きだした。麻仁の虚ろな瞳が映す黄昏の奥宮の境内には、眼前に在りもしない不思議な光景が次第に差し込まれる。


 明るく開けた暖かい光が差す場所。

 それは、遥か上空に浮かぶ天空の祭壇。

 眼下には流れる雲。

 いつの間にかそこに移動したかのようだった。

 痛みに霞む視界の先には誰かが立っている。逆光で顔はよく見えないが女性の姿。

 祭壇の頂点に立つ女性が口を動かしているようだが、その声は音として届かない。

 そしてその女性は、まるで母が我が子を抱きしめるかのごとく両腕を広げて迎えている。

 眩い景色をよく見ようと目を細めているうちに、神々しい光はやがて消えていく。


 我に返った麻仁が辺りを確認すると、先程の光に包まれた天空の場所から一変し、すっかりと日没を迎えた薄暗い境内に戻っていた。

 参拝客もおらず、いまこの場所には自分ひとり。

「まさか、幻? それともオバケのしわざだとか……」

 麻仁は息を呑むと、神経質そうに奥宮の境内のあちこちに視線を向けた。

 神社の娘だといっても霊感はないし、水たちの声が聞こえるのというのも本人はさほど不思議な事ではないと捉えている。加えてオカルトやホラーは苦手な方だ。ここは神社なのだからありがたい神様の奇跡かも、という発想にもならないほどだった。

 すると、後方の山肌から得体の知れない獣の遠吠えがした。

 麻仁は全身を硬直させ、視線だけを周囲に配る。

 気づけば太陽は山肌に沈み、樹々に覆われた境内は暮色蒼然となり、麻仁の視界を奪う。

 途端に背筋から寒々しいものが全身を走っていった。

「もう帰ろ」

 くるりと奥宮に背を向けると、今度は誰もいない境内の凛とした冷たい空気が背中を撫でた気がした。

 全身に鳥肌が立ち、麻仁は誰に向けてでもなく大声で喋り出した。

「さっ、社務所に戻ろっと。あたし帰りますからね。もう帰るんでこれ以上はホントにごめんなさいっ」

 奉職中は楚々とした仕草を心がけるよう父からは言われていたが、人目が無いのをいいことに、麻仁は巫女草履で器用に玉砂利のうえを足早に駆けていった。


 本宮にもどると、片付けを終えた藤谷がきょとんと麻仁を見返す。

「どうしたのマニちゃん、息を切らせて。顔まっさおだよ?」

「藤谷さんの退勤に遅れちゃうと思って……すいません」

 だがそれは、単に急いだから肩で息をするのとも違う呼吸の乱れだった。

「あんまり急いで転ぶと、またお父さんに怒られちゃうよ? 巫女らしくしなさいって」

 もちろん謎の光やオバケの幻覚の話は到底言えず、麻仁はそのまま黙っていた。

 しばらくして、奥の控えから私服に着替えた藤谷が戻ってくる。

「じゃあ、マニちゃん。お先に失礼するわ。土曜もあたしがお勤めしとくからね」

「ありがとうございます。お疲れ様でした」

 授与所が閉まった後は、両親が神社での勤めを引き継ぐ。

 麻仁は自宅に戻って母と入れ代わりに家事をするのが日課だ。

 友人からは大変そうだとか、少しくらい遊べばいいのにとか、場合によっては定休日くらい設けたらなどと乱暴なことも言われるが、家業が神社ならこういうものなのだろう、と本人は素直に受け入れていた。

 キッチンで弟たちの夕食の準備をする合間に、麻仁は斉藤と小池に返信を入れる。

『遅くなってごめんね。土曜なら外出できるようになったよ』

 すると間を空けず、すぐに二人から返信がきた。

『助かったわ。じゃあ土曜は地下鉄で右京の方に行くから、三条駅に集合ね』



 その週末。

 麻仁は朝の勤めの時刻に合わせて鳴り出したアラームの音で、上半身を起こす。

 いつもの貴船家での奉職を終えて朝食を摂ると、私服に着替えて外出の準備を始めた。

 両親には友人と勉強会をすると、ていの良い理由をでっち上げていた。


 やがて生徒会長の自宅の神社にほど近い、三条駅のホームに降り立つ。

 この日も雲一つない快晴で、地下の駅でなければ太陽に焼かれて相当に暑かっただろう。

「おーい、マニ。こっちだよ。わざわざありがとね」

 斉藤と小池が改札口の前で手を振る。

「別に構わないけど……生徒会があんまり個別の部活動に介入するのは、会長に怒られちゃうかもしれないから、今日はナイショね?」

「心配しなくてもだいじょうぶだってば。それじゃさっそく今日の予定だけどさ。右京の方にある龍関係のところを回りながら、こっちに戻ってこようと思ってるんだ。じゃあ行こう」

 元気よく歩き始める友人らに苦笑しながら麻仁は後を追う。


 移動の車中では、斉藤が手帳とペンを用意した。

「まずは下準備ってことで、マニの知ってる龍伝説を改めて聞きたいんだけど」

「龍神様の伝説?」

「そっ。この旧都に伝わる龍の封印の話なんだけどさ」

「うーん、あたしもお父さんから聞いた程度のことしか知らないけどね……」



 この街に都が移ってから千二百年の悠久の刻。

 周囲を山々に囲まれた盆地に位置しているために、時に未曽有の大雨が都を流れる河川を膨れ上がらせ、氾濫した水は街に押し寄せ、田畑を沈め、家や橋を流す水害が多く発生していた。

 加えて、長い歴史の中で戦火や飢饉や疫病にも幾度となく見舞われた。

 それは都を守護する龍神様がお怒りになったからだ、とされてきた。

 龍は災いを避けるべく街を守り、時に跋扈ばっこする悪霊や鬼や魑魅魍魎ちみもうりょうを退治し、都に安寧をもたらしてきた。そして、民は日頃の守護に感謝して、龍を手厚く祀った。

 だが、人々が信仰を失った時には戒めるため、都に鎮まる龍は自らの封印を解く。

 龍にかかれば全てを洗い流す程の水を街に集めるのも、干ばつを起こすのも意のままだ。

 それゆえ、人々は龍を畏れ、龍を祀る寺社が数多く建立こんりゅうされた。

 ところがそこには別の伝承も含まれる。

 龍を祀る、もしくは龍の縁起が伝わる寺社は、全て龍の結界の一部であると。

 そして、龍が棲息しているとされる地底深くと繋がる龍穴からは滾々こんこんと水が湧くという。

 澄んだ清らかな水が湧き出ているうちは龍は穏やかな眠りについているが、渇水したり湧水が極端に濁ったりすると、龍の怒りが近いと言われていた。

 怒り狂った龍を鎮められるのは、神に連なる巫女だけだとされる。

 その伝承は長い歴史の中で歪み伝えられた。

 巫女は人柱の意味もあるのだと解釈され、少女が生贄に捧げられたという蛮行の説話が一部では遺されているが、これもまた龍の猛々しさや人間の愚かさを表現した戒めとして伝えられているのではないか、と――。



「……って感じで、龍神様をお祀りしているお社やお寺がそうだったみたいだよ」

 斉藤と小池は、合点がいったようにうなずく。

「さすがマニ、やっぱ神社庁の関係者じゃん。あたしたちがネットで調べたとおりだわ。やっぱこの街には異変が近いってことよ」

「そういう伝承ってだけで、必ずしもそうだとは断言できないよ。あくまで信仰だからね」

 だが、小池は怪しく笑うと麻仁の長い黒髪を一本に束ねだした。

「何言ってるの。世が世ならマニはイケニエなんだよ。感謝しないとね」

「別に女の子って意味で、必ず巫女じゃなきゃダメってわけじゃないと思うけど」

「だったら尚更、それをこれからマニが確認する必要があるんじゃないの? それに龍が生贄を求めたんじゃなくて、干ばつを避けるために龍に人柱を捧げたらパワーが増して風雨が強くなったって言い伝えもあるんだよ? そのせいで逆に洪水になったとも云われてるんだけどね。だから龍はホントに神様なのか悪者なのか調べる必要もあると思うんだよ」


 そんな他愛ない雑談をしている間に、列車は乗り換えの駅に到着した。

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