一番怖いのは人間……じゃないヒグマだ!

「あっちだ」


 本山は小声でつぶやき、身を屈めつつある方向を指さした。その先には……藪の中をのっしのっしと歩く、ずんぐりとした黒い影があった。姿形からして、エゾシカではない。


 ――ヒグマだ!


「待て。動ぐな」


 本山は小さな声でそっと言った。その言葉に従い、めいは押し黙ったまま、腰を低くしてヒグマの動きを眺めていた。こちらとヒグマの間には、結構な距離がある。とはいえ、ヒグマの走る速さは時速五十キロメートルとも六十キロメートルとも言われている。全力疾走で向かってきたら、あっという間に詰められる距離だろう。

 遠目からでも、かなり大きなヒグマである。はたしてこれがあの「クビオリ」なのか、それとも違う個体なのか……まだ冬眠の時期には少し早いので、クビオリ以外も活動している可能性は高いだろう。現にめいは牧場に侵入してきたヒグマを一頭撲殺している。


「間違いねぇ、あれがクビオリだ」

「ここからでもわかるんですか?」

「当ったりめぇだ。伊達に何十年もクマ狩ってねぇよ」


 ヒグマは首を振りながらのしのし歩いている。こちらに気づいている様子ではない。めいは懐からスキットルを取り出し、その中身をあおった。


「何だ、こったらときに酒か?」

「これを飲むと力が強くなるんです。信じてはもらえないでしょうけど……」

 

 確かに、ヒグマを目の前にして飲酒するなど正気ではない。でもめいにとっては、戦うためにこれが必要なのだ。

 アルコールが回ると、何だか自信が湧いてきた。今ならあのヒグマの方まで走っていって、撲殺できるかもしれない。それこそ先日牧場で戦ったヒグマのように。


「先手必勝!」


 このまま相手の出方をうかがって、藪の中でじっとするのは何ともじれったい。めいはすくっと立つと、いきなりダッと駆け出した。後ろから「おい待て!」という本山の声がしたが、無視して走り続けた。

 ヒグマに向かってまっしぐら、あっという間に距離を詰めためいは、走り高跳びのように大きく跳び上がった。


「一撃必殺! 酔滅流星キーック!」


 まるで絵にかいたような、鋭い跳び蹴り。けれどもそのキックが、ヒグマの体を打つことはなかった。ヒグマはめいに背を向けたまま、全速力で走り去ってしまったのだ。


「ちっ! 逃げられた……!」


 ヒグマの足は速かった。あれよあれよという間に走り去り、見えなくなってしまった。巨体の動物とはいえ、見通しの悪い林の中で探すのは困難を極めるだろう。何とも口惜しいことだ。


「どこ……出てきなさい!」


 めいは藪の中で一吠えしたが、返事は梨のつぶてである。そのままめいはヒグマの行先へと走った。

 しばらく走ったが、ヒグマの姿は見えなかった。いい加減疲れてきためいは、膝に手をついて息を整えた。

 すると……めいは地面に大きなへこみを見つけた。さっき見たのと同じ、ヒグマの足跡だ。これを頼りに追いかければ、逃げた先を特定できる。

 足跡を見ながら速足で歩くめい。しばらくすると、さっきのように足跡がぐちゃぐちゃになっている場所に行き当たった。足跡が途切れてしまって、ヒグマがどこに向かったのかわからない。


 ……そうだ、これは止め足だ!


 気づいたとき、めいの耳が荒い鼻息を聞き取った。いる。すぐ近くに、ヒグマが――

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