乱入する者

「そこっ!」


 めいは振り向きざまに、回し蹴りを繰り出した。だが、その足は冷たい空気を切り裂いただけだった。


 ――まさか!


 めいの予感は的中した。ヒグマは回し蹴りが空振った後に生じるわずかな隙を狙って、草むらから飛びかかってきたのだ。

 

「くっ……何てヤツっ!」


 めいはギリギリのところで右方に跳び、ヒグマの突進を避けた。ヒグマはその巨体でよくぞと思えるほど素早く体の向きを変え、追撃をかけてきた。極太の右腕が、めいに向かって振るわれる。


「っ!」


 めいは巨体を押しのけるように、左足で蹴りを繰り出した。この蹴りを右肩に食らったヒグマは大きく押し返された。が、その目に宿る闘志の炎は消えていない。相も変わらず、黒毛の怪物はめいに向かって野獣の眼光を飛ばしている。


 血走った、恐ろしい目だった。猛獣という言葉が、これほどふさわしい動物はいない。以前夜道で戦ったホッキョクグマなど、しょせんは人に飼われて野生を忘れた生き物に過ぎない。それに引き換え、目の前のヒグマはどうか。生きるか死ぬかの厳しい自然を生き抜いてきた猛者そのものだ。


 自然とは、自然を慈しむ人間がしばしば夢想するような温かく慈愛に満ちた存在では決してない。人間は人間のために切り抜かれた土地でしか安寧を保てず、ひとたび密林や砂漠、高山などに放り込まれれば、いつ何時なんどき命を脅かされるかわからない弱者に落とされる。


 今、ここは人間のテリトリーではない。ヒグマの領域なのだ。少しでも気を抜けば、命はない――


 めいとヒグマは、しばし睨み合っていた。一撃が命取りになる、極限の戦いだ。


 ……その戦いを中断させたのは、一発の銃声だった。


「じ、銃!?」


 どこからか、誰かが発砲したのだ。その音によって身の危険を察知したのか、ヒグマはめいに背を見せて、藪の中を走り去っていった。

 銃声が響いたということは、本山ではない、別のハンターが来ているのだろうか。だとしたら危ない。狩りに巻き込まれる恐れがある。すぐに知らせないといけない。

 だが……もう一つの可能性もある。ヒグマではなく、めいが狙われたという可能性だ。先日、めいは暗殺されかかったばかりだ。まだ付け狙われていると思った方がよい。


 ――どうすれば……どうすればいい……


 前者であるなら、すぐにこちらの存在をアピールした方がよい。だが後者であるならそれは危険だ。それに、姿を消したヒグマも気がかりだ。だが、二兎を追う者は一兎をも得ず、ともいう。体を二つに裂くことができない以上、追えるのは片方だけだ。

 悩んだ末、めいは腰を低く屈めてその場を離れた。まるで獣の狩りがごとく草葉に紛れ、銃声がした方向へと少しずつ接近した。


 白樺の根本をぐるりと回ったそのとき、もう一発、銃声が聞こえた。銃弾がかすめたのか、白樺の樹皮がぱっと散った。

 今度ははっきりと、草の間からのぞく銃口と煙が見えた。その銃口は明らかにこっちを向いていた。


 ――狙われている!


 さっきの銃は拳銃よりも銃身が長かった。おそらくショットガンかライフルでも持ち出してきたのだろう。そんなものに撃たれたら無事では済むまい。

 めいは慎重に、少しずつ動いた。敵の居場所は、さっき銃口を見たことではっきりとわかった。そこから動いたとて、あまり遠くには行けないだろう。

 膝を屈めて、腰を曲げながら藪の中を動いていると、突然目の前に黒いものが見えた。

 それは、濃紺のデニムジャケットを羽織った若い男だった。手には黒光りするライフルが握られている。まさかこんなばったり遭遇するとは思わなかった。

 

「なっ、貴様!」


 相手もばったり出くわしたことで、あからさまに動揺している。驚いた男はサッと銃を持ち上げ、その銃口をめいに向けた。

 

 ――まずい!

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