中編 ヒグマと人食いサーモンの恐怖
クビオリを狩りに
めいが本山の軽トラックで牧場を出たのは、朝早くのことだった。朝早くと言っても六時であり、牧場はすでにせわしくなっている。食堂の厨房には古田さんではない若い女性がいて、おにぎりを配っていた。おにぎりをペロリと食べためいは、そのまま門の外で待っている本山のところへと参じたのであった。
目的地に着くまで、二人は終始無言だった。めいとしては、この気難しい老人に自分から話しかけるのは気が引ける。そして本山の方も無駄口を叩く必要などないといった風に、黙ってトラックを運転していた。
そうして着いた場所は、山裾の材木置き場だった。
「俺が目星をつげておいた場所だ。ここから山さ入る」
それだけ言って、本山は砂利の敷いてある場所にトラックを停めて降車した。めいも「わかりました」と小さい声で言って、後に続いた。
本山は白樺や松が交じり立つ林に分け入り、踏み固められた獣道をずんずんと進んでいった。めいは慌ててその背を追った。鬱蒼と茂る木々に朝の日差しが遮られ、獣道には陰気な雰囲気が漂っている。
しばらく歩くと、突然、本山の足が止まった。
「わがるか? これがクマの足跡だ」
しゃがみ込んだ本山が、地面を指さした。めいもしゃがんで、指さしたところを見てみた。すると、確かにそこには大きな足跡がくっきり残っている。大きさや形状からして、まず人間のものではない。
「本当はもっと大勢で追い込むんだけども、あいにく動けるモンが一人もいねでよ」
「つかぬことをお聞きしますが……なんで銃を没収されちゃったんですか?」
「知りてぇか」
「……はい」
めいが返事をすると、本山は難しい顔をして黙りこくった。しばらく押し黙った後、本山は迷いを吹っ切ったかのように口を開いた。
「……今のお
本山は一呼吸置いて、話し始めた。
「民家の近くで銃を
「他の方は……どうしてるんですか?」
「猟友会のモンは俺みてえなジジイしかいねえ。俺の知り合いもポックリ死んだり、ボケて免許取り上げられたり、大病して引退したりなもんで、
クビオリみたいな恐ろしいヒグマがうろうろしているのに、それを抑止する側の人手は減っており、残った者の手元には武器がない。どんなに手練れのクマ撃ちでも、銃がなければ戦えないだろう。そんなことで、本当に大丈夫なのだろうか……どうやら東京で毛鹿牧場の人に聞かされた話は本当らしい。
「人間の方がこったらことなってても、クマの方は控えちゃくねれでよ。過疎化で里山が荒れて人の
めいは住宅地のど真ん中で出くわしたホッキョクグマのことを思い出した。あのホッキョクグマは動物園からの脱走個体というイレギュラーな存在だったが、北海道では野生のヒグマが人の住む場所にしれっと姿を見せるというのが驚きだ。あんな大きな生物が住宅地を闊歩する様を想像すると、確かに末恐ろしい。
本山はすくっと立ち上がると、さっきと同じ速さでずんずん獣道を進んでいった。大分お年を召されているだろうに、すごい健脚だ……と感心していると、またしても突然本山の足が止まった。
「おい、見れ。足跡が
今度はしゃがむことなく、立ったまま地面を指さした。見てみると、まるでその場でタップダンスでも踊ったかのように、めちゃくちゃな足跡がついていた。足の方向もバラバラで、その上足跡がここで途切れている。どこへ向かったか皆目見当もつかない。
「止め足?」
「足跡を追われないように、途中で足を止めて後ずさるんだよ。そいだら藪の中さ飛び込んで身を隠す」
「あ、それ知ってます。昔シャイニングって映画で見ました」
本山は無言になり、少しの間立ち止まって考え込んでいた。ややあって、
「こっちだべな」
といって、道を左側に外れて
めいも後から藪に踏み入ったが、藪の中は高木、低木、それからササ類を始めとする草本が鬱蒼と茂っていて、押し通る度にライトダウンの袖を枝葉に撫でられた。途中、木の枝が頭に当たりそうになったので、めいは腰を低くして歩いた。
すると、前方から何か、獣臭さが漂ってきた。そこで、本山はまた立ち止まった。
「ヒグマのクソだべな。ずんぶ大きかえん?」
本山の足元には、大きな黒っぽい塊があった。これが、ヒグマの糞だというのか。かなり大きい。しかも、まだ湿っていそうだ。水気が失われていないということは、排便されてからそう時間が経っていない。そのくらいは、素人のめいにもわかる。そんな新しい糞がここにあるということは……
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