街のクマさん

 シロクマ。正しくはホッキョクグマ……こんな住宅街を闊歩しているはずのない大型獣が、こちらに向かって歩いてくる。


「っ!」


 サプライズホッキョクグマの登場によって、めいの全身が一気にこわばった。全身の毛穴がぶわりと開いて、そこから冷たい汗が垂れてくるのを感じた。

 逃げようと踵を返しためいの右腕を、比奈はガッとつかんだ。


「だ、だめだよめいちゃん! 急に逃げちゃ!」

「何で!? こっちに向かってきてるよ!」

「クマは逃げる相手を追いかけるから、背を見せちゃだめなの! じっと目を合わせながら、少しずつ後ずさって!」


 めいはこくこくうなずき、言うとおりにした。歩いてくるホッキョクグマに向き直っためいはクマの顔をじっと凝視しながら、じりじり少しずつ後ずさった。比奈だって声色からしてホッキョクグマに恐怖しているのは明らかだ。なのに冷静さを失っていないのだから、この旧友はすごい。

 少しずつ、少しずつ、獣と目を合わせながらじっと後ずさる。その距離を埋めるかのように、純白の毛をもつクマはのっしのっしと歩いてくる。


 がおおおおおおっ!


 夜の住宅街に、野獣の咆哮がこだました。ホッキョクグマが太い後ろ脚で立ち上がり、大口を開けて吠えたのだ。女二人を見下ろすその目は血走っており、開いた口から見える立派な牙からはよだれが滴っている。血に飢えた野獣というのは、まさにこのようなものを言うのだろう。


 ――このクマ、やる気だ!


「ひなちゃん、先に逃げて」

「えっ……でも」

「あたしが食い止めるから」


 めいは比奈を庇うように前に立ち、拳を握って迎撃の構えをとった。やるしかない……この酒乱女の全身を、アドレナリンが駆け巡った。


「めいちゃん無茶だよ!」

「……いいや、何でだかわからないけど、やれそうな気がするの」


 夜の静かな住宅街。塀や地面を照らす街灯の下で、戦いの火ぶたは切って落とされた。


 女一人、ホッキョクグマに立ち向かう。人間が徒手空拳で戦って勝てる相手ではない。それでもめいにはなぜか、勝利のビジョンが見えていた。そうでなければ、「立ち向かう」などという無謀は冒せない。

 ホッキョクグマはその剛腕を、上から下に被せるように振るってきた。クマの爪にかれれば、人の顔面など豆腐よりもたやすく切り裂かれるだろう。


「くっ……!」


 めいは間一髪で斜め後ろに飛び退き、攻撃を回避した。少しでも動くのが遅れていたら、あの世への片道切符を切られていた。

 めいの感覚は、二日酔いにもかかわらず研ぎ澄まされていた。いや、酔っているからこそである。酒に酔っているとなぜか力がみなぎり、恐怖心が消え、五感が研ぎ澄まされるのだ。酩酊めいていによって思考が鈍ることで、雑念のようなものが取り払われるからなのかもしれない。

 攻撃を空振ったことでクマに生じたわずかな隙……それを、めいは見逃さなかった。


「えいやっ!」


 右脚による強烈な蹴りが、立ち上がっていたクマの脇腹にクリーンヒットした。体重二百キログラムを超えるその体が、ぐらっと大きくよろめいた。信じられないことだが、この一撃は確実に効いている。


「まだまだぁ! せいっ!」


 めいはダメ押しとばかりにたたみかけた。地面を蹴って跳びあがり、クマの左頬に強烈な右フックを叩き込んだ。さらに右足を軸にして回し蹴りを打ち込む。普通であれば、大型の獣が人間ごときの殴打に動じるはずもない。けれどもめいの打撃は、ホッキョクグマに対して明らかに効き目を示していた。


酔滅拳すいめつけん!」


 めいはその場でぱっと思いついた技名を叫びながら、よろめくクマの喉元にアッパーカットを食らわせた。


 オオオオン!


 ホッキョクグマは情けない声をあげながら、めいに背を向けて駆けだした。めいはその背を追わなかった。めいがホッキョクグマとの命のやり取りに乗ったのは、あくまで自分と比奈の命を守るためだ。相手を叩きのめしたり命を奪うためではないのだから、危機が去ればそれで充分なのだ。

 クマにとって、ヒトなど取るに足らない相手である。しかしこのホッキョクグマは必殺の攻撃をかわされた挙句、立て続けに痛撃をもらってしまった。生命の灯火は消えずとも、闘争の心はすっかり折れていたのだろう。


「はぁ……はぁ……私やったの……?」


 めいは汗でじっとり濡れたおでこを袖で拭った。緊張が解けるや否や、彼女の双肩にどっと疲労が乗っかってきた。時間にして一分にも満たなかった決闘であったが、めいには一時間ぐらいに感じられた。


「めいちゃん……大丈夫だった?」

「うん……私はこの通り……」


 後ろから近づいてきた比奈が、心配そうにめいの顔を覗き込んできた。めいはそんな比奈に両腕を広げて見せ、自分の体にかすり傷一つないことを証明した。


「あのクマ……多分慣れない土地に飛び出しちゃって焦ってたんだと思う。それで私たちにばったり出くわしたから、防衛本能が働いて攻撃してきたんだろうね……」


 そういえば、この街には大きな動物園がある。ホッキョクグマの出どころは、そこしか考えられない。比奈の言う通り、脱走したはいいものの慣れない土地で不安になり、おろおろしているところに自分たちと遭遇したのだろう。それでパニックに陥り攻撃的になった……と。


「正直、今でも信じられないけど……でもね」


 比奈の言うとおりだ。ホッキョクグマをほぼ一方的に殴り続けて撃退するなど人間業ではない。


「……ありがとう。めいちゃん」


 助かったという事実と、旧友のその言葉。これだけで十分だった。


 駅で旧友を見送ったときには、めいの酔いは完璧に醒めていた。汗まみれの体が夜風に吹かれて、めいはぶるっと胴震いをした。


 ――自分は本当に、あのホッキョクグマを撃退したのか。


 今更ながら、信じられない。自分はアーノルド・シュワルツェネッガーでもジェイソン・ステイサムでもない。小学生時代に空手を習っていたことはあるが、昔取った杵柄きねづかというだけだ。ただの酒におぼれたしがない成人女が、どうして素手でサメを引き裂き、ホッキョクグマを撃退できるというのか。

 答えの出ない問いだった。考えてもむだなことは、考えないにつきる。


「酒切らしてるし、買って帰るかぁ……」


 めいはいつものスーパーに向かって、街灯によって煌々こうこうと照らされた道を歩くのであった。

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