第18話 幼馴染の裏切り②。


「っ......」


 漏れそうになる悲鳴を、両手で押さえる。


『私がウィンと結婚してマイヤーになって、その決闘で勝ったら、私が総長になれる? で、ウィンのこと、総長に指名することができる?』


『ううん、大丈夫、別れたらいいから』


 マリーは、確かにそう言った。頭の中で何度も反芻するが、やはり、その意味は、どうしたって変わらない。


「......別れたら、って、そんなの駄目だよ。アルは、どうするの?」


「どうでもいいよ、アルなんて」


 マリーの声は冷めきっていて、俺の心臓を凍りつかせた。それなのに心臓は激しく動き、凍った血液、が身体全体に送り出される。


「......どうでもいい、って、なんで、そんな」


「だって私、アルのこと、嫌いだから。子供の頃から、ずっと」


 ......嫌い? 今、嫌いって言ったか?


 ......ああ、良かった、冗談だ。こんなの、タチの悪い冗談に決まってる。


 だってマリーは、俺のこと、ずっと好きって言ってくれた。

 こんな俺にもいいところがあって、そこが好きだって、まるで聖母のような笑みで言ってくれたんだ。


「嘘、だよ。一年も一緒にいなかったけど、マリーはアルのこと......好きだった、でしょ? 少なくとも僕からは、そう見えた」


「ううん、好きなフリ、してただけ」


 ......あり得ない。そんなことする意味がないからだ。十四年間、好きでもない人を好きなフリをするなんて、一体、なんの意味があるんだ。


「......どうして、そんなこと」


「......そうしないと、辛かったから」


 平坦だったマリーの声に、感情が灯る。悲痛と、憎悪。


「ウィンと会った頃には、アルと結婚すること、決まっちゃってた。パパが決めたことだから、女の私が嫌だって言ったところで、どうしようもない......ウィンだって、わかるでしょ?」


「......そう、だね」


「でも、心の底から、納得できるわけがない。嫌いな人と結婚して、その人の子供を産まないといけないなんて、辛すぎる」


 マリーの声に涙が混じり始める。


「だから、私はアルのこと好きなんだって、頑張って思い込もうとした。アルのことを好きな女になろうって、毎日必死に演じてた......でも、もう限界」


 ......嘘だ。


「......でも、そんな理由で、結婚、なんて」


「それだけじゃないよ。私、ウィンのこと......ずっと、ずっと好きだった」


 今度は、我慢できなかった。嗚咽が漏れるが、二人は気づかない。


「本当は、あの時だって、ウィンについて行きたかった。ウィンが居なくなってからも、アルの買ってる週刊誌でウィンの活躍を見て、毎日後悔してた......もう、後悔したくない」


 嘘だ。


「だから、ウィンと結婚したい。ウィンと結婚して、アルから逃げ出して、貴族になって、ずっとウィンのそばにいたい。二度と、好きでもない人に触れられたくないの」  


 嘘だと、信じたい。でも。

 

 少なくとも、今のマリーの告白の方が、教会で俺に告げた言葉より、熱を帯びていて、聖母ではなく人間としての熱、真実味があった。


「......二回しか会ったことない私でも、わかるよ。このままじゃ、ウィンのお父さんは、ウィンのこと、一生軽蔑し続けるよ」


「っ!」


 ウィンが、息を呑み、マリーから視線を逸らす。


「......どのみち、だよ。自分の妻を、決闘に送り出して、総長になろうだなんて、卑怯な手を使ったら」


「確かに最初は言われちゃうかもしれないけど、団長になったウィンが『マイヤー・ファミリー』をどんどん成長させたら、みんな手のひらを返してウィンを評価するよ? ウィンだったら、そのくらいできるよね?」


「............」


 ......ウィン? なんで、黙るんだ?


 言ってただろ。自分は十分恵まれてるから、これ以上望んだって仕方ないって。

 そうだよ、その通りだ。たかが父親一人に認められなくたって、お前は十二分に恵まれている。


 俺なんて、その父親すら、もういないんだぞ。それなのに、マリーまで俺から奪うのか?

 

 あのウィンが、そんなことするはずがない......そうだろ?


 その時、マリーが立ち上がった。木の椅子がぐらつき、音を立てて倒れる。

 

 マリーは、身にまとう服をするすると脱ぎ捨てていった。


 夫でもない男の前で、シスターになる女が裸になったのだ。


「もし、私を妻にしてくれるなら、私と......えっちして?」


「ぅぷっ」


 猛烈な吐き気に襲われ、脚が震える。


「......何を、言っているんだ、マリー」


「だって、安心、したいもん。夫以外の人に処女をあげた女なんて、絶対にシスターになれないから」


 そしてマリーは、膝をついてベッドに上がる。ウィンの視線が、マリーの身体に吸い寄せられた。


「このままじゃ、アルに初めて、奪われちゃう......そんなの、絶対に嫌」


「マリー、そんなの」


「お願い、ウィン」


「............」


 やがてウィンは、頷いた。そして、ゆっくりとマリーに顔を近づける。


「......ぁ」


 そして、二人の顔が重なり合った時、俺の中で、何か大切なものが、壊れる音がした。


 そこから先は、これ以上のない地獄だった。


 ウィンがマリーに激しく身体を打ち付けるたび、マリーは、俺が聞いたことのない、甘ったるい女の声をあげる。


 ウィンは何度もマリーの中で果てた。その度マリーが、ウィンの身体を這いずり回って、ウィンを昂ぶらせる。


 俺は、二人が愛し合うのを、ドアの隙間からずっと見ていた。

 何度も悪い夢だと思おうとしたが、その度に、マリーの嬌声が、俺を現実に引き戻すを繰り返す。

 現実から目をそらせば、マリーの笑みが脳裏に浮かんでくる。

 もう二度と、あの聖母のような笑顔が俺に向けられることはないんだと思うと、それが何より辛かった。 


「ウィン。愛してる」


「......僕も、だよ」


 そして、行為を終えた二人が、最後に口づけをしたところで、やっと、足が動いた。


 俺は踵を返すと、音を立てないよう、階段を一段一段、慎重に下りた。疲れ切って眠っている母親を起こさないよう、慎重に、慎重に。


 そして、玄関から飛び出ると、そのまま駆けた。

 暗闇の中、何度も転けたが、その度すぐに立ち上がり、駆けた。

 心臓が激しく鼓動を打ち、身体が限界だと訴えかけてきても、駆けた。


 どのくらい、走ったのだろう。気づけば俺は、真っ暗な森の中で蹲っていた。


「......おえっ」


 泣きながら、何度も嘔吐した。

 吐くものが身体の中からなくなっても、何度も吐いた。吐くたびに感情がぐちゃぐちゃになって、やがて身体を支える力もなくなり、自分の汚物の中に顔を突っ込んで、また吐いた。


「......やる」


 意識が、徐々に遠のいていくのがわかった。思考が不明瞭になっていき、その中でたったひとつの言葉が、はっきりと俺を支配した。


「......復讐、してやる」


 泥と血の味の中、口にした言葉が、これから俺が生きる意味だと確信した時、俺は意識を手放した。

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