第15話 人狼、爆誕。


「アル!」


 ウィンの声が、遠い。

 人狼は自分の新しい身体を確かめるように四肢を動かした。そして、軽く右手を振り上げる。


 俺の顔よりも、大きな手。毛むくじゃらの指から伸びる爪を見るだけで、心臓がきゅうきゅうと悲鳴をあげる。


 生物としての、格が違う。


 瞬間、土の壁が目の前に現れると同時に、風が前から吹いてきて、俺の身体がふわりと浮いた。


 浮遊感もつかの間、急速に止まり、内臓が背中側に打ち付けられた。ぐわんぐわんと視界が揺れる。


「アル、大丈夫!?」


 マリーが、俺の顔を覗き込む。俺はボケーっとした頭で頷いた。


「面倒なことになったね。人狼の魔法耐性は魔人の中でも屈指だ。しかし、ヒト化なんて生で初めて見たよ。安心して、まだヒト化したてだから、普通の人狼よりは全然弱いはずだ。いやしかし、僕たちで相手取るのはちょっと危険だね。やはりシンとミャコに任せるべきだ」


 ウィンの興奮気味の声が耳元で聞こえる。

 どうやら、俺を後ろから抱きしめているのはウィンらしい。


 ウィンの手が俺の顔の横から出てくると、拳を広げ手のひらを空に向けた。


『火よ、高く舞い上がり、私が存在する証を、空高く、猛々しく、皆に知らしめたまえ』


 すると、手のひらにバチバチと輝く火種が生まれ、そのまま飛び上がって、すぐに空高く飛び立っていく。


 少しして、森全体に反響するほどの破裂音とともに、あたり一体が赤く染まった。これだけの音と色なら、きっとスオラ村にも届いているだろう。


 その時、巨大な土の壁が、バターのように切り裂かれた。


 人狼は、強烈な音にもなんの恐れも抱かなかったようだ。二足歩行デビューとは思えないほど、堂々とした仁王立ちだった。


「二人とも、じっとしててね」


 その時、ウィンがそう言って、俺とマリーの腰に手を回した。

 

 風が俺たちを包み、三人一緒になってふわりと浮いた。先ほど、俺を引き寄せた風の魔法と、同じようなものだろう。


 ......そうか、逃げるのか。そうだよな。妥当な判断だ。


 人狼もすぐさま、俺たちが戦う気がないことに気がついたようだった。


 俺たちと人狼は、ほぼ同時に動き出した。


 くるりと反転した俺たちは、滑らかに動き出す。そして、すぐさま木に激突したら即死しかねない速度まで加速した。


 首をひねり、後方を見る。


 人狼は軽く膝を曲げると、軽く地面を蹴る。巨体が飛行魔法にかかったかのように跳ね上がり、とんでもない加速で俺たちに迫る。


 すると、人狼の行く手を阻むように、土が隆起し、木の幹ごと折り曲がるような突風が吹き荒れる。そのお陰か、俺たちと人狼の距離は、徐々に徐々にだが、確実に離れていった。


 俺は、首をひねって、人狼を見る。


「......なんだ、それ」


 人狼の表情は、獲物を襲う魔物のそれではなかった。まだヒト化の済んでいないその顔は、悲壮感に満ち満ちていたのだ。


 人狼の巨大な口が開く。


「アル! アル!」


「っ!」


 聞き間違いじゃない。やはり、俺の名前を呼んでいる。


 ある迷信が、武春に載っていたことを思い出す。


 人を食べた魔物には、その人の魂が宿る。


 ......あり得ない。そんなのは、迷信だ。


 魔物に対しての怒りと、自分ではその魔物に復讐できないと言う、救いようのない現実。


 そんな現実を真正面から受け止めたら、心が壊れてしまう。

 だから、その魔物に人の魂が宿ったと言うことにして、その魔物を赦す。赦すことにより、心の整理をつけるための、ただの理由付けにすぎないのだ。


 その、はずなのに......。


「......ウィン、あの人狼、殺さないでくれないか」


「......アル、何を言ってるんだ」


「親父かも、しれない」


「......アル、それは迷信だよ! そんなことはあり得ない! アルは今、衝撃でおかしくなってるんだ!」


「嘘だ」


 子供の頃、ウィンは案外嘘つきで、俺はウィンの嘘を何度も聞いてきた。その時の言い方に、そっくりだったのだ。


「......ヒト化した魔物が、稀に食した人の記憶を持つことはある。でもね、そうだとして、アレが君のお父さんであるわけがない。その人の自伝を読んだらその人になれる? 違うよね」


「......頼む、鬼族の連中に、殺さないよう言ってくれ」


「......駄目だ。人狼は発見次第狩ることを義務付けられてる。アル、落ち着いて聞いて。人狼は君との記憶を頼りに君を騙そうとしているだけで」


 気づけば、俺の身体は勝手に動き出していた。


 暴れまわって、風の包囲網を抜け出すと、高速で動く地面が眼前に迫り、すんでのところで受け身をとった。


 衝撃と共に、肺の空気が全部飛び出す。


「アル!?」


 ぼやける視界の中で、ウィンが急停止し、俺の名を叫んでいるのが見えた。


 そこに、黒い影が跳ねる。

 影はウィンにぶつかり、ウィンは木をなぎ倒しながら吹き飛んでいった。

 

「ウィン!!!」と叫んだマリーが、地面に落ちる。

 ウィンを吹き飛ばした人狼は、木を蹴ってくるりと宙返りをして、マリーのすぐ近くに降り立つ。


 そして、マリーの方にちらりと視線をやってから、興味なさげにそっぽを向き、俺の方に歩み寄ってくる。


 俺は、痛みに悲鳴をあげことのきかない身体を無理やり持ち上げて、人狼を見上げる。


「......親父、なの、か......」


 人狼は、オオカミの口でにっこりと笑った。


 ......あ。


 答えが返ってくる前に、わかってしまった。

 その笑みは、明らかに作られたもので、人狼の瞳の奥には、かけらの愛情も見受けられなかった。


 ああ、ウィンの言う通りだ。


 こいつは、俺の親父でもなんでもない。人狼なんだ。俺なんかより賢くて、よほど狡猾な、人狼。


 俺の名前を呼び、俺に愛の言葉を告げることで、俺を誘った。ただ、それだけだったんだ。


 人狼が、口を開く。よだれが地面にぼたぼたと落ちて、まとわりつくような生臭さに、俺はこれから食われるんだと自覚する。


 ......俺、死ぬのか。


 剣を抜こうとするが、手に力が入らない。抜いたところで、人狼相手に叶うわけがない。


 ......違う。せめて、シンとミャコがやってくる時間くらいは稼ぐんだ。全ては俺の責任。ウィンとマリーを窮地に追い詰めた責任を、取らなければ。

 

 その時、俺の手に何かが触れた。見ると、いつの間にか俺の横にいたマリーが、俺の手を力強く握ったのだ。


 しかし、その小さな手は、俺と添い遂げるためのものじゃなかった。

 マリーは、俺の手を剣の柄から引き剥がすと、俺の代わりに剣を引き抜いたのだ。


 顔を上げると、マリーの顔は殺意に満ち満ちていた。こんなマリーは見たことない、なんて、場違いなことを思う。

 

「よくも、ウィンを!!!!」


 叫び声とともに、マリーは勢いよく立ち上がった。当然、マリーの力では剣を持ち上げることも、できず、剣を引きずりながら人狼の前に出る。


「......マ、リー」


 マリー、ダメだ。マリーまで食べられたら、俺、もう生きていけない。


 それなのに、足はブルブルと震え、動かない。目をそらすことさえできずに、俺はただただマリーと人狼の対決を見守るしかなかった。


 その時の光景を、俺は一生忘れないだろう。


 よく考えれば、俺のステータスでそれを捉えられるわけがないのだが、それでも確かに俺は見たんだ。


 人狼が叫び、マリーの顔を包めるくらいの巨大な手を、マリーめがけて振り下ろす。その時、親父の剣が、まるで何者かに引っ張られたかのように動いた。


 スパッ。


 確かに、そんな小気味のいい音だった。


 ぼすん音を立てて落ちたのは、人狼の前腕だった。


「......グルギャアアアアアアアアアアア!?!?!?!?!?」


 人狼は、肘から先がなくなった右腕をしばらくの間ポカンと見たあと、身の毛もよだつような絶叫をあげた。


 そして、大きく開けられた口をそのままに、マリーを丸呑みにしようと飛びかかる。


 まずは、その巨大な口を横から一閃。そして、そのまま流れるように左腕を落とし、その左腕をさらに細かく切り刻んだ。

 そして、左脚と右脚も同じようにバラバラにしたあと、胴体だけになった人狼に一突き。人狼の絶叫が、ピタリと止まった。


 人狼の胴体が弾け飛ぶと、あたり一面に血が飛び散る。

 

 頬に飛んできた血を、拭う気にもなれなかった。


「......へ?」


 人狼を肉塊にしたマリーはというと、全身を血に真っ赤に染めて、ぽかんと立ち尽くしていた。

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