ビガ様

大枝 岳志

ビガ様

 野菜の出荷を終えて家へ帰ると、妻と母が神妙な顔をしながら居間で向き合っていた。「何かあったのか?」そう訊ねてみるが、二人とも俯いたまま口を開こうとしない。女同士の悩みごとなのかもしれないし、人口二千人もいないこんな狭い村でもトラブルは尽きない。きっと何かあったのだろうな、と思い顔を洗って居間へ戻ると妻が口を開いた。


「あのね、お義母さんが「ビガ様」見たって」

「ええ? おふくろ、本当か?」


 母はいやいや、というように首を振りながら両目を隠すように手を当てた。


「あぁ、思い出すだけでもゾッとするよう。朝方ね、トイレに起きたら見たんだよ」

「本当なん?」

「本当も何も、ビガビガビガーって、山が光ってたんだよ」

「そうか……」


 母と妻が言う「ビガ様」とはこの村に伝わる「山の神」と言われている存在だ。神とはいっても、それは災いを齎す神とされていて、ビガ様が現れる年は不作や災害に見舞われる事が多い。前回のビガ様の際は洪水がこの村を襲い、五名の死者を出していた。

 その日の午後に近所の宮司に話をすると、神酒を持って山へ行ってみるとの事だった。

 宮司一人でビガ様の怒りを鎮められるものかと思っていたが、次の日の昼過ぎになってから村の集会が行われることになった。集会場では何処か落ち着きの欠けた村の連中が集まっていた。空いている場所に腰を下ろすと、幼馴染の清太が声を掛けて来た。


「マサやん、村長がな……ビガ様見たってよ……」

「ビガ様、やっぱり出たんかい……」


 その日は村長による「ビガ様」の報告だった。これからしばらくの間は宮司以外の人間が山へ入る事を禁止された。そして、何も知らずにやって来た観光客がいたら全力で止めるようにとも言われた。前回のビガ様はたまたまやって来た観光客の一家が山へ入ってしまった為に起こされたと噂されていたからだ。公にはなっていないが、村の青年団の連中が一家が泊まっていたホテルを突き止め、無理に押しかけて侘びを要求したそうだ。ホテル側もこの近隣だったので、ある程度の事情は理解していたとの事だった。


 夜。猪除けのネットを見回りに懐中電灯を持って外へ出てみると、山の方へ無意識に目が向いた。真っ黒な山のシルエットの背後で、大きな青光が発光していた。パッと光っては暗闇に戻り、またすぐにパッと空が光った。

 それを呆けたように眺めているうちに突然背筋が寒くなり、思わず懐中電灯を放り出して家へ引き返した。

 家の玄関の前では清太と、その息子の博次が妻と何やら話し込んでいる様子だった。


「マサやん! ビガ様出たで!」

「あぁ、俺もさっき見たで。ありゃあ相当怒ってるな」


 そう言うと、何処か怒ったような眼差しを博次がこちらへ向けて来た。


「あれだけ誰も山に入れるなって言ってたけど、入られたらしいでな」

「誰に入られたん?」

「秘境なんとかっていうおっさんのユーチューバーだって。夕方な、青年団が捕まえて蔵に連れてったで」

「そうな。宮司さんは?」

「祓い切れるか分かんねぇって、本庁の方に相談してるって」

「そんな大事かい。こりゃあ不味いでな」

「不味いも何も、マサやんとこの沢から入ったって聞いたで」


 まさか。うちの土地から山へ入ったというのか。いつの間に入ったというのだろう。見回りをしていたはずなのに、全く気が付かなかった。

 博次はこちらに背を向けるとそのまま暗がりの中へ歩き出して行ってしまった。清太は俺の背中を軽く叩くと、頭を下げた。


「マサやんが悪い訳じゃねぇで。後で叱っとくから」

「いや、きっと俺も見落としてたんだ。博次にすまないって言ってくんねぇかや」

「まぁ、いいで。とにかく今夜は鎮まるの待つんべぇや」

 

 そう言って帰って行った清太と入れ替えに、紫や白の装束に身を包んだ神主達が続々とうちの畑の隅から山へと登って行くのが見えた。誰かが口を開いている様子はなく、やや離れた場所に立っていたが彼らが持つ切麻が揺れる音だけがこちらに届いていた。


 家に入ると母と妻が「怖い怖い」としきりに口にしていた。天気は空に星が出ているが、これから急な悪天候にならないとは限らない。それに、空に輝く青い光は頻度と範囲を増し続けていた。

 山を鎮めている間は酒を身体に入れるのを禁じられている為、茶を飲みながら夜を過ごした。果たして無事に鎮める事が出来るのだろうか。前回が失敗しているだけに、不安は大きかった。

 夜の九時を回った辺りで、携帯電話にメールが入った。母と妻の携帯にも同時に入った事で、俺達は自然と顔を見合わせた。メールの送信者の名前はデタラメな英語の羅列になっていてよく分からなかったが、メールを開くと同時に俺達は「うっ」と声を漏らした。

 開いたメールには


<如血羅弧蓬納悟僧来震華楚序如血羅弧蓬納悟僧来震華楚序如血羅弧蓬納悟僧来震華楚序如血羅弧蓬納悟僧来震華楚序如血羅弧蓬納悟僧来震華楚序如血羅弧蓬納悟僧来震華楚序如血羅弧蓬納悟僧来震華楚序如血羅弧蓬納悟僧来震華楚序>


 という文字が画面いっぱいにどこまでも続いていて、気味が悪くなって携帯を座布団の上に放り投げた。携帯を開いたまま、母が声を震わせる。


「これ、これ! ビガ様が怒ってるんだよ!」

「お義母さん、落ち着いて! ビガ様はきっと、メールなんかしないよ」

「これは、あれだ。神社の連中がお守りが何かの代わりに送ってくれたんじゃないか?」

「違うよ! ビガ様だよ! 神社の人達だったら、血なんて怖い漢字使わないよ!」


 パニックを起こし掛けている母に追い討ちをかけるように、次にテレビ画面に異常が起きた。テレビドラマが流れていた画面が急に真っ白いものに変わると、次第にザラついた黒いノイズが混じり始める。チャンネルの不具合かと思い、他のチャンネルに回してみるが他のチャンネルも同様で、真っ白い画面にザラついた黒いノイズが混じったものが映し出されていた。


「あれ! なんか出た! 出た!」


 画面には「詛」という漢字ひと文字が浮かび上がり、全てのチャンネルがその状態で停止していた。得体の知れない現象に恐怖もあったが、俺は叫び続ける母の声に耳がどうにかなりそうだった。

 母が叫んでいる間に外では誰かが騒ぐ声も聞こえて来て、急いで玄関をでてみると神主達が慌てた様子で山を駆け下りてくるのが見えた。


「マサ! ダメだ、逃げれ逃げれ!」


 地元の神主がそう叫びながら山を降りて来たのを見て、俺は家の中へ向かって叫んだ。


「おい! ダメだって! 逃げれって!」


 その声を聞いた母と妻が急いで居間から飛び出て来る。車の鍵を財布ごと居間に置いて来たのを思い出し、母と妻と入れ替えに家の中へ入ると窓の外が青色に明滅し始めるのが見え、寒気を覚えた。

 急いで財布と鍵を取り、家を出ようとした途端だった。足を踏み出そうとすると温い人肌のような温度を素足の裏に感じた。何を踏んだのかと思い目線を下げてみると、足元の畳や座布団がまるで水に溶ける綿飴のように溶けて行くのが見えた。柱や天井、そして壁も同じように溶けて行き、俺の身体はそれからすぐに人肌のような熱に包まれた。真っ暗闇の中で青い光だけが明滅し続けていたが、動く気力さえも奪われた俺は底知れない暗闇の中で意識を失ってしまった。


 目が覚めると俺は近所の神社の境内の中にいた。相当眠っていたのか、首筋がやたらと痛んで仕方が無かった。辺りを見渡してみると、神社がえらく古びてボロボロになっている事に気が付いた。いや、そんなはずはない。村の連中で集まって先月綺麗に直したばかりだ。

 境内の中だけではなく、なんと俺の家も、そして村の集落も道路も丸ごと全部消えていた。あるのは荒れ果てて朽ちた田畑だけで、人の気配すら何処にも無かった。一体何が起こったのか分からないまま山を降りて、全く見覚えのない存在しないはずの道の駅で何が起こったのか訊ねてみると警察を呼ばれ、そのまま俺は保護された。


「はーい、マサさーん。おはようございまーす」


 今の俺は記憶喪失の人間として、知らない街の医療施設に保護されている。

 誰と口を利いてみても全く話が噛み合わず、俺は口を開くことを諦めるようになった。この国の名前は高栄だったはずなのに「日本」という聞いた覚えのない嘘のような名前らしく、通貨も伎ではなく「円」とかいう単位が使われているらしかった。誰かが俺を騙そうとしているんだとばかり思っていたが、この世界では俺が誰かを騙そうとしているという事になっている。

 

 施設の窓際で口を開いたままの老婆が車椅子に乗ったまま、何処か暗そうな唄を歌っていた。最近入って来たというその老婆は、痴呆なのかまともに口を利くことが出来ないらしかった。しかし、その唄の端々が記憶にある事を感じ取ると、胸が激しく脈を打った。居ても立ってもいられず、俺は老婆に声を掛けてみる事にした。一歩一歩近付くたびに、皺まみれの顔がこちらへ向いて来る。

 その顔が完全にこちらを向いた瞬間に、俺は息が止まりそうになった。


 老婆を良く見てみると、皺に隠れた面影に見覚えがあった。それは口の利けない痴呆の老婆ではなく、見覚えのある俺の母だったのだ

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ビガ様 大枝 岳志 @ooedatakeshi

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