13-4
三人が「風香の迷宮」を脱出したのは、香り草畑をあとにした九分五十秒後だった。ぜえはあと肩で息を整え、汗を拭ったラースは、出て来たばかりの扉を見遣る。
「もう一度行って来る」
「先輩、ダメっすよ! 俺たち、風香の魔法を吸ってるんスよ⁉ もう何秒も居られないっスよ!」
「ニコライさんの言う通りです。いま迷宮内に戻るのは得策ではありません。すぐ王宮に戻り、状態異常を防ぐスキルを持つ者を連れて来なくては」
「そんな悠長なことを言って――うおっ!」
ラースの頭上に何かが落ちてくる。巻き込まれる形で倒れたラースの上に乗りかかったのは、エメだった。
「エメ!」
慌ててラースの上から退いたエメは、安心したような笑みを浮かべる。ニコライがエメに飛び付いた。
「無事だったんスね! よかったー!」
エミルも安堵に胸を撫で下ろす。ラースは立ち上がると、ニコライに抱き締められて困ったように笑うエメの頭を撫でた。エメは彼を見上げ、安心させるような笑顔になる。
ラースはニコライとエミルに視線を遣った。
「俺たちが吸い込んだ風香の魔法はエメのスキルによって浄化されただろうが、長居は無用だ」
「うっス!」
「エメも無事だったことですし」
ラースはエメを片腕で抱き上げた。帰るぞ、と言うと、エメはどこか満足感を湛えた笑みを浮かべた。
* * *
「エメ坊ちゃま! おかえりなさいませ!」
相変わらず門の前で待っていたユリアーネが、ラースの腕から奪い取ってエメを抱き締める。エメはくすぐったそうに笑った。それから、申し訳なさそうな顔になる。
「どうされましたか?」
ユリアーネが首を傾げると、エメは自分のひたいを指差した。ああ、とユリアーネが声を上げる。
「やっぱり会ったのですね! 風の精霊と!」
これには護衛三人も顔を見合わせる。
「どういうことだ、エメ」
問いかけてからラースはハッとした。エメに何があったか説明する術はない。ラースはユリアーネを見遣った。
「おそらく、坊ちゃまは風の精霊シルフにさらわれたのです。あのヘアピンは、シルフが好むペリドットです」
「確かに」と、エミル。「あの『風香の迷宮』の主は風の精霊です。エメが急に姿を消した理由も説明ができます」
「シルフは悪戯好きです。きっと坊ちゃまに興味を持つと思っていました。坊ちゃまは加護持ちですから。あのピンが欲しいと言われたのではないですか?」
エメはこくこくと頷いた。
「やっぱり……。あのヘアピンがあれば解放されるのではないかと思ったのです。シルフは悪戯好きで、捕まえた人間をただでは返さないと言いますから。代わりに、好んでいるペリドットを渡せばあるいは、と」
「俺たちも警戒するべきだったっスね」と、ニコライ。「風の精霊にさらわれるなんて考えてもなかったっス」
「他の精霊は」エミルが言う。「陰から覗くくらいで、そんな悪戯をしたりしませんからね」
ダンジョン攻略中、精霊の気配を感じるのはよくあることだ。しかし、精霊から接触してくることはない。人間と精霊とでは住む世界が違うからだ。
「ご無事でよかったですわ」
ユリアーネは安堵の表情で、エメを抱き締める腕に力を込めた。エメは明るく笑い、抱き締め返す。ユリアーネが、うっ、と呻き声を零すので、エメは心配そうな顔になった。
* * *
「アーデルベルト様」
静かに歩み寄って来たクリスタに、アーデルベルトは読んでいた本から顔を上げる。
「どうした」
「精霊たちが騒いでいます。何か……嫌な風が吹いているのです。胸騒ぎがします」
胸に手を当てて訴えるクリスタに、アーデルベルトは、ふむ、と小さく呟く。彼女のこういった言葉はよく当たる。アーデルベルトは机の鈴を揺らした。
ややあって、神官が部屋に入って来る。
「魔法隊の強化をしてくれ」
「かしこまりました」
静かに頷き、辞儀をして神官はその場をあとにした。クリスタはホッと安心した表情になる。
正体を掴むことはまだできないだろうが、クリスタはこの国に迫る“何か”を感じ取っているらしい。彼女は自身も【加護】を持っている。精霊の声を聞き取ることができる彼女の言葉は、無視をすることができない。打てる手はすべて打つべきだろう。明日、ベルンハルトを呼ばなければ。
* * *
エメは、ふと目を覚ました。
寝返りを打つと、部屋には誰もいない。いつもならラースかユリアーネがいてくれるのに。寂しさがこみ上げてくる。エメは起き上がり、靴を履いた。
なにか胸のあたりがざわざわする。風の音が嫌に響く。
部屋のドアを開けて隙間から外を覗くと、廊下のランプの下でニコライが本を読んでいた。エメに気付いたニコライは、明るい笑みを浮かべる。
「目が覚めちゃったんスか?」
腰を屈めるニコライに、エメはホッとしていた。
「今日は小隊長は別の仕事に行ってるんスよ。ユリアーネちゃんも寝ちゃったし……。あ、俺が添い寝するっスか?」
ニコライは、良いこと思い付いた、と言うように人差し指を立てる。エメが思わず笑うと、ニコライはまた言う。
「小隊長はすぐ戻って来るから、安心して寝てて大丈夫っスよ。外に俺がいますから。何も怖いことはないっス」
エメは頷いた。ニコライはエメの頭を撫で、また明るく笑う。もう不安な気持ちは消えていた。おやすみの辞儀をすると、おやすみなさい、とニコライは手を振った。
* * *
「おかえりなさい」
本から顔を上げたニコライに、ラースは頷く。
「面倒なことになりそうだ」
「坊ちゃんに危険は?」
「ないかもしれないし、あるかもしれない」
「なんでそんな曖昧なんですか?」
「情報が不確定だからだ」
「なるほど」
「まあ、様子見だな」
「了解です」
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