第311話 開き直り

「ここまでだね、下ろすよ?」

「ふふ、ざーんねん、悠樹、鍵貸して?」

「はい、どうぞ。」


 外廊下の床に下ろして玄関ドアの鍵を渡すと、愛花は丁寧にロックを外して静かにゆっくりとドアを開けた。

その恭しい所作は、さながら神聖な祈りの場に立ち入る敬虔な信者のようだ。


「本来の住人が引っ越して来る前だもの、丁重に扱わなきゃね。」

「確かにそうだね、俺も見習うことにするよ。」

「ふふ、良い心がけです、って、あれ?」


 愛花は俺と言葉を交わしながら玄関に足を踏み入れたのも束の間、ピタリと動きを止めてしまった。

彼女の頭越しに玄関を覗くと、そこには女性物のレインシューズが二足、揃えて置かれていた。


「あ、王子さま、お嬢さま、いらっしゃい。」

「こんにちは、紗枝莉さん。」

「こんにちは、桜庭先輩、お一人ですか?」


 愛花を伴ってリビングダイニングに入ると、紗枝莉さんが迎えてくれた。

玄関の様子から一目瞭然なのにもかかわらず、愛花は敢えて姿が見えないもう一人の存在を尋ねる。

その問いに紗枝莉さんはクスリと笑って口を開いたのだが、出て来たのは他の話だった。


「ねえ、お嬢さま、ちょっと相談事があるんだけど、聞いてもらって良い?」

「ええ、私で良ければ、二人きりが良いですよね?」

「さっすが話が早い、わたしの部屋に行こうか、王子さまはここで待っててね。」

「分かりました、ごゆっくりどうぞ。」


 LDを出て行く二人を見送り、ふっと息を吐いて天井を仰ぎ見る。

まったく俺の周りはお節介な人ばかりだなと思う反面、その心遣いが嬉しくもある。

俺は上を見上げたまま、そっと瞼を閉じた。


 暫くそうしていると、LDのドアの向こうが俄かに騒がしくなった。

ようやく本日のヒロインがお出ましのようだ。


『おい、紗枝ちゃん、分かったから手を離せよ』

『だーめ、離したら逃げちゃうでしょ? ほら、入るの!』


 バタン!


「ふえっ?!」


 勢いよくドアが開いた途端、何とも情けない悲鳴と共に明るいミルクティーブラウンの髪をふわりと躍らせて、俺の胸に紗代が飛び込んできた。

俺は彼女をしっかりと抱き止め、そのまま優しく包み込んだ。


「大丈夫ですか? 紗代。」

「う、うん、大丈夫…だから…、離し…」

「嫌です、離しません。」

「ぁ…」


 皆まで言うのを待たずにキュッと抱きしめると、紗代は一瞬身体を固くしたものの、俺の背中におずおずと両手を回して抱き返してくれた。

彼女の温もりを感じて、俺の心には愛しい人と触れ合うことが叶った喜びが広がっていく。

そしてそれは、きっと紗代の心にも…。


「あなたに会いたかった、紗代、もう離したくない…」

「私も、お前に会いたかった…、我慢しなきゃいけないのに…耐えられなかった…」


 俺たちは想いを交わし、相手の存在を確かめるように互いをきつく抱きしめる。

俺の耳にはドアを閉じる音が微かに届いていた。




「まったく、私もお前も、ダメダメだな。」

「本当に、これじゃ我慢の利かない子供ですね。」


 紗代を後ろから抱き抱え、ベランダ側の窓に凭れて座っていた。

彼女の自重気味な言葉に俺も同調して返してはいるものの、二人の表情を見れば、決して悲観しているわけではないことが分かるだろう。

それどころか、寧ろスッキリした面持ちさえ浮かべている筈だ。

なぜなら俺たちは、半ば開き直っているのだ。

 そんな俺たちの傍には、愛花と紗枝莉さんが座っていた。


「わたし思うんだけど、紗代ちゃんも王子さまも、もっと自分を甘やかしても良いんじゃないかなぁ。」

「桜庭先輩の言うとおりです、ストイック過ぎるのも考えものってことですね。」

「あれ? ねえ、お嬢さま、流石にストイックは違うんじゃない? 二人とも思いっきり愛欲にまみれてるよねぇ。」

「紗枝ちゃん、ちょっと待て、それじゃあ私がふしだらな女みたいじゃないか。」

「そうですよ、俺の恋人になんてこと言うんですか、たとえ紗枝莉さんでも事と次第によっては…」

「え、ちょっと、これってわたしが悪いの? ねえ、お嬢さま、何とか言ってよ。」

「悠樹と前田先生は十分禁欲的ストイックだと思いますよ? 私たちにはとても真似できません。」

「あなたたち、一体普段どんな生活してるの?!」


 紗枝莉さんの叫びは、まだ調度品が置かれていないLDに木霊のように響き渡った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る