第301話 引っ越し予定

 日曜日の午後早く、俺と清澄母娘、愛花、アデラインの六人は、午前中に引き渡しを受けたばかりの新・前田宅を訪れていた。

玄関を上がって奥へ進むと、当然のことだがまだ家具が入っていないので、どの部屋もとても広く感じられる。

特にベランダに面したリビングダイニングは大きな窓の効果もあり、フィットネススタジオのような様相さえ醸していた。


「うわー、先生のおうち広ーい、これは走り甲斐がありそうだにゃー♪」

「家具がないから広く…って、おい?!」


 LDに入り片足でくるりと1回転した涼菜は、次の瞬間、キュートな猫目をキラリと輝かせて走り出してしまった。

慌てた紗代が捕まえようとするが、伸ばされた手をスルリとすり抜け、尚も縦横無尽に駆け回る。

その表情は何とも楽しそうだ。


「悠樹、黙って見てないで止めてくれ、2階に響いちゃうだろ!」


 元気に走り回る涼菜を微笑ましく眺めていると、焦った紗代から救援を求められた。

一戸建ての我が家と違ってマンションでは階下にほかの住人が暮らしている。

ドタバタと走り回っては、近所迷惑も甚だしいのは当たり前だ。

普段であれば俺も迷わず止めにかかるところだが、今回に限っては何ら心配していない。

涼菜も十分弁えているのだ。


「大丈夫ですよ、紗代、ほら、よく見てください。」

「何が大丈夫なんだよ、…って、ふえっ? あれ一体どうなってるんだ?」


 俺に促されてあらためて涼菜に視線を向けた紗代が目を丸くした。

それもその筈、涼菜はほとんど足音を立てずに走り回っているのだ。

もちろん無音というわけにはいかないが、耳に入ってくるのはバタバタではなくパタパタ程度、例えるならスリッパで軽く床を叩く程度で済ませている。

これも彼女の身体能力があってこその妙技と言えよう。


「はあ〜、我が娘ながら、本当に人間離れしてるわね。」

「私、涼菜の身体能力の高さには驚かされるばかりです。」

「にゃんこモードのすずにかかれば、こんなのどうってことないでしょ?」

「そうですね、涼菜さんにとっては、お茶の子さいさいってところでしょうか。」


 ただ、このままいつまでも駆け回られては俺たちも落ち着けない。

俺は両手を広げて涼菜に声をかけた。


「ほら、すず、こっちにおいで、一緒にほかの部屋も見せてもらおう。」

「はーい♪ にゃんにゃーん♪」

「よしよし、すずは元気が良くて可愛いな。」

「ふにゃーん、ごろごろごろ♡」


 俺に呼ばれて胸に飛び込んできた涼菜を抱き抱えながら頭を撫でると、彼女は嬉しそうに喉を鳴らして頬を擦り付けてくる。

俺はにゃんこモードで甘えてくる涼菜を抱っこしたまま、皆と共に家の中を一通り見せてもらった。




 LDに戻って車座になり、持ち込んだペットボトルのお茶をいただき喉を潤す。

皆が人心地ついたところで、胡座をかいた俺に抱っこされた涼菜が話の口火を切った。


「先生、引っ越しって、いつにしたんですか?」

「引っ越しは来月29日の予定だ、それまでは換気に来なければならないな。」


 畳部屋がないのでそれほど気を使うことはないかも知れないが、湿気が多いこの時季に空き家を放っておくと、空気が澱んでカビが生えやすくなる。

たとえ毎日でなくても、部屋の空気を入れ替えることは重要な作業だ。

しかし、そのためだけにわざわざ足を運ぶのは、些か面倒だろう。


「それ、俺が学園の行き帰りにやっておきますよ、紗代は暫く忙しいでしょう。」

「ああ、確かにな、この先3週間は無理かも知れん、悪いが頼む。」


 明日から1週間、学園は試験準備期間に入り、翌週は期末試験が実施される。

更に次の週は採点期間になるので、試験主任教師の紗代は暫く時間を作ることが出来ないのだ。


「そう言えば、家具の配送もあるのよね、土日は大丈夫なの?」

「ええ、仕事は平日に済ませますので、配送日には来られます。」

「じゃあ心配いらないかしら、配置は悠樹くんがするって言ってたものね。」


 家具の設置は配送業者がすることになるが、そのあとの細かな調整は自分たちでしなければならない。

買った家具のうちドレッサーはまだしも、ベッドを女性の手で動かすのは些か骨が折れる。

やはりそういう時こそ、男手に頼ってもらいたいものだ。


 家具を入れる算段をしているところで紗枝莉さんがふと何かを思いついたらしく、紗代へ向けて唐突に話を振った。


「そうだ、ねえ紗代ちゃん、わたし、家具を入れる日は遠慮しとくから一人で来てね。」

「え? 紗枝ちゃん、遠慮ってどういうことだ?」

「だって、王子さまとベッドの具合確かめるのに、わたしが居るとお邪魔でしょ? 二人きりが良くない?」

「ふえぇ?! 紗枝ちゃん、何言い出すんだ?!」


 紗枝莉さんの気遣いに溢れた提案に、真っ赤になった紗代がワタワタと慌てふためく姿はいつものとおり。

このあと、美菜さんからはシーツと差し入れゴム製品の提供が約束された。

 なお、結局配送当日がどのようなことになったのかは、読者のご想像にお任せしたいと思う。



* * * * * * * * * * *


告知を忘れてました。 

前話から紗代莉さんと桜庭さんの、地の文での

呼称を変更していますのでご承知おきを。


 紗代莉さん → 紗代

 桜庭さん  → 紗枝莉さん


行き当たりばったり感丸出しですみません。

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