第6幕

第239話 愛しき人

 朝方、薄らと意識が覚醒すると、仄かな香りに鼻腔を擽ぐられた。

左肩に感じる温もりの主が好んで纏う、爽やかな柑橘系の香りだった。


 温もりの側へ視線を向けると、ミルクティーブラウンの髪が目に映る。

初めて見た時は色を入れているのかと思った明るい髪色は天然のものらしく、少し童顔寄りの顔立ちと相俟って、この人に柔らかで可愛らしい印象を与えていた。

普段、学園で見せるお固い姿しか知らない者であれば、同一人物だと気づくことはまずないだろう。


「ん…」


 暫し寝顔を眺めていると、彼女は吐息のように小さく声を漏らして、こちら側へ寝返りを打った。

そうすると当然、彼女の顔は、彼女を見ている俺の顔の至近に迫る。

このタイミングで目を覚ましたらさぞかし驚くだろうと思っていると、彼女の瞼がピクリと動き、そのまま薄らと持ち上がった。


「紗代莉さん…」


 名前を囁きかけると、紗代莉さんはふにゃりと幸せそうに相好を崩す。

しかしそれも束の間、彼女は再び瞼を閉じて寝入ってしまった。

その様相の何と愛くるしいことか、思わず笑みが溢れてしまう。


 頭の先にあるカーテンに手を伸ばして軽く捲ると、空はすっかり青みを帯びていた。

今日も天候に恵まれた、穏やかな一日になりそうだ。




 シャワーを使わせてもらってから2階に上がり、部屋の扉を軽めに叩く。

返事がなかったのでそうっと扉を開けて中に入ると、紗代莉さんはまだ眠ったままのようだ。


 掛け布団の上から添い寝をしつつ、すやすやと眠る寝顔を覗き込む。

朝御飯までは時間があるものの彼女もシャワーを使うのではないかと思い、起こすべきかと逡巡していると、彼女の瞼がゆっくりと開いていった。


「おはようございます、紗代莉さん。」

「……ぁ、おはよ……、へ? ゆ、悠樹?!」


 紗代莉さんは目の前に俺が居ることに気づくと、掛け布団でサッと顔を隠してしまった。

どうやら今度こそ目が覚めたようだ。


「今は6時です。朝御飯までまだ時間がありますけど、シャワーを使うならそろそろ起きたほうが良いですよ? ほかの子も使うかもしれませんし。」


 少しすると、紗代莉さんは真っ赤になった顔をおずおずと目元まで覗かせ、恥ずかしそうにこちらを見る。


「俺はリビングに降りてますね、1時間くらいで戻ります。」

「うん…、助かる…」


 返事をくれた彼女の声は、口元が布団に隠れているのでくぐもっていた。

それが可笑しくてクスリと笑うと、紗代莉さんは布団の端を持ち上げて頭までスッポリと隠れてしまった。




 ソファーに座ってスマホを弄っていると、パジャマ姿の愛花がリビングに入って来た。

手には化粧ポーチを携えているので、パウダースペースで朝のフェイスケアをしていたのだろう。


「おはよう、悠樹、朝は冷えるね。」

「おはよう、まな、ワンピースだと足元が寒いんじゃない?」

「ふふ、ちょっと寒いから、抱っこして温めてもらおうかな。」

「ん、了解。よっと。」


 傍らに立つ愛花をヒョイと抱き上げ、いつものように膝の上に座らせて背中を上半身に預けさせた。


「やっぱり、悠樹はあったかいね、とても安心する。」

「まなもあったかいよ、昨夜は眠れた?」

「うん、南雲さんと鷹宮さんとお喋りしてるうちに、いつの間にか眠っちゃってた。」

「そっか…」

「うん…」


 会話は直ぐに途切れた。

話すことがないわけではなく、二人とも相手の温もりにただ浸っていたくなったのだ。

愛花の体温を感じていると、心の中までじんわりと温かくなっていく。


 思い起こせば、これまで愛花が朝からこのような触れ合いを求めてくることはなかった。

昨夜、俺と一緒に居られなかった寂しさがそうさせたのではないかと思うと、彼女に対する申し訳なさと感謝の気持ちが胸に広がる。

俺は我知らず、愛花のお腹に回した両手に力を込めていた。


「好きだよ、まな。」

「うん、私も、君が好き。」

「紗代莉さんとの時間をくれて、ありがとう。」

「私は…、ううん、私たちは、君が望むことをしてほしいと思ってるだけ。」

「そっか…」

は、私たちの ”家族” になってくれそう?」


 俺たちにとって ”家族” とは、想いを共にして手を携えて生きて行くことが出来る人のことだ。

愛花は今、あの人のことを『紗代莉さん』と呼んだ。

それは多分、彩菜、涼菜、愛花の三人が、紗代莉さんを ”家族” として受け入れる心算こころづもりがあることを表してくれたのだと思う。


 紗代莉さんは俺には恋人が三人いることを承知の上で、俺の気持ちに応えてくれた。

しかし、だからと言って、彼女が俺と三人の関係を理解し納得しているとは限らないのだ。

人の心というのは、それほど単純なものではないのだから。


「きっと大丈夫だと思うけど、きちんと話すことにするよ。」

「うん、そうだね、それじゃあ、私は部屋に戻るね。」

「うん、あとでね。」


 愛花を抱えていた手を離すと、彼女は俺の膝からピョンと降りて、パジャマドレスの裾をふわりと浮かしながらこちらを振り帰り…


「言い忘れてたけど、前田先生、そろそろシャワーから戻ると思うよ? じゃあね。」


悪戯っぽい笑顔を残してリビングをあとにした。



* * * * * * * * * * *


お読みいただき有難うございます。

更新再開します。

以前のように毎日ではなく不定期となりますが、キーボードを叩く手は止めていませんので、引き続き読んでいただけると嬉しいです。

どうぞよろしくお願いします♪

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