第238話 残り香

 2階に上がり宛てがわれた部屋の扉をノックすると、内側から紗代莉さんの声がした。


『誰だ?』

「俺です、悠樹です。」

『ちょっと待て! ………… どうぞ。』

「失礼します。」


ほんの少し待たされてから部屋に入ると、紗代莉さんがバッグの前に座ってパジャマを手にしていた。

傍にはランジェリーポーチがあるので、程なく入浴するつもりのようだ。


「お疲れ様です、教え子との恋話こいばなはいかがでした?」

「… お前、分かっていて逃げたな?」


 それは当然だ、俺まで加われば二人揃って格好の餌食になるのは目に見えている。

女子の恋話に、男子が入るべきではないのだ。


「すみません、男が居ると出来ない話もあるでしょうから。おかげで一番風呂にありつけました。」

「まったく、お前は …、まあ良い、風呂に入ってくる。」

「分かりました。」


 紗代莉さんはバッグを持って立ち上がり、俺の脇を抜けようとしたところで徐に立ち止まった。


「お前、何かつけてるのか? 薔薇の香りがする。」


 つい先ほどまで、まりちゃんと寄り添っていたからだろう、彼女が使っているローズオイルの香りが移っているのだ。

無表情で俺を見上げる紗代莉さんに、素直に答えた。


「ローズオイルですね、今までリビングで、まりちゃんと一緒だったんですよ。」

「ふん、そうか …、じゃあ行ってくる。」


彼女はそれだけ言い残すと、部屋から出ていった。




 コン、コン、コン


 程なくして、誰かが部屋の扉をノックした。


「はい、どうぞ。」

「失礼します。」


返事を聞いて扉を開けたのは、アデラインだった。

パジャマ姿なので就寝の挨拶にでも来たのかと思ったが、表情に僅かな陰りがある。

はたして何かあったのだろうか。


「お兄さま、少しよろしいですか?」

「うん、良いよ、何かあった?」


 アデラインは入室して俺に近づいたところで、何かに気づいたようだ。

彼女は俺をじっと見つめてから、小さくため息を吐いた。


「なるほど、そういうことなのですね。お兄さまも罪なお方です。」

「紗代莉さんのことだよね、心配かけてごめんね。」

「いえ、お兄さまがお分かりでしたら、私から申し上げることはございません。」


 多分、風呂上がりに紗代莉さんとすれ違った時にでも、彼女の様子の違いに気づいたのだろう。

聡いこの子には直ぐに分かった筈だ。


「うん、ありがとう。今日は楽しかった?」

「ええ、とても。連れて来ていただいてありがとうございます。」

「どういたしまして。さ、明日もあるから、もうお休み。」

「ふふふ、まだまだ子供扱いなのですね。」

「そんなつもりはないけどね、お部屋までお送りしますよ? レディー?」

「それは素敵なお申し出ですね、それではお願いいたします、ミスター?」


 俺がスッと胸の前に左の掌を差し出せば、アデラインもそれに応えて右手を乗せてくれる。

俺たちは自分たちの仕草にくすくす笑いながら、1年生部屋の前まで手に手を取って歩いて行った。




 暫くして、俺が布団を敷き始めたところで、紗代莉さんが風呂から帰って来た。

先ほどと違い、面持ちが柔らかく感じられる。

何か気持ちを切り替える切っ掛けがあったのだろうか。


「そんなことをさせて、すまんな、手伝うよ。」

「いえ、俺がやりますから、椅子にでも座っていてください。そうだ、布団、隣り合わせでも良いですか?」

「え、あ、うん …、そうしてくれ … ////」


 紗代莉さんは頬を桜色に染めて、布団から目線を外した。

俺と相部屋だと言われた時から分かってはいただろうが、並んだ布団を目の当たりにすれば、どうしても戸惑いと恥じらいが前面に出て来てしまう。

それは誰でも同じなのかも知れないが、そもそも彼女は超が付く恥ずかしがり屋だ。

はたして内心がどのようなことになっているのか、計り知れるものではない。


「お待たせしました、これで、いつでも …」


 最後に枕を二つセットして立膝のまま振り返ったところで、突然何かがのしかかって来て、もろとも後ろに倒れ込んでしまった。

俺は紗代莉さんに押し倒されたのだ。

彼女は俺の背中に両手を回してギュッと抱きついている。


「紗代莉、さん?」


 俺が何も出来ずに身動きせずにいると、紗代莉さんがか細い声で囁いた。


「好きだから …」

「… え?」

「お前しかいないから …」


 彼女からはシトラス系の爽やかな香りがしていた。

湯上がりに香水を使うとは思えないし、普段とは少し違う香りなので、多分ボディークリームか何かだろう。

 紗代莉さんはこの香りで、まりちゃんの残り香を消してしまおうとしているかのようだ。


「紗代莉さん …」

「うん …」

「あなたの香りをもっとください …」

「全部 … お前にやる … だから …」


 彼女の声が微かに震えていた。

喜びなのか、悲しみなのか、愉しさなのか、不安なのか、何が紗代莉さんの心を揺さぶっているのかは分からない。

ひょっとしたら、それら全てが綯い交ぜになっているのかも知れない。


 いずれにしても、俺は今、彼女に伝えなければいけない。

俺の気持ちを、本気の想いを、全身全霊を込めて。


「俺の心は、あなたのものですから、あなただけで満たしてください。」


俺は彼女の震える体を両手でそっと包み込んだ。



* * * * * * * * * * *


 お読みいただき有難うございます。

 この物語の第5幕はここまでです。

 幕間を挟んで第6幕をお届けします。

 引き続き読んでいただけると嬉しいです。

 どうぞよろしくお願いします♪


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