第232話 お色直し

 4月最後の土曜日、駅前のコーヒー店で本日のおすすめブレンドを手元に窓の外を眺めていた。

ここから見える駅の改札口からは、上り下りの電車が到着する度に、数人の降車客が吐き出されている。

今は9時45分、週末のこの時刻であれば、人の流れはこの程度のものだろう。


「この時間なら、乗る人の方が多いわよね。みんな、ショッピングモール辺りに行くのかしら。」

「そうですね、日和も良いし、出かけるには最適でしょう。」


 カウンター席に座る俺の隣には、同じように改札口を眺めている美菜さんが居た。

俺たちは、まもなくこの駅に到着する、ある人たちを待っているのだ。


「今入ってきた電車がそうですね、俺、迎えに行って来ますよ。」

「わたしも行くわ、そのまま、連れて行っちゃいましょ。」


 店を出て駅に近づくと、何人かの人に混じって二人連れの女性が改札を抜けて来るのが見えた。


「丁度良かったみたいですね、今、出て来ましたよ。」

「え? それらしい人は見当たらないけど、どこにいるの?」


 どうやら美菜さんは、待ち人が近づいて来るのが分からないらしい。

しかしそれは無理もない、何しろ今日のあの人は彼女が思っているようなオンモードの雰囲気ではないのだから。


「おはようございます、紗代莉さん、桜庭さん。」

「ああ、おはよう、わざわざすまんな。」

「おはよう、王子さま、土曜日なのにごめんね?」


 美菜さんは俺たちが挨拶を交わしている様子をポカンとした顔で見ていた。

けれど、ようやく目の前の人が待ち人だと思い至ったようだ。


「ちょ、ちょっと悠樹くん、ひょっとして…」

「美菜さん、紹介しますね、こちらがすずとアディーの担任の前田先生と、従姉妹の桜庭さんです。」

「先日はお電話で失礼しました、稜麗学園高校1年1組担任の前田と申します、此度は私事にも関わらず、お手を煩わせてしまい申し訳ありません。」

「あの、わたしは、彩菜さんのクラスメイトで桜庭と言います、今日はよろしくお願いします。」

「ご丁寧にありがとうございます、清澄彩菜と涼菜の母です、お二人にはいつも娘がお世話になっています。」


 美菜さんは何とか気を取り直して二人に挨拶を返したものの、未だに信じられないものを見るような面持ちで紗代莉さんに見入っていた。




「お疲れになったでしょう、さ、どうそ腰を落ち着けてください。」

「ありがとうございます。」


 俺たちは不動産屋での用件を済ませてから、美菜さんに連れられて清澄家にお邪魔していた。


 不動産屋での遣り取りは、1時間かからずに終わった。

美菜さんの情報どおり、この近所に売り家になる予定の部屋があり、5月中に今の住人が退居することになっているとのこと。

紗代莉さんのことは既に売主には不動産屋から話が入っていて、大型連休明けであればいつでも部屋を見せてくれるそうだ。

価格交渉はこれからだが、仮に順調に事が運んだとすると、最短で6月中旬には入居できることになる。


「実際に引っ越すのは、1学期が終わってからになるだろうがな。」

「確かに授業があるうちは無理ですよね、俺、手伝いますよ。」

「二人とも、ちょっと気が早くない? まだ、契約したわけでもないのに。」


 不動産屋はほかにも売り家を幾つか紹介してくれたのだが、結局、紗代莉さんは美菜さんから教えてもらった1件にしか興味を示さなかった。

その理由が俺の家に最も近い物件だからだと思うのは、流石に自惚が過ぎるだろうか。


「先生、いらっしゃい、お家、どうでした?」

「ふっ、ここにも気が早いやつが居たな。」

「?」


 涼菜とアデラインがリビングにお茶を持って来てくれた。

早速右手を伸ばして一口啜ると、豊かな香りと味わいにホッとする。

不動産屋でも出してもらったが、一口含んだだけで手を止めてしまった。

清澄家でいただくお茶は、ほかとは一味も二味も違うのだ。


「ほお、これは美味いな、さっきのお茶など、足下にも及ばん。」

「ホントに美味しいねえ、お母さんが淹れてくれたのかな。」

「いえ、これは、すずが淹れたものですね、そうだよな?」

「えへへ、正解でーす。やっぱり、ゆうくんには分かっちゃうね♪」


 涼菜がソファーに座っている俺に抱きついて、頬を擦り寄せて来た。

多分そう来ると思い湯呑み茶碗をテーブルに戻しておいたのが功を奏し、俺のお茶は溢れずに済んだ。

ただ残念ながら、ここにいる全員が涼菜の行動に慣れているわけではない。

俺の隣では、驚いた紗代莉さんがお茶をひっくり返してしまっていた。




「いや…、これは、ちょっと…若作りが過ぎるだろ…、恥ずかしいよ…////」

「そんなことないですよ! ゆうくん、見て見て! 先生、可愛いよね♪」


 お色直しをした紗代莉さんが、涼菜に連れられておずおずと2階から降りてきた。

先ほども白いニットセーターにサーモンピンクのプリーツスカートを合わせた、とても可愛らしい服装だったけれど、今度はベージュのニットカーディガンにデニムパンツというボーイッシュな感じの、また別の可愛らしさが際立つコーデになっている。


「すずの方が背が高い分、上下ともゆったりめになって、良い雰囲気に仕上がってますね。よく似合ってますよ。」

「そ、そうかな…、変じゃない、かな…」


 変どころか、大人の可愛らしさを纏った彼女をこのまま街に連れ出して、この人が俺の恋人だと自慢したくなるレベルだ。


「紗代莉さん、良ければそのまま外に出ませんか、二人きりで歩きたくなりました。」

「ふえぇっ?! お前、何言い出すの?!」


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