第227話 嘘つき

 美菜さんはソファーの背もたれの上に右肘を預け、軽く握った右手で傾けた頭を支えながら、アンニュイな雰囲気を醸している。

けれど、その気怠そうな表情とは裏腹に、彼女の2つのまなこにはどす黒い炎が渦を巻いていた。


「わたしが何を言っているのかなんて、分かりっこないわ。あなたにとっては、もう、どうでも良いことでしょうからね。」


 俺にとって『もう、どうでも良いこと』、美菜さんは確かにそう言った。

つまりは、俺の紗代莉さん絡みの振る舞いに、これまでの言動を覆す差異があり、それは彼女にとって到底許し難いということだ。

けれど、俺にはまるで思い当たる節がない。


「あなた、去年の暮れに言ったわよね、自分にとって歳上の女性は4つ上までだって。」

「え…」


 あの時に言った『歳上の女性は4つ上まで』とは、美菜さんの愛娘である結菜を念頭に置いてのことだった。


 俺にとってとても大切な、憧れの人、初恋の人、俺に女性の愛し方を教えてくれた人、そして今でも、俺のことを想ってくれている人…。


 俺はその人を、結菜のことを踏み躙る重大な過ちを犯してしまったというのか…。


 しかし、いくら考えても答えに到達できない。

はたして一体何が…。


 俺が考えあぐねていると、美菜さんはゆらりと立ち上がり、俺の傍に回り込んで両膝をついた。

そして、俺の肩に両手を置き、耳元にそっと唇を近づけて囁いた。


「この嘘つき、あなたのことは、もう信じない。」


 美菜さんの言葉が、グサリと突き刺さる。

けれど、その痛みがかえって俺を冷静にした。


『嘘つき』、嘘…。

それは、誰の嘘なのか…。


 カチリ…


 脳に回路が出来上がり、一つの推論に辿り着いた。

しかし、これはまだ未完成だ。

完成させるには、確認しなければいけないことがある。


 俺はこちらの様子を固唾を飲んで見守っているアデラインに質問した。


「アディー、教えてほしいことがあるんだ。最近、翔太さんに会ったか?」


 話を振られると思っていない彼女は一瞬だけ戸惑いを見せたが、直ぐに明確な答えをくれる。


「あの、翔太さんは、長期出張で暫くいらっしゃいません。明日、お戻りになると伺っています。」

「ありがとう、アディー、助かったよ。」

「いいえ、お兄さまのお役に立てたのでしたら何よりです。」


 笑顔で礼を言うと、アデラインも笑顔を返してくれた。

彼女のおかげで、俺の推論は完成した。

それはつまり…


「美菜さん、年齢は関係ありませんよね?」

「あら、それはどういうことかしら。」


 傍らにいる美菜さんに顔を向けると、彼女はスッと視線を逸らす。

その行動こそが、俺の考えが的を射ていることを如実に語っていた。


 ならばはっきりと突きつけてあげよう、美菜さんの言動の真意とは。


「美菜さん…」

「何よ…」


「娘の恋人は、欲求不満の解消に使えません!」

「ケチ! 使わせてくれたって良いじゃない!」


 結局、俺と美菜さんは、昨年のクリスマス過ぎに結菜の部屋でした遣り取りを再現していただけだったのだ。

(※ 第149話をご参照ください)


「だって、わたしが毎夜毎夜、悶々として過ごしてるのに、あなたは年増女と昼間っからヤリまくってるだなんて、羨ましいわ悔しいわで、文句の一つも言いたくなるじゃない。」

「彼女は年増じゃありません、26歳です。それに、さっきも言いましたけど、俺と彼女はまだまだこれからですから。翔太さんが居なくて寂しいのは分かりますけど、それでたちの悪い弄り方されたら、こっちは堪ったもんじゃないですからね?」


 しかも、今回は俺が弄られるだけではなくて、紗代莉さんまで侮辱されたのだから、何らかの責を負ってもらわねば気が収まらない。

ただ、ここで何とか反転攻勢をかけたところで、手痛い反撃を喰らうことは目に見えている。

ここはたとえ膠着状態のままでも、収束に向かわさざるを得ないだろう。


 俺がこのまま事を収めようと思っていると、思わぬ方向から横槍が入った。


「お母さん、先生は凄く良い人なんだから、変なこと言わないでよー」

「先生? ちょっと涼菜、ひょっとして悠樹くんの新しい彼女って、学園の先生なの?」

「うん、あたしとアディーの担任の先生。」

「あ〜、そうなのね〜」


 俺を揶揄う新たなネタを手に入れ、美菜さんがキラリと瞳を輝かせたのは言うまでもない。




「あ〜、疲れた…」


 晩御飯の後片付けを終えて、キッチンで大きく伸びをした。

あのあと、彩菜と涼菜がもう晩御飯の時間だからと美菜さんをお隣へ強制送還してくれたので、今日のところは一先ず収束したと言って良いだろう。

このまま美菜さんの頭が冷えてくれると助かるのだが、はたしてどうなることやら…。


 リビングに戻りソファーで寛いでいる彩菜の隣に腰を下ろすと、彼女は身を寄せて言葉をかけて来た。


「ねえ、ゆう、さっきの話だけど、私たちに遠慮してるんなら…」

「そうじゃないよ、元々、俺が卒業するまで待つつもりだったしな。」


 俺と紗代莉さんは、二人とも無理をせずに、今の生活を大切にしようと決めた。

それを先ほど食事の時に、皆に話して聞かせたのだ。


「紗代莉さんは教師という仕事が好きだし、俺はお前たちを大切に思ってるから、それを蔑ろにしたくないんだよ。」


 教師と生徒という学園における立場の違いは、そのまま俺たちの生活パターンの差異に直結している。

人間関係などの周囲の環境や年齢差による考え方の違いなども考えると、社会人と高校生の恋愛とは、かくも難しいものなのだなと思う。

互いに顔を合わせる時間が取れないと、それだけで不安が募ることもあるだろう。

俺と紗代莉さんは学園内で会う機会があるだけ、恵まれているのかも知れない。


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