第226話 恋の形

 夕暮れ時の住宅街を、三人で連れ立って歩いていた。

紗代莉さんと桜庭さんが暮らしているマンションに向かっているのだ。

各駅停車しか停まらない小さな駅から5分ほどの所にある少々古めの物件だが、先日伺った際に、セキュリティーがしっかりしていて女性が暮らすのに適していると感じた。


「駅前にちっちゃいスーパーがあったでしょ? あれのおかげで、遠くに買い出しに行かなくて済むんだよ。」

「私は、途中にコンビニがほしいがな。」


 残業になるとほしいものがあってもスーパーの営業時間に間に合わず、桜庭さんに頼まなくてはいけなくなるそうだ。

あまり遅い時間だとそれも出来ないので、諦めざるを得なくなるのだろう。


「うちの近くなら、コンビニもあるんですけどね。」

「そっちは家賃が高いからな、新人教師じゃ借りられんよ。」


 俺は実家暮らしなので近所の賃貸がいくらで借りられるのか知らないが、彼女が学園に採用された時に調べた限りでは、たとえ家賃補助があるとしても中々に厳しかったそうだ。


 そんな話をしているうちに、いつの間にかマンションに辿り着いていた。

俺たちはエントランスに入ることなく、手前で足を止める。

俺は預かっていたショップバッグを二人に差し出した。


「お返ししますね、今日は楽しかったです。」

「ああ、私も楽しかった、また、そのうちな。」

「ええ、また、そのうち。桜庭さんも、また。」

「ねえ、ホントに上がって行かない? お茶でも…」

「いえ、今日はこれで帰ります、それじゃあ。」


 俺は踵を返し、二人に見送られながら元来た道を駅へと向かう。


 今日は紗代莉さんとの時間を存分に楽しむことが出来た。

 多分このあと、俺も紗代莉さんも、互いの声を、表情を思い出して、また直ぐに会いたくなってしまうのだと思う。

それ以前に、そもそもこれまでの俺なら、彼女を抱きしめて離しはしなかった。


 けれど、今の俺と紗代莉さんは『恋愛初心者』だ。

これから互いに手を取り合い、手探りで二人の恋の形を作り上げて行くことになる。

それはきっと、急いてはならないのだ。

二人できちんと擦り合わせをして少しずつ進めて行かなければ、多分また、些細なすれ違いにさえ悩んでしまうことになるだろう。


 今の二人には『また、そのうち』くらいが丁度良い。

俺と紗代莉さんの時間は、始まったばかりなのだから。




 我が家の最寄駅に着く頃には、すっかり陽が落ちていた。

晩御飯の時間がいつもより遅くなってしまうが、皆にはあらかじめ了承を得ているので問題はない。

朝のうちに仕込んでおいたビーフシチューをメインにするので、それほど待たせることもないだろう。

俺は近所のスーパーでサラダ用の生野菜を買ってから、足早に我が家へ向かった。


 玄関のドアを開けて『ただいま』と帰宅の挨拶をして中に入ると、涼菜がリビングから飛び出して来た。

しかし、彼女の様子がいつもと違う。


「ゆうくん、ダメー! 逃げてー!」

「え? おい、すず、一体どうした…」


「お帰りなさい、悠樹くん、さあ、今すぐこっちへいらっしゃい。」


 大慌てで俺を外へと押し戻そうと飛びついて来た涼菜の背後には、暗黒のオーラを纏った美菜さんが魔王の如く睨みを効かせていた。




 俺はリビングのカーペットの上で、姿勢を正して正座していた。

ローテーブルを挟んだ対面には、美菜さんがソファーで優雅に足を組み、こちらを見下ろし泰然と微笑んでいる。


「さあて、悠樹くん、わたしが何故、ここにこうして居るのか、分かっているかしら。」


 今から5ヶ月ほど前に、ほぼ同じ構図で美菜さんから尋問を受けたことがあった。

あの時は、俺の隣には愛花が座らされていた。


「俺にまた一人、彼女が出来たからでしょうか。」

「正解。前回、あなたとこうして話をしたのは、神崎さんとお楽しみの翌朝だったわよね。」


 ダイニングから様子を見ていた愛花がビクッと肩を震わせた。

多分、5ヶ月前の恐怖が蘇ったのだろう。

あの時は結局、二人揃って美菜さんに揶揄われただけだったのだが、今、目の前にいる彼女の迫力たるや前回とは比べものにならない。


「で、今回は新しい彼女の家から堂々の凱旋、いよいよこの家も手狭になって、別宅が出来たってところかしら。まったく、今日は彼女と何回ヤって来たのかしらね。」

「俺と彼女はまだプラトニックな関係です。勝手な想像しないでください。」


 美菜さんがどれほどの圧をかけて来ようとも、これだけは譲れなかった。

俺と紗代莉さんは、キスをしたこともなければ手を繋いだことさえないのだ。

一度胸にいだいたことがあったけれど、あれは父性ゆえの行動なのでノーカウントとさせていただく。


「プラトニック? へえ〜、あなたがねえ、本当かしら。」


 美菜さんは俺の言葉を値踏みするかのように、一語一語を時間をかけて口にする。

その言葉の一つ一つがずっしりと肩にのしかかり、俺の全身を徐々に苛んで来るかのようだ。


「まあ、それは良いわ、本質はそこじゃないしね。」

「…本質?」


 彼女の言葉の真意が分からず思わず恋人三人とアデラインに視線を送るが、皆、一様に首を横に振る。

はたして美菜さんは、俺の言動の何に対して牙を剥いているのだろうか。


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