第220話 Spécialité
トレーに置いた六人分のマグに、ゆっくりとココアを注ぎ入れる。
少し猫舌の紗代莉さんのために、最初に注いだココアに蓋をするように冷たいホイップクリームを浮かせた。
皆の分にもクリームを落とし、キッチンからトレーごとリビングに運ぼうとしたところで、涼菜に紗代莉さんのマグをサッと掻っ攫われてしまった。
紗代莉さんに届けてくれるのなら、それで良いかと見送ったのだが…
「先生、お待たせしました、ゆうくん特製ラブラブ・ココア for 紗代莉さんバージョンをお持ちしましたー♪」
「ふえっ?! 何だその恥ずかしいネーミングは?!」
誰が聞いても恥ずかしい何とも言えないネーミングで供されてしまった。
「すず、それ言ってて恥ずかしくないか?」
「そーお? ゆうくんの愛情たっぷりなのは間違いないでしょ?」
「それは、そうだけど…」
「ふふふ、先生、お兄さまがご用意されたものですから、ネーミングはどうあれ味は確かです。どうぞ手をおつけください。」
「う、うん、お先にいただきます…、(ふぅ…)あ…、熱くない…」
紗代莉さんはマグに口を近づけて、いつもどおり吹いて冷まそうとしたところで、彼女にとって飲み頃の温度になっていることに気づいてくれた。
紗代莉さんは暫しマグの中を見つめて口元に柔らかな笑みを浮かべてから、あらためて口をつける。
「(コク…)……、はぁ〜」
ココアを一口味わった紗代莉さんは、ゆっくりと息を吐き…
「…これは、責任を取ってもらわねばな。」
マグの縁にほんのりついた焦茶色を親指で拭いながら呟いた。
それを聞いたアデラインが、不思議そうに小首を傾げる。
「責任…、ですか?」
「ああ、私はもう、ほかのココアを飲めそうにない、まったく、どうしてくれるんだ。」
彼女のピンクベージュに艶めく唇からは苦情めいた言葉が零れるものの、マグに向かった瞳は幸せそうに細められていた。
「飲みたくなったら、また来てください。俺は、いつでも大丈夫ですから。」
皆にココアを渡し終えてから、自分のマグを携えて紗代莉さんの隣に座って声をかけた。
彼女はこちらを一瞥もせず、マグに視線を落としたままポツリと呟く。
「…お前が、うちに作りに来い。」
「…え?」
一瞬、自分の耳を疑った。
紗代莉さんの口からそのような言葉が出てくるとは、思いも寄らなかったのだ。
アデライン、涼菜、愛花が俺と同じように目を丸くする中、彩菜だけが訳知り顔で小さく頷いていた。
紗代莉さんは頬を桜色に染めながら、なおも言葉を繋ぐ。
「紗枝ちゃんが居る時にな、二人きりは、ダメだ。」
「はい、それはもちろん…。でも…、ご迷惑をかけることになりませんか?」
学園以外で紗代莉さんに会う機会が増えるのは嬉しい。
けれど、もしも俺が彼女の部屋に出入りしていることが学園に知れたら、教師として仕事を続けられなくなってしまう。
そのようなリスクを彼女に負わせることなど、出来るわけがない。
「心配しなくて良い、大丈夫だ。」
「大丈夫なわけないでしょう。」
「良いんだよ、大丈夫なんだよ。」
「あなたが教師で居られなくなるかも知れないんですよ?」
「いや、だから…」
「紗代莉さん…」
「ストーーーップ!」
「「むぐっ?!」」
俺たちが顔を突き合わして押し問答を始めたと見るや、彩菜の両手が割って入り、二人の口を塞ぎながらグッと押し分けた。
「ああもう、焦ったい! 二人とも良く聞く!」
「「はい!」」
彩菜の一喝に、俺たちは背筋をピンと伸ばした。
彼女はため息を吐きつつ、桜庭さんから聞いていたという紗代莉さんの言葉の真意を教えてくれた。
要は、桜庭さんが俺と恋仲になったため、同居人である紗代莉さんが学園生として不適切な行為に及ばないよう目を光らせることにした、という設定にすれば万事上手く行くのでは? とのこと。
「前田先生は言葉が足りないし、ゆうはゆうで話をちゃんと聞かないし、二人が思いやり合ってるのは分かるけどね。」
「「ごもっともです…」」
「恋愛初心者の前田先生は分かるとして、ゆうがそんなんじゃ、先が思いやられるよ。」
確かにそうだ、俺たちが互いのことを思いやっているのは間違いない。
けれど、想いの擦り合わせをしないままで、各々の気持ちだけで行動しようとすれば、噛み合うことなどありはしないのだ。
いつもの俺なら、そのようなことは考えずとも、自然に振る舞うことが出来ている筈なのに…。
俺が思いに沈んでいると、直ぐ傍でコトリと音がして、紗代莉さんがソファーから腰を上げた。
「ご馳走様、そろそろ私はお
「はい、先生、また明日。」
「今日は、お越しいただきありがとうございました。」
「清澄姉、お前の言ったことは肝に銘じておくよ、神崎も、邪魔してすまんな。」
「もっと二人で話して、考えた方が良いと思うよ。」
「私たちは、皆、応援してますから。」
「ああ…」
紗代莉さんは短く返事をして、スッとリビングを出て行った。
俺は立ち上がり、彼女のあとを追った。
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