第202話 お気に入り
「ところで、桜庭先輩、私たちの誰かにご用だったんじゃないですか?」
最近のことまでは分からないが、俺が知る限り桜庭さんは彩菜に用がある時にしか図書室を訪れたことがなかった。
今回もそうなのだろうと思ったけれど、どうやらそれだけではないようだ。
「あ、そうだった、清澄さんに用があるんだけど、紗代ちゃんにも聞きたいことがあったから、丁度よかった。」
「私にも?」
桜庭さんが持ってきた彩菜への用事は、金曜日の修了式後にクラスの有志で打ち上げをするので参加してほしいと言うものだった。
彩菜はこちらにチラリと視線をくれてから、参加の意思を示していた。
そしてもう一つ、前田への用というのは…
「紗代ちゃん、今日も遅くなりそう? ご飯どうする?」
「新年度の準備があるから、帰宅は21時頃になる。食事は先に済ませてくれ。」
「はーい、最近いつも遅いよね、体壊さないでよ?」
「心配かけてすまんな、忙しいのは今週いっぱいだ。春休みになれば、少しは息が抜けるだろう。」
字面だけだと夫婦の会話にしか見えないが、これは間違いなく桜庭さんと前田の遣り取りだ。
二人は桜庭さんの学園進学を機に、同居を始めたそうだ。
「って言うかね、紗代ちゃん、家事がなんにも出来ないのに、一人暮らし始めちゃったもんだから、心配になっちゃって。」
「それじゃあ、桜庭先輩が
「そ、この人の面倒を見るため。」
前田を見るとバツが悪そうに、明後日の方に顔を向けている。
従姉妹の進学先を左右するほど家事が苦手とは、はたして…。
ふと、とある人物に思い当たって読書テーブルの向かい側に目をやると、彩菜が菩薩さながらのアルカイックスマイルを浮かべて遠くを見つめていた。
多少のアクシデントはあったものの、前田は伝えるべきことは伝えたからと図書室をあとにした。
あのあともう一つ、前田から告知があった。
今年度、図書委員会の顧問だった女性教師が産休に入るので、4月からは前田が顧問を引き受けることになったとのこと。
毒を食らわば皿までもと思ったかどうかは定かでないが、彼女が俺たちのことを考えて動いてくれたことは確かだろう。
ただ、図書室を去り際に…
「今になって後悔しているがな。」
と言い残したのは、本気なのか冗談なのか。
いずれにしても、時間を巻き戻すことなど出来はしない。
多分今までの顧問同様ほとんど関与せずに済むだろうから、名義貸し程度に考えてくれれば良いと思う。
「それにしても、王子さまが、紗代ちゃんまで手懐けてるとは思わなかったわ。」
「違いますよ、人聞きの悪い。俺と前田先生は、正当な取り引きをしただけですから。」
俺は桜庭さんに入試の際の出来事と、前田に要望した内容を話して聞かせた。
もちろん、他言無用を条件にだ。
「うーん、なんか信じられないなあ。」
「どういうことですか?」
「紗代ちゃんって、実はあんな感じでしょ? だから、ボロが出ないように、誰とも馴れ合わないようにしてたんだよ。」
なるほど、それで合点が入った。
試験監督補助の件で相談に行った際も、最初は取り付く島もないほどにつっけんどんで素っ気無い対応だった。
今思えば、突然近づいてきた見知らぬ生徒に対して、最大限警戒していたのだろう。
何度か話をするうちに多少柔らかな雰囲気になっては来たが、つっけんどんなのは相変わらずで、話す内容もビジネスライク(?)な遣り取りに終始していた。
なので、俺としては馴れ合っているなどという意識はまるでなかった。
「ファザコンの勘でしょうか…」
俺と桜庭さんの遣り取りを聞きながら、真剣な面持ちで考え込んでいた愛花がぽつりと呟いた。
「まな?」
「私たちが前田先生にアプローチしたのは、今年に入ってのことですから。」
「ああそっか、ゆうの中の父性を先生が感じ取ったってことだよね。」
「え? 清澄さん、それどういうこと?」
俺が我が子と初めて対面したのは、昨年12月のことだ。
その時に芽生えた父性が、徐々に育っている自覚はあった。
そして、それがさらに強くなったのは、つい先日のこと。
先ほども思ったことだが、涙を見せた紗代莉ちゃんに
「ひょっとして、清澄さん、ご懐妊?! おめでとう! ねえ、予定日は? 男?女? どっち?!」
「違うわよ! ゆうはちゃんと避妊するから、出来るわけないもの!(私は、ゆうの赤ちゃんほしいんだけど…)」
「彩菜さん、心の声が漏れてますよ?」
どこまで本気か分からない彩菜の心の声は聞かなかったことにして、目下の心配事は今後の前田との接し方だろう。
俺が自ら蒔いた種なのだから、しっかりとケアに努めなくてはならないのは分かっているが、もしも前田に避けられてしまえば何も出来なくなってしまう。
「桜庭さん、前田先生のことなんですけど…」
「心配いらないよ、紗代ちゃんだって26歳の大人なんだから、直ぐに切り替えられるって。それに、王子さまのこと気に入ってるみたいだし、自分から離れることはないと思うよ?」
「気に入ってる? 俺をですか?」
「お気に入りじゃなかったら、そもそもあんなことさせないよ。ほかの男の子なら、パニクって大暴れしてるんじゃないかな。」
愛花と彩菜が言っていたように前田が俺に父性を感じたのだとしても、決してそれだけではないということなのだろうか。
それが何かは分からないけれど、彼女が俺たちから離れずにいてくれるのであれば、これほど有難いことはない。
涼菜とアデラインが平穏な学園生活を送るためには、これからも前田の力を借りなければならないだろうし、学園側に少なからず俺たちのことを知ってくれている人がいることほど心強いことはないのだから。
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