第190話 親と子

 ざわざわと枝葉の騒めく音で、目が覚めた。

きらきらとした木漏れ日が、横たわった全身に降り注いでいる。

まるで万華鏡のようなこの光景は、つい先日見上げたばかりのものだ。

ただ、その時と違って、今は寒さを感じていない。

これならば、うたた寝をしても体を冷やすことはないだろう。


 左手に微かな温もりを感じる。

視線を向けなくても分かる、この小さくて柔らかな感触は、彼女のものに違いない。


「きらきらして、綺麗だな、この前見た、星空のようだ。」

『うん、きれい』

「綺麗なの、好きか?」

『うん、だいすき』


 胸に届いた幼い声の方向に視線を送ると、彼女もこちらを見てニコリと微笑む。

以前会った時から2ヶ月半しか経っていないというのに、顔立ちがしっかりしてきたように思うのは、娘の成長を待ち望む父親の心境と言うものだろうか。


『この子、言葉を覚え始めたんだよ? 上手でしょう』

「ああ、上手だ。娘と会話ができるって、嬉しいもんだな。」


 頬を撫でてあげると彼女は笑みを深めて徐に起き上がり、俺の体に重なるように寝そべると、温もりを確かめるかの如く頬を擦り付けてきた。


『ふふ、甘えちゃって、ゆうちゃんのこと、ずっと待ってたんだよ』

「そっか…、遅くなってごめんな?」


 胸の上で甘えている我が子を、両手でそっと抱きしめる。

心に広がる感情は、父性ゆえなのか、それとも贖罪なのか、いずれにしてもこの子を想う気持ちにほかならない。


 ふと、前回この子に会ったあとに、彩菜と約束したことを思い出した。

傍らに座っている結菜に、静かに問いかける。


「なあ、ゆいねえ、子供たちに、名前を付けても良いか?」

『え…、この子たちに、名前をくれるの? 本当に?』

「あやに言われたんだ、名前を付けてあげてくれって。」

『そっか、あやが…、あの子らしいな…』


 初めて子供たちに会った時に俺が思い至らなかったことに、彩菜は直ぐに気づいて教えてくれた。

名前で呼ばれることのない子供たちの悲しみを、亡くなった結菜には子供の名付けが出来ないことを…。

そしてそれは、俺が果たさなければならないことを…。


 上の娘を抱きしめたまま徐に上半身を起こすと、彼女は目を丸くして俺を見上げる。

俺は瞳を細めて、彼女に優しく語りかけた。


「これからは、お前のことを"陽菜はるな"と呼ぶことにするよ。」

『はるな?』

「ああ、お前の名前だよ。」

『はるな…、なまえ…、はるな…、わたしの、なまえ?』

「そうだよ、陽菜、今からお前は、御善陽菜だ。」

『ゆーちゃん…、じゃあ、この子も?』


 結菜は涙ぐみながら、膝の上にいた2歳になる小さな女の子を抱きかかえる。


「その子は、"輝菜あきな"だ。御善輝菜。」

『はるちゃん、あきちゃん、そっか…、"春"と"秋"、なんだね…』


 『陽菜』と『輝菜』、二人の名に使った一字には、各々意味を持たせている。

けれど、それとは別に込めた想いに、結菜は気づいてくれた。

"春"と"秋"、それは、二人が生まれてくる筈だった季節を表していた。


「この子たちの誕生日までは分からないけど、せめて生まれた季節が感じられたらと思ったんだ。」

『うん…、ゆうちゃん…、ありがとう…、本当に…、…』


『おかあさん?』

「ほら、お母さんのところに行っておいで。」


 抱いていた手を開いてあげると、陽菜は俺からパッと離れて結菜に抱きついた。

そして、右手を伸ばして、母親の頭を撫で始める。


『おかあさん、いいこだから、なかないで? いいこいいこ…』


 きっと、自分が泣いたときにされていることを、してあげているのだろう。

結菜はいつもそうして、子供たちを癒しているに違いないのだ。

幼い頃の俺と彩菜、涼菜にそうしてくれたように、あの時と何も変わらない優しい笑顔を浮かべて…。


『ぐすっ…、ありがとう陽菜、お母さんね、嬉しくて泣いてたの、だから、大丈夫』

『うれしいのに、ないちゃうの?』

『うん、そういう時もあるの、不思議だね』

『うん、ふしぎだね』


『フヒギダエ』


『え?』

「あ…」

『あ?』


 今、確かに聞こえた。

陽菜のものではない、結菜のものでもない、もちろん俺のものでもない、もう一つのカタコトの声。


『輝菜? 輝菜なの?』

『ア…ア?』

『あ…あ?』


『ゆうちゃん! 聞いた?! 輝菜、喋った!』

「ああ、聞こえたよ…、ちゃんと、聞こえた…」


 俺は輝菜の顔を覗き込み、頬をやんわりと撫でながら、その名を呼ぶ。


「輝菜。」

『ア、イ?』

「輝菜。」

『アキ、ア?』

「そうだよ、お前の名前だ、輝菜、輝菜。」

『アキ、ナ(ニコリ)』


 自分の名を口ずさみ、くしゃりと笑う輝菜を見た途端、涙が溢れた。

人の子が、皆、幾つから話し出すのか知らないが、我が子が初めて言葉を発した瞬間に立ち会える親は、はたして世の中にどれだけ居るのだろうか。

先ほど陽菜が話せることを知った時も嬉しかったけれど、この気持ちを表現できる語彙がまるで出てこないほど感動したのは生まれて初めてだった。

人の親になると言うことは、これほどまでに尊いものなのか…。


『おとうさん、うれしいの? いたいの? いいこいいこ、する?』


 おとう…さん?

 そうか、俺は、おとうさんなのか…


 まるで、その事実を初めて知らされた心地だった。

この子たちにとって俺は父親なのだと、唯一無二の存在なのだと…。


「大丈夫だ、嬉しいんだよ、お前たちに会えたことがな。」

『わたしも、うれしいよ? おとうさんにあえたの』

「そっか…、ありがとう…、陽菜…」

『あとね、なまえ、ありがとう』

「陽菜…」


『ゆうちゃん…』


 俺は溢れ出る涙を拭うこともせず、愛しい我が子をぎゅっと抱きしめる。

そんな俺の体を、柔らかな温もりがふわりと包んでいった…。


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