第187話 家族の想い
2月末日の朝、ベッドの上で目が覚めると時刻は5時を回ったところ、体を起こす前に体調をセルフチェックすると、いつもと同じように動ける状態のようだ。
横になったまま右側を見ると、彩菜が瞼を閉じて穏やかな呼吸を繰り返している。
よく眠っているのでこのまま寝かせてあげたいところだが、このあとは日課のトレーニングが待っているので、15分後には起こさなくてはいけない。
けれど逆に言えば、あと15分はこの美しい寝顔を堪能できるわけで、俺は彼女を起こす時刻になるまで添い寝を決め込むことにした。
ところで、俺は毎晩、恋人三人と一つのベッドで寝ているので、あとの二人、涼菜と愛花はどうしているかと言うと、多分5時頃には起きていて各々体を動かす準備をしている筈だ。
あとは、俺と彩菜が二人に合流すれば、四人揃って今日の活動がスタートする。
これが俺たち四人のいつもの朝、俺たちにとって何の変哲もない、普通の1日の始まりだ。
だが、昨年、一昨年の俺は、このようには行かなかった。
昨年までは中学生だったとか、まだ恋人たちと同居していなかったと言うことではない。
今日、2月28日は、亡くなった結菜の誕生日だった。
「良かった、ゆう、今年は大丈夫だね。」
「ああ、そうだな、今年はあやに心配かけなくても済むよ。」
登校中の通学路で、彩菜は柔らかな笑みを浮かべてこちらに目を向ける。
その表情には、安堵の色が滲んでいた。
過去2回、この日を迎えた俺の状態を知っている彼女にとっては、胸を撫で下ろす心地だろう。
それほどまでに、酷い有様だったのだ。
「みんなのおかげだな、ありがとう、あや、まな。」
「うん…」
「……」
笑顔のまま何かを噛み締めるように頷く彩菜と、複雑そうな面持ちで俯き気味になる愛花。
愛花は昨年までの俺を知らないし、自分が何かをした実感もないままに礼を言われて、戸惑っているのだろう。
しかし、愛花自身がどのように思っていようと、俺と清澄姉妹にとって、彼女の存在はとても大きい。
たとえ一つ一つの物事に直接関わっていなくても、愛花の一挙手一投足が、俺たちを導いてくれているのだ。
「まな、そんな顔しないで。」
「でも、私は…」
「きみが居てくれなかったら、俺は、前へ進めなかった。きみが、前を向くことの意味を、示してくれたんだよ。」
「悠樹…」
愛花はこちらを見上げて、穏やかな表情を見せてくれる。
けれど、直ぐに通学路の先に目を移して、首を小さく横に振った。
「私こそ、悠樹や彩菜さんたちが居てくれなかったら、周りを見ることをせずに、ただ闇雲に走り続けていたと思います。けど、君が、君たちが、私の視野を広げてくれた。色々な人がいて、色々な道が、やり方があることを教えてくれたんです。」
「まな…」
「愛花ちゃん…」
「だから、皆さんには、いつも感謝しています、中々口には出来ませんけどね。」
愛花は俺たちの方を向いて笑顔を見せてくれるけれど、ほんの少し憂いを残している。
はたして、彼女は何を思っているのだろうか。
「ねえ、愛花ちゃん。」
「はい…」
「愛花ちゃんとゆうが出会ったのは去年の4月なんだから、ゆうの過去を知らなくてもしょうがないの。それが寂しいのは分かるけどね。」
「はい…」
「でも、ゆうも、愛花ちゃんの過去を知らないから、二人とも同じなんじゃないかな。」
「あ…」
「これから、知っていけば良いんじゃない? 今までも少しは話してるだろうけど、きっとまだまだ足りないよね。」
「そう、ですね…、折角、一つ屋根の下で暮らしてるんですから…」
俺はまだまだ愛花に寄り添えていないことを恥じた。
きっとこれまでも、彼女に寂しい思いをさせて来たに違いないのだ。
俺が神崎家で感じたことがある疎外感や羨望を愛花が感じないわけはないのに、そこに思い至らなかった。
「ごめん、まな、俺がもっと、考えてあげられれば…」
「それは違う、悠樹のせいじゃないの、最初から分かってたことだもの、仕方ないよ。」
「でも、それじゃあ…」
「彩菜さんが言ってくれたとおり、私たち、もっと昔のことを話そう? 君がどうして君になったのか、私がどうやって私になったのか、前を見るのは大切だけど、それだけじゃ分からないこともあるもの。」
「そっか…、そうだね、そうすれば、きみをもっと知ることが出来るし、俺をもっと知ってもらえる。」
これまでは何かを説明する場合など、必要がある時にだけ過去の話をして来たように思う。
それは愛花に出会う以前の俺たちが、自分たちのことを他者に話さないようにしていたから、それが身についてしまっているのだろう。
「私もきっと、無意識に遠慮してたんだと思う。君たちが触れられたくないことに、触れちゃいけないと思ってるから。」
「それはお互い様かな、俺たちも、こんな話、まなは聞きたくないだろうって、勝手に決めつけてたところもあるしね。でも、これからは、俺たちは話せないことは話せないって言うし、きみは聞きたくないことは、そう言ってくれれば良い。」
「うん、無遠慮はダメだと思うけど、家族なら、もっと踏み込める筈だよね。」
ただ一緒に暮らしさえすれば、家族になれるわけではない。
俺と愛花は、そのことをきちんと理解できていなかったのかも知れない。
多分、彩菜と涼菜が愛花を家族として迎え入れようとした真意さえ、見誤っていたのだ。
「あやは、分かってたんだな。」
「うん…、愛花ちゃんは、ゆうの恋人になってくれたけど、あまり、お互いのことを話してないように見えたからね。ちょっと、焚き付けてみたりもしたけど、そこまでだったし。」
「彩菜さん…」
「でも、昨日、すずの話を聞いてくれたみたいだから、これからだよね。」
彩菜は俺のことだけではなくて涼菜のことについても、愛花に知ってもらうために、種を蒔いていたようだ。
愛花が俺たちのことを理解するためには、彼女自身が俺たちに問いかけなければいけないのだと。
そして、愛花はようやく彩菜の想いを、種から芽吹き育った穂を刈り取ることが出来た。
「すずがね、愛花ちゃんがいてくれて、家族になってくれて、本当に良かったって言ってた。きっと、私とゆうには言えないことも、聞いてもらったんだと思う。だからね、次は、私のことも知ってもらいたいと思うし、愛花ちゃんのことも知りたいと思ってるの。教えてくれるよね?」
彩菜は優しげな笑みを浮かべて、愛花へ問いかける。
その微笑みは家族を想う母親のように、慈愛に満ちていた。
「はい…、私を知ってほしいし、皆さんのことがもっと知りたい…、私の、家族のことを…」
「うん、私たちは、家族だからね…」
全ての過去を知ることが人と人との繋がりに必須かと言えば、決してそうではないだろう。
けれど、互いのことを少しでも多く知っていれば、相手への想いに深みが増すのではなかろうか。
柔らかな日差しのような微笑みを返す愛花を、彩菜がそっと抱きしめる。
俺はその姿を見て、二人は今、本当の家族になれたのだと思った。
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