第129話 初恋の人

 結菜は4つ年上、学年で5年上の、俺にとっては姉のような人だった。

俺が物心ついた時には既に小学生だった彼女は、俺や彩菜、涼菜の面倒をよく見てくれた。


 幼稚園児から見た小学生の女の子は、何でも知っていて頼りになる存在だった。

幼い俺にとって結菜の言うことは全て正しくて、彼女の言うとおりにさえすれば、必ず上手くいくものと思っていた。

 彼女は嬉しいことがあれば一緒に喜んでくれて、悲しい時には慰めてくれた。

良いことをすれば褒めてくれて、何かやらかしてしまっても、叱らずに優しく諭してくれた。

 俺がこの4つ上の女の子に憧れを抱き、やがてそれが恋へと変わっていくのは、とても自然なことだったと思う。


 俺が11歳になった4月の終わりに、両親が二人だけで登山に行った。

二人は下山して帰宅する筈の日に家に戻らず、心配になった兄の和樹が警察に連絡して、翌日から捜索が始まった。

大学生の和樹は家族の代表として現地に向かったが、小学生の俺は連れて行ってもらえず留守番することになった。


 俺は怯えていた。

夜、一軒家に一人きりで過ごすこともそうだが、もしも、両親が帰って来なかったらと思うと、怖くて堪らなかった。

食事を摂る気にもなれず、リビングのソファーで目を瞑って毛布にくるまり丸くなっていると、不意に柔らかな重みに包み込まれた。

何かと思い緩慢に瞼を開くと、優しげな面持ちの結菜が覆い被さっていた。


「ゆうちゃん、一人だと寂しいでしょ? うちに行こう?」


 俺を気遣って結菜が誘ってくれたけれど、首をふるふると横に振った。

いつもここで待っていれば、両親は帰って来てくれた。

だから、他の場所ではなくて、ここで二人の帰宅を待っていたかった。

そうすれば、必ず帰って来てくれると信じていたかったのだ。


「分かった、じゃあ、わたしが、ゆうちゃんとここにいるね。それもダメ?」


 俺は再び首を横に振った。

本当は一人でなど居たくなかった、誰かに一緒に居てほしかった。

心細くて誰かに縋りたかった。


「ありがと、わたしも毛布に入れてくれる?」


 包まっていた毛布を引き剥がし、結菜と並んで座ると、両手でふわりと包み込んでくれた。

彼女からは、今まで嗅いだことのないような、甘い匂いがした。


「ふふ、こうしていれば、毛布はいらないね。」


 結菜の温もりに包まれて安心したためだろう、俺は程なくして微睡に呑み込まれて行く。

眠りに落ちるまでの刹那、額に柔らかなものが触れてから結菜の声を聞いた気がしたが、何を言っているのか聞き取れなかった。


 結局、両親は帰らぬ人となった。




 周囲が慌ただしくなった。

20歳になっていた和樹は葬儀などの雑務に追われ日常を省みることが出来なくなり、俺は清澄家に預けられた。

清澄家に居た幼馴染の三姉妹が俺を元気づけてくれたけれど、両親が居なくなり兄に構ってもらえない日々に苛まれ、夜中にこっそりと声をひそめて泣いていた。


 清澄家にお世話になって程ない頃、夜中に泣いているのを誰にも知られたくなくて、深夜、真っ暗になったリビングでうずくまっていると、誰かがスッと隣に座った。

暗くてよく見えなかったが、鼻腔をくすぐる甘い匂いがその人が誰かを教えていた。


 その人は柔らかな体で俺を抱きしめて、優しく頭を撫でてくれた。

辛いね、悲しいね、そんな時は泣いて良いんだよ、と言われているような気がして、その人の胸の中で声を上げて泣いた。


「わたしの部屋に行って、一緒に寝よう?」


 一頻り泣いてから結菜の部屋に行き、彼女と一緒にベッドに入った。

泣き疲れてぼーっとしているうちは良かったが、15歳の美しい少女になった初恋の女性と枕を並べていることを意識した途端、心臓が早鐘を打った。

そんな俺の様子を察したのか、結菜はクスリと笑い、俺のこめかみに鼻の頭をぴとっと当てて囁いた。


「ゆうちゃん、わたしが慰めてあげる。これはね、大切な人にだけ、大好きな人にだけしてあげる慰め方なんだよ? でもね、これは誰にも知られちゃいけないの。だから、誰にも内緒、わたしたちだけの秘密にしようね。」


 結菜は俺の頬に手を添えて優しく撫でてから、ゆっくりと顔を近づけて、柔らかな唇を重ねてきた。


 それからと言うもの、毎日、結菜と枕を共にし、色々なやり方で慰められた。

それは御善家の状況が落ち着きを見せ、俺が我が家に戻ってからも変わらなかった。

 流石に毎日という訳にはいかなかったが、彼女の部屋だけではなく俺の部屋など場所を選ばずに繰り返され、俺は彼女との行為に嵌っていった。


 結菜が許婚の和樹と婚約しても、俺たちの関係は終わらなかった。

それどころか、行為の内容は益々濃厚になり、俺は様々なことを彼女に教わった。


 俺たちの逢瀬は、結菜が18歳を迎える日の直前まで続いた。




「最後の日に、気持ちを伝えたんだ。ずっとゆいねえが好きだったって、初恋なんだって。そしたら、『ありがとう』って、それだけ言ってくれたよ。それで、本当に最後なんだと、この先はないんだと、実感できたんだ。」

「なぜ最後に、気持ちを伝えようと思ったんですか?」

「期待、かな。俺にとって、都合の良い返事を期待したんだと思う。」


 結菜が俺と肌を重ね続けたのは、慰めてくれるためだけではなかったのだと。

彼女の胸の内には、俺と同じ想いがあるのだと。

俺が想いを伝えれば、結菜は応えてくれるに違いないと。

結局、望むとおりにはならなかったけれど…。


 脳裏に刻まれた、あの頃のことが思い起こされる。

先ほど語ったこともそうだが、つい最近までは触れることさえ出来なかった懐かしい記憶だ。


 俺はふと違和感に気づいた。

二人の関係がただの幼馴染に戻るまでの最後の数日、結菜は初めての時を除けば決してしなかったことを望み、俺はそれに応えた。

あの時、なぜ彼女はそれを望んだのか、俺は今、ようやくそのことに思い至った。

もしかしたら、結菜は…。


「ゆいねえに、会いたいな…」

「悠樹…」


 頭の中でカチリと音がして、回路が繋がった。

なぜ、俺が結菜に会いたいと思っているのか理解した。

決して、連れて行ってほしいと思っている訳ではなかった。


 俺は知りたかったのだ、彼女がいだいていた、本当の想いを。


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