第20話 慈愛

兄貴とゆいねえが嬉しそうだ

そりゃあそうだろう、今日念願の新車が納車されたのだ

兄貴は早速新車に乗り込みエンジンをかける

コンパクトカーなので軽めのエンジン音だが、随分大きく聞こえる

助手席には入籍したばかりのゆいねえが乗り込んだ

兄貴はこれから迎えるゆいねえとの新生活のために車を買った

これから二人は共に暮らす新居に行くのだ

二人揃って幸せそうに微笑んでいる

まもなく車が動きだし、ゆっくりとその場を離れて行く


俺は遠ざかろうとする車に向かって叫ぶ


『行っちゃだめだ!』


車は少しずつ速さを増す

俺は走って追いかけようとするが足がうまく動かない


『そっちはだめなんだ! 戻ってこい!』


右手を伸ばし、いくら叫んでも二人には届かない


『たのむから俺の言うことを聞いてくれ!』


やがて車は視界から消える


『俺を置いて行かないでくれー!』


遠くからタイヤのスキール音が微かに聞こえた


『兄貴ー! ゆいねえーー!!』


視界は真っ黒に塗り潰された…





 数ヶ月ぶりにあの夢を見た。

嫌な夢だ。

目は覚めたものの、呼吸が荒く、なかなか楽にならない。

全身ぐっしょりと汗をかいていて、Tシャツが体に張り付いている。

枕元に置いたスマホで時刻を確認すると、まもなく20時だ。

ファミレスから帰宅して倦怠感があってベッドに入ったが、そのまますっかり眠ってしまった。

喉がカラカラだったので飲み物を取りに行こうとベッドから降りると、体がグラグラと揺れた。

酷い悪寒に襲われて、ふらつきながら何とか1階に降り、リビングの扉を開ける。

そこには彩菜と涼菜がいた。


「ごめん、二人共、ぐっすり寝ちまって…」


 俺が声を掛けると姉妹はこちらに笑顔を見せようとするが、次の瞬間、真剣な面持ちに変わり、彩菜は俺に駆け寄り、涼菜はキッチンへと走った。


「ゆう、真っ青だよ、こっちに座って。」


彩菜は俺を抱きかかえるようにして、ソファーへ連れてきて座らせてくれた。


「ゆうくん、お水飲める?」


俺は涼菜が差し出してくれたコップを受け取り水を煽るが、うまく飲めずに咽せ返ってしまう。


「ゆう、ゆっくりでいいからね。」


彩菜が優しく背中を摩ってくれる。

とても有難いが、汗だくの状態なので申し訳なかった。


「…ゆう、あの夢を見たんだね。」


俺は答えられない。

答えたいのだが、まるで凍りついたように上下の唇が張り合わされ、言葉が出ない。


 彩菜が俺の頭を包み込むように、涼菜は俺の体に両手をまわして、二人で優しくしっかりと抱きしめてくれた。

やがて、二人の想いがじんわりと染み込んで来る。



  ゆうには私たちが居るから大丈夫だよ

  あたしたちは何処にも行かないよ


  だから安心して此処に居て



 冷え込んだ心を蕩かすような熱に身を委ねていると、やがて大地に恵みをもたらす雨の如く降りそそぐ慈愛に包まれ、俺は涙を流していた。

俺の内側に溜まっていたどろっとしたものが解け落ちて行く。

涙はいつまでも止まらなかった。





「あや、すず、ありがとう。もう大丈夫だよ。」


 どれだけ時間が経ったのだろう。

何も言わずに寄り添ってくれている彩菜と涼菜に声をかけ、俺は薄く笑みを浮かべた。


「二人のおかげで明日になればきっと元通りだ。もう遅いから家に戻ってくれ。」


 気がつけば、既に23時をまわっていた。

まだ本調子とは言えないが、これ以上二人に甘えることはできない。

けれど…


「私たち今日は泊まってくよ。」

「いや、二人と一緒に寝られるのは嬉しいけど、ホントに大丈夫だから。それにほら、明日は土曜日だろ? 朝もゆっくり寝ていられるから完全復活できるだろうし。」

「だ・め! ゆうのこと放っとけない。すず、お母さんに電話して。」

「Yes, ma'am!」


 涼菜が電話すると、美菜さんは二つ返事でお泊まりを了承してくれたようだ。

こうなるともう抵抗しても無意味だ。


「ゆう、今日はもうベッドに行こう? 早く横になって眠らなくちゃね?」

「いや、せめてシャワーを使わせてくれないか。このままじゃ汗臭いし。」

「ゆうくんは臭くないよ、寧ろ良い匂いだし、シャワーは明日起きてからにすれば良いよー」


 涼菜が俺の胸に頬を擦り寄せながら、スンスンと匂いを嗅いで嬉しそうにしている。

このまま押し問答を続けているとますます時間が遅くなるので、俺は渋々従うことにした。


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