第5話 許婚

 木曜日の朝、俺は日課の筋トレに励んでいた。

筋トレと言っても然程大きな負荷を掛けてはいない。

マッチョマンがよく口にする『筋肉を育てる』ような域に足を踏み入れるつもりはなく、いざという時に咄嗟に体が動くように、所謂細マッチョを目指して鍛えている。


 30分ほど体を動かし、シャワーで汗を洗い流してからリビングに行くと、中学校の制服を着た涼菜がぼんやりと窓の外を眺めながら立っていた。

今は6時半、彼女がこれほど早い時刻に俺の家に来るのは珍しい。

何かあったのだろうか。


 俺は下半身にはスウェットパンツを履いているものの上半身は裸のまま、タオルに髪の毛の水気を吸わせながら、涼菜に声をかけた。


「おはよう、すず。どうしたんだ? こんなに朝早く。」

「あ、ゆうくん、おはよ・お?…って、ええーーーっ?! 今すぐ何か着てーーーっ!!」


 声をかけた俺に振り向いて返事をしようとした涼菜は、一瞬大きく目を見開き、次の瞬間には首から上を真っ赤に染めて、慌てて横を向いて両手で顔を覆った。


「いやいや、今更だろ。俺の裸なんて今まで散々見てるよな。」

「いやいやいやいや、あたしもそう思ってたんだけど、今見たらゆうくん腹筋割れてるし妙に色っぽくて、とてもじゃないけど直視できないよ! お願いだから何か着てください!」


去年の今頃トレーニングを始めて、最近は体が引き締まってきたことを実感してはいるが、それほど大きな変化があるとは思っていなかったので、この反応には当惑した。


 涼菜が明後日の方向を向いたまま必死に懇願するので、俺はダイニングチェアに引っ掛けておいた肌着代わりの白いTシャツに袖を通した。


「ほら、Tシャツ着たぞ。もう大丈夫だろ?」

「…うん、あーびっくりした。」

「そんなんじゃ、この先何かと困るだろ。早く慣れろ。」

「あはは、そうなんだけどねー」


 Tシャツを着た俺を指の隙間からチラッと見てようやく安心したのだろう、涼菜はほっとした様子でこちらに顔を向けた。

まだほんの少し頬に赤みを残しているのは、指摘せずにおこう。


「それよりほら、何か用があるんだろ?」

「うん、朝早くからごめんね? 実はゆうくんにちょっと相談したいことがあって。」


俺が頷きつつ目線で続きを促すと、涼菜は相談事を口にし始めた。


「実は昨日、男子に告白されてね、その時すぐに断ろうとしたんだけど、その子が今すぐ返事はいらないって言って逃げちゃったんだよね。」

「ん? だったら改めてお断りすれば良いだけじゃないのか?」


俺は思い切り首を捻った。


 涼菜は美少女だから男子が放っとく訳がないし、実際にこれまで何度も告白を受けている。

なのに、なぜ今更俺に相談を?


「それがね、その子が告白して来たのって、これで4回目なんだよね。これまでは付き合う気がないって言って断ってたんだけど、日にちを置けば気が変わるかもしれないと思ってるらしくて、性懲りもなく告って来たんだよー」

「あ、あれか、去年の秋と、クリスマスと、ホワイトデーに告ってきたやつ。」

「そう、その子! いやー、めげないよねー」

「超ポジティブ、ってかメンタル強い系かぁ…」


 涼菜は気持ちの優しい子だから、相手を傷つけるようなことを言って断ることはしないだろう。

だが、これまでどおりの断り方では同じことの繰り返しになるのは目に見えている。


「でしょ? だからさー、仮に今回も付き合う気がないって言って突き放したとしても、多分5回目があると思うんだよねー。で、ここからがゆうくんに相談なんだけど…」


 そこで俺は気がついた。

なるほど、涼菜は彩菜と同じ手を使いたいんだな。


 涼菜が昨晩でなくて今朝になって相談しに来たのは、彩菜の前では話し辛かったからかもしれない。

別に変に気を回すこともないと思うのだが、まず姉のことを考えてしまうあたりが、なんとも涼菜らしいと思う。


「うん、何となく察しがついたよ。俺は別に構わないよ、結局本当のことを言うだけだし。」

「え、良いの? もちろん名前まで言う気はないし、ゆうくんに迷惑を掛けることはないと思うけど…」


 涼菜はあらかじめ考えていたことを肯定されてほっとしていながらも、まだ不安が残っているようだ。

なので、俺はさらに彼女の背中を押した。


「構わないよ。もうあやには散々使われてるし今更だよ。あいつ名前を出しちゃったこともあるしな。」

「うわぁ、さすが我が姉上、容赦ないなぁ…。でもうん、分かった、ありがとう! それじゃあ今回は、あたしには『許婚』がいるから無理ってはっきり言わせてもらうね♪」


俺の話を聞いて、涼菜はようやく踏ん切りがついたようだ。


「これから別のやつに告られた時も使って構わないからな。さっきも言ったけど、嘘ついてる訳じゃないし。」

「うん、そうさせてもらおっかな。やっぱあたしの『許婚』は頼りになるね♪」

「ほら、もう行った行った。俺が朝飯食う時間がなくなっちまう。」

「あはは、じゃあまたねー♪」

「ああ、頑張れよ。」


 涼菜は上機嫌で我が家を後にした。

多分これで上手くいくだろう。


 今の遣り取りでお分かりいただけたと思うが、清澄家の姉妹、彩菜と涼菜は二人共、俺の許婚なのだ。

決して姉妹が告白を断るために俺を許婚ということにしている訳じゃない。

 俺の家、御善家の両親とお隣の清澄家の両親は四人とも高校時代の親友で、しかもお隣同士に居を構えたこともあって、予めお互いの子供を許婚にする約束をしていたのだ。

 当初俺の許婚は、1日違いで生まれた彩菜だけだったのだが、1年後、清澄家に涼菜が生まれたことから、涼菜も俺の許婚にしてしまったのだ。


 姉妹二人は俺にとってとても大切な存在なので、それならそれで良いと思っているし、彼女らも俺のことを想ってくれている。

将来どうするのかと言う問題はあるものの、今は三人がそれぞれの気持ちに正直に振る舞うことにしていた。

2年後、俺と彩菜が18歳になる時には結論を出すつもりでいる。

 もっとも、それはあくまで外向きの話で、俺たち三人の気持ちは既に固まっているのだが。

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