第3話 はい/いいえ


 セージュの場合、死霊の類を視ることはごく稀である。しかしどうやら、このぐにゃりとした白い手首はそういうタイプのものらしい。

 高円寺のビストロでスパークリングワインを傾けながら、須恵子は不思議そうに首を捻っていた。

「誰かしらね。ちょっとした知り合いとか、多少は縁のある人だと思うわ」


 須恵子に霊視のようなことをして貰った翌日のことである。昼過ぎに起きたセージュが自室を出てリビングへ向かうと、彼が来るのをずっと待っていたかのように、件の手首がソファの上にコロリと載っていた。

「おはよう。今日は視えやすくなったね」

 セージュは冗談めかしてそう言ったが、実際、それは以前よりも確かに存在感を増していた。昨晩会った須恵子にあてられて、セージュの目が良くなったためかもしれない。あるいはこの手首に心境の変化のようなことがあり、単なる幽霊ではなくなった可能性も、ないことはない。


 セージュは大きめのグラスに牛乳を注ぎながら、気だるげに手首へと語りかける。

「野沢さんの見立てでは、きみは少なくとも一週間以上前に僕のことを見つけて、以来ずっと僕の傍にいたそうだけれど……本当かな。なにか僕に重大な用事が?」

 細く白い手首は相変わらず無口で、静かにセージュの足元に佇むばかりだ。

 何も語らないのは口がないせいだろうか。それとも、徐々に何を訴えたいのかを忘れてしまったのかもしれない。怪談話では、幽霊が化けて出た目的を忘れることがたまにある。

 セージュは飲みかけの牛乳をテーブルに置き、別の小さなグラスに再び牛乳を注いだ。腰を屈め、まるで猫に促すように手首へ牛乳を勧める。が、やはり手首は反応しなかった。

 物は試しとばかりに、今度は紅茶を勧めてみたが、やはり手首はぴくりとも動かず黙っている。

 いや、実際は少し違ったか。

 紅茶を勧めたとき、手は指を少しだけ丸めた。たったそれだけの動作が、はたして意思表示であるのかは不明だが。とはいえ、手はいつもだらりとしているわけではなく、動くときは動くものらしい。

 セージュはふと思いついて、一度自室のある三階へ向かった。リビングへ戻ると、カーペットの上で白い手首はぺたりとしている。律儀にセージュを待っていたように、思えなくもない。

「良いものがあるんだ。きみ、僕が質問をしたら指を動かせる?」

 そう言ってセージュが床に置いたのは液晶タブレットで、画面にはこっくりさんに使用する文字表が映っている。それの意味が判ったのか、手首はごろっと半分だけ転がった。

 わかりにくいリアクションではあるが、初めて反応らしい反応が返ってきたことにセージュはにやりと笑う。と、同時に、須恵子から言われたことを思い出しもした。

「この子、ずっとダランとしてる。まだ痛くて苦しいのかもしれないね」


 生前や死ぬ間際の苦痛が死後も続くことを、セージュはさほど奇妙とは思っていない。苦痛も自我のうちで、感情や痛みも生前からの慣性ではないか、と考えているためだ。苦痛に喘ぐ幽霊に向かって「もう死んだのだから苦しみは終わった」と説くのは、一見優しげだが実は無意味で、幽霊のほうは案外「死んだって痛いものは痛い」と思っているかもしれない。

「きみはどうだろうね。痛かったり苦しい? 無理をさせるのは心苦しいから、きみへの質問は慎重に考えようか。僕はお喋りをしながら考えるほうが好きなのだけれど」

 と、最後まで言い終えないうちに、廊下の方から賑やかな笑い声が聞こえてきた。セージュはスッと指を伸ばして文字表の画像を閉じ、ついでにモニターもオフにする。床からタブレットを拾い上げ、顔にかかった長い髪をかき上げたところでリビングの扉が開いた。


「あら若旦那、珍しい。お部屋使ってました?」

「ごきげんよう犬養さん、森崎さん、大友さん。いつも御苦労様です。今日は森崎先生のお料理教室でしょう? キッチンとリビングはいつも通り、ご自由にお使い頂いて構いませんよ。ああ、感染症対策だけはご留意願います。では、失礼」

 にこりと愛想良く微笑みながら、セージュはそそくさと逃げるように階段を昇った。昼間の一階はもともとメイド達の社交場のようなものだが、料理教室がある日だったことはすっかり忘れていた。


 キッチンやイベントスペースを開放するのは福利厚生の一環のつもりだったのだが、メイド達がまめに使い、まめに掃除するものだから、一階はキッチン以外の場所も常に清潔が保たれている。この広すぎる平邸の家主であるセージュにとってはありがたい話だ。だからこそ、多少のかしましさには目を瞑ると決めてもいる。


「大友さんの娘さんなんか、もうなんでもネットで、テレビも見ないんじゃない?」

「朝のニュースは結構見るの。あと地震があるとすぐにテレビを付けるわね。お父さんみたいよ」


 三階の部屋にまでメイド達の楽しげな声は届く。あの手首は見失った。いなくなったのではなく、セージュの目に視えなくなってしまっただけかもしれないが。

 それでも、一応夜までに質問を考えておこう、と決めて、愛用のタブレットをデスクの上に置いた。代わりにスマートフォンを手に取り、今朝方に届いていた幾つかのメッセージを確認する。


「本当? あの事故って結構前だったでしょう。あの日、都内の電車全部止まっちゃったのよね」

「その被害者の子、あれから四ヶ月以上も頑張ってたんだ」

「そう。だから、殺人未遂の罪が変わるかどうかっていう裁判になるんですって。救急車が遅れたのが悪いって話になったら、容疑者の男は殺人罪に問われないから」

「本当に怖い話。世の中何が起こるかわかったもんじゃない」



  * * *



 セージュが再びあの白い手首を見つけたのは、翌日の晩のことだ。

 ダリマ宛に届いた封書を川崎のガレージへ届けたあと、モンスターを捕まえながら周辺をしばしうろついた。ガレージの中はとうに酷暑を通り越しており、温度計があれば拷問級の数字を叩き出していたに違いない。さすがのセージュも長居し難く、早めに退散することにした。


 結局徒歩で帰ったため、自宅に着いたときには既に空は暗く、時計を見れば二十一時を少し過ぎている。

 外階段へ向かう途中、蛇のようなものを蹴飛ばした気がして立ち止まった。だが蛇と見間違えたのはあの白い手首で、きっと帰るまで待っていたのだろうと、セージュは勝手に得心する。


「御手をどうぞ」


 セージュは紳士らしく優雅に一礼した後、やんわりとその手首を抱きかかえた。しかし仔猫を持つようにはできず、結局ガラスの靴を恭しく持つような形に落ち着く。

「きみが誰かわかったから、こうして触れることもできる。……たぶんね。大方はそんなところだと思う、きっとそう」

 セージュは手首に話しかけながら、ゆっくりと階段を昇る。屋敷の中には入らず、柵の上に帽子とタブレットとを載せた。更に帽子の中に件の手首を入れ、人指し指で白い甲の辺りを柔らかく叩いた。


「ずっときみへの質問を考えていたんだ。だって僕はオカルトマニアでしょう。最初は、聞いてみたいことが沢山あると思ったのだけれど、考えれば考えるほど、そうでもない気がしてきた。案外そんなものかしら」

 頬杖をつき、セージュは帽子の中を見つめながら首を傾げる。

「死んだ人間に聞いてみたいこと。きみは考えたことがある? 僕はこれまで沢山の死に立ち会ったけれど、案外、そういうことって考えていなかったのかも。渇望するのはむしろ、もう苦しまないでほしいとか、僕のことを許してほしいとか、そんな願いばかりだな。もちろん、どうして死んでしまったのか知りたいというケースはあるけど、きみの場合はそれも新聞に書いてあったし」

 手首は依然として静かで、セージュの言葉に聞き入っているように見えた。あるいは、疲弊してベッドに沈みこんでいるようにも。

「僕は、もしかしてきみのことを呼び出してしまった? きみが亡くなったのは先週でしょう。僕があの病院でこっくりさんをしたのは……ああ、もしかして時間の感覚がない? 僕がきみのいた病院を訪ねたとき、きみはまだ生きていて、意識不明のまま病室にいたはずなんだ。まさかこんな形で再会するとは思っていなかったな」

 セージュは口に手を当てふふっと少し笑う。


「ところで最初に言っておかないといけないことがある。きみはもう、あの温室には入れないんだ。あそこはちょっと変だからね。普通の人間が二回も入ったらおかしくなるか壊れてしまう。たぶん、あの場所で僕と話がしたかったんでしょう。言いたいことが沢山あるのはわかるよ。でもできないんだ、残念。うん、つまり……やっぱりきみは、運が悪いということ」

 もぞもぞと、ようやく手首がうねるように動いた。セージュにはその様子が「悔しい」と言っているようにも、大笑いをしているようにも感じられる。どちらだろうか。案外、まったく見当はずれな意図かもしれないが。

「だから僕がきみにしてあげられるようなことって、本当にないんだ。最初はきみの姿を視ることさえできなかったでしょう。僕はただの……ただの何かしら。ただのオカルトマニアの個人事業主の二十四歳バツイチ、かな? ああ、ごめん。半分以上独り言みたいなものだから、リアクションはお構いなく」 

 セージュは帽子の中の手首に、尖った歯を見せてまた笑った。


「僕はきみのために何もできることがない。それを踏まえた上で、僕からきみにお願いがある。もちろん気分が乗らなければ応えてくれなくても結構だよ。さっき言ったでしょう。きみへの質問をずっと考えていたって。僕はね、幽霊や死後の世界のことを聞くのは少し勿体ない気がしたんだ。きみにしか聞けないことを聞くほうが良いに決まっているもの」

 セージュは囁くように言いながら、タブレットの上に指を滑らせた。モニターに、再びこっくりさんの文字表が表示される。

「あまり動かなくていいように『はい』か『いいえ』で答えられる質問を考えたんだ。どうかな」

 尋ねると、手首はなんとなく起き上がるような仕草をした。セージュは帽子の中からそっと彼女を抱き上げ、タブレットの真上まで丁寧に運ぶ。


「できれば深く考えずに、ゲームだと思って答えて。質問はこう。僕が絶体絶命の危機に陥ったとき、選ぶべきは陰と陽のうち陽のほうだ。合っていたら『はい』を、違うと思うなら『いいえ』を指して」

 セージュは指が届きやすい位置へ手首を近づけようとしたが、意外にもそれは自らするりとモニターの上に着地した。そしてそのまま、今度こそ蛇のように手摺りを滑り降り、ついにセージュの目の前から消えてしまったのだ。


 取り残されたセージュは、しばし呆然と立ち尽くす。どうやら、動けないわけではなかったらしい。

 彼女は何を考えていたのか。今日までセージュに何を求めていたのか。少しはわかり合えたように錯覚していたが、突然、何もかもわからなくなってしまった。


 ――いや、むしろ喜ぶべきかもしれない。

 人間の理解を超えたもの、奇怪なものでなくては怪談話もつまらない。だからセージュは怪談奇談に惹かれると言ってもいい。


 不意に背後から、温白色の明かりが差してセージュの半身を照らした。

「若、おかえりなさい。通話してました? 喋っている声がしましたけど」

 不審そうに、というよりは、不安に怯えたような様子で、伊勢谷がドアの内側から顔を出した。セージュはわざと意地悪に見えるよう、歯を剝きだしてニタリと笑む。

「たった今まで幽霊がいました。未来の僕に悪質な呪いをかけて、滑るようにここから庭へ……」

「お疲れ様でーす。お先失礼しまーす」

「きみ、付き合い悪いね」

 もぬけの殻となった帽子とタブレットを掴み、セージュは閉じかけたドアを強引にこじ開けた。


 ――確かに僕が望んだことに違いないけれど、彼女が未来の僕に呪いをかけていったのは本当だ。最後に彼女はしっかりと『いいえ』を人差し指で選んでいた。あれは偶然ではなく、確かに意思のある指し方に違いない。

 けれど、彼女は生まれつき不幸を嗅ぎ取る能力に長けていた。

 死してその呪縛から解き放たれたか否か、正直僕にはまったくわからない。しかも、案外彼女は自分の不幸を選択する力をコントロールできるようになっていて、自分の選びたい選択肢と逆を選ぶ、つまり幸運へ繋がる選択肢を発見できるようになっていたかもしれない。

 もしも僕に極限の状態というものが訪れるとしたら、の話だけれど、未来の僕はおおいに悩むだろう。


 彼女の選んだ「陰」の選択をどう捉えるか。


 絶体絶命の危機に陥った僕は過去の自分の軽率さを激しく憎み恨み、もがき苦しむ。そうして散々迷った挙句、だんだんおかしくなってきて、馬鹿みたいにけたけたと笑うかもしれない。


                                  Fin.


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