Episode.4 夢幻能パレード

第1話 薪狂言


「あれは七夕だったなぁ。小学校の校庭で薪狂言をやったことがあったんだ。爺ちゃん、その頃は能なんかが好きでね。三年生か四年生くらいの正寿せいじゅを連れてさ、二人で観に行ったんだ」


 実家から持って来た着替えと予備のタオルを病室の棚に仕舞いながら、礼八れいやは「へえ」と頷いて見せた。祖父・潔彦きよひこの昔話は大抵いつも唐突に始まる。

「外で狂言や能をやるんだよ。礼八は知ってるかい」

「聞いたことはある。観たことはないけど」

 礼八は祖父に聞こえやすいよう、少し声を張り上げた。

「うん。あれは七夕だったんだよなぁ。今日は何日だっけ」

「今日は七月五日。七夕はもう少し先だね」

「そうかぁ」

 どこか満足そうににこにこと微笑み、祖父はそれきり黙りこむ。礼八はしばらく祖父の話の続きを待ったが、どうやらそのまま寝てしまうようだ。寝息を立て始めた祖父の頭を乗り越えるようにして、礼八は静かにナースコールを押す。もう点滴の中身がほとんど残っていなかった。


 潔彦が語る昔話には正寿という名の子どもがよく出てくる。幼い頃は正寿というのがどのような血縁関係なのかわからなかったが、礼八の父・由吉ゆきちによると、祖父の潔彦と正寿は兄弟であるらしい。

 しかしながら祖父の話ぶりでは、正寿はかなり若い人物のように思える。祖父だけではない。他の親戚の話の中でも、潔彦の息子である由吉より正寿のほうが幼いように扱っていた気がする。

 だがそれも、よくよく尋ねてみれば案外簡単な話だった。潔彦の父であり礼八の曾祖父にあたる人物が、齢八十過ぎにして幼い正寿を養子に迎えたためであるらしい。戸籍の上では兄弟でも、潔彦と正寿の年の差は五十歳近くあったわけだ。


「礼八くん。ごきげんよう」

 病棟の中央、エレベーター脇の自動販売機を眺めていると、昔から聞き慣れた柔和な声に呼びかけられた。

「おう。じいちゃん寝ちゃったぞ」

「待ちますよ」

 涼しげにそう言い、青年は少し癖のある長髪を耳にかけた。礼八は幼い頃より彼の姓名を知っている。平犀樹セージュという。野沢姓でないことからもわかる通り、祖父の昔話に登場する「正寿」とは別人だ。野沢正寿は礼八が生まれる数年前に野沢家を出奔したらしいが、生きていれば四十六、七歳のはずである。

 礼八は自販機で麦茶を四本買い、セージュに二本を持つよう促した。が、セージュがポケットからエコバッグを取り出したので、それならばと飲んだことのない乳飲料や季節商品なども面白がって数本買い込む。


「セージュってさ、いま何歳だっけ」

「僕? 僕は二十四歳。去年も来年も再来年も。しばらくは二十四歳と言い張る予定です」

「マジか。俺も二十四になったよ。来年いよいよ追い越すじゃん」

「甘んじて追い越されます。僕のことはVtuberか何かだと思って、どうぞお先に」

「バーチャルじゃなくてヴィジュアル系のVかな」


 礼八とセージュは、二人同時に潔彦の病室へ向かうことができない。感染症対策のため、二人以上の見舞客が病室へ入ることが禁じられている。しかし春から少しずつ規制が緩くなり、ナースステーション前の談話室では患者を含め最大三人での面会が可能になった。

 潔彦が目を覚ますまで、セージュは談話室で待つと言う。

「じいちゃん、最近少し元気なんだけど、口を開けば昔話ばっかりでさ。今のうちに話し相手してやってよ。セージュの顔見たら喜ぶと思うし」

 セージュは目を伏せながら、少し声を潜めて「うん」と応える。

「もとより僕には、それくらいしかできることがないからね」



  * * *



 目が覚めたとき、なんとなくいつもより身体が楽だった。潔彦はむくりと起き上がり、病室を出て談話室へと向かう。特に用はない。窮屈な四人部屋よりは居心地が良いかと思い、なんとなく足を運んだだけだ。だがそこで、思いがけず見知った顔に出くわした。


「なんだセージュ。来てたのか」

 潔彦が声をかけると、セージュは眉間にしわを寄せてすっと目を細める。

「潔彦。病室から来てしまったの?」

「ああ、そういやぁ礼八を置いてきちゃったな。まあいいや、おまえと二人で話すのも久しぶりだしな。何時に来たんだ」

「さっき来たばかり。四時頃かな。少し電車が遅延していて。本当はもう少し早く到着する予定だったの」

「ああ、そういやこの前さ、踏切の事故のせいで救急車が病院に着くまで何十分もかかったってニュースがあっただろ。あの患者さん、転院して今はこの病院にいるんだって。世の中そういうどうにもならないこともあるからさ。せめて未然に防げることには気を付けろよ。熱中症とかな」


 セージュは無言のまま、こくこくと数度頷いた。


「本当にさ。人生なんか、いつどこで何があるか、全然わかんないんだからさ」

「まあね。僕もそう思う。ああ、そういえば潔彦。参議院選挙はまだ済ませていないでしょう。代理投票ができるの?」

「そうそう。俺も知らなかったんだけど、大きい病院だとそういうことができるらしいんだよな。前に手術で入院してたとき、ちょうど衆院選だったろ。だから礼八に携帯電話で調べてもらってさぁ」


 潔彦はセージュの隣の椅子を陣取ってしばらく雑談を楽しんでいたが、不意に「あっ」と声を上げた。セージュは驚いたのか、さっと顔色を悪くする。

「どうしたの?」

「俺、マスクしてないや。まずいな。おまえは別に平気だろうけどさ」

「ああ、マスクか。そのままで構わないよ、誰もいないもの」

 セージュに言われて周囲を見渡すと、確かに談話室の中には二人しかいない。一応ナースステーションがある方へ背中を向けて、潔彦はよいしょと座り直した。ふと下の方へ目を向けると、セージュは膝の上に液晶タブレットを載せている。

「仕事してたのか」

 タブレットを指さして何気なく尋ねると、セージュはにっこり笑いながら首を振る。

「少し遊んでいただけ」

 セージュは軽い調子で答えた。が、潔彦は彼が何かを隠すように左手で覆ったのを見逃さなかった。もとよりこの小賢しい若造が、都合の悪いことを隠すときは一層愛想良く振る舞うことを知っている。だからほとんど反射的に、潔彦はセージュの左手を払うように叩いた。

「こら! おまえはまた、たちの悪い――」



  * * *



 視界の端で淡い緑色のカーテンが揺れる。

 潔彦が目を覚ますと、右側から軽く身体を揺すられた。礼八だ。僅かに不安を滲ませた表情で、上から覗き込むように潔彦の様子を窺っている。

「じいちゃん、大丈夫?」

「ん、夢見てたな」

「怖い夢?」

「いや、夢だかなんだか。礼八、じいちゃん疲れちゃってな。もう少し寝るな」

 言うより早く目を瞑ると、礼八が控えめにうん、と答えたのが聞こえた。


 ――あいつときたら、まだ鼻垂れ小僧のような悪戯をしてんだな。

 潔彦は目を閉じたまま、ふっと笑う。笑ったつもりだった。


 いつの間にか陽が落ちて、周囲はとっぷりと暗くなっている。だが足元は見えた。焚火の匂いがして、それがなんだか夏らしい、と思う。八月の盆に焚く迎え火を思い出すせいだろうか。

 ふと横を見ると、潔彦の背丈ほどもある篝火が橙色の炎をくゆらせていた。パチンパチンと、そこかしこから火の爆ぜる音がする。

 これはいつ見た光景だったろう。

 ――七夕か。そうだ、正寿と行った薪狂言だ。

 どうやら眠りが浅いらしい。多少は薬のせいもあるのだろう。横に礼八の気配を感じたまま、潔彦は過去の記憶が幾重にも折り重なった幻のような夢を見ていた。


 夢の中の正寿は、見たこともない巨大な篝火を警戒しているのか、珍しく潔彦の横にぴたりとくっついて歩いている。正寿の少し後ろには、紅色の着物を着た犀樹セージュが突っ立っていた。まるで美しい星でも見つけたかのように、うっとりと空ばかり眺めている。

 セージュがあまりに熱心に頭上を眺めるので、潔彦も「どれ」と夜空を見上げた。


 思わずほう、と感嘆の声が漏れるほど、それは見事な星月夜だった。月は割ったように綺麗な半月である。常は三日月や満月と比べて中途半端に感じるものだが、今宵の半月には不思議と心惹かれる風情があった。

 篝火や能の演目にすっかり目を奪われて、頭上に広がる天の川の存在には今の今まで気づかなかったらしい。


 ――どっちも風流じゃないか。これだから夏の夜は良いよな。


 星が煌めくのに合わせて、しゃんしゃんと錫杖を揺するような音が鳴る。次第に鈴の音がそれに加わった。これは神楽鈴の音だ。正月になると氷中見ひなかみ神社の境内で、姪の須恵子が巫女役でこれを鳴らしていたから覚えている。

 まるで金色の雨を浴びるような心地だ。そうしてしばらく鈴の音色に耳を傾けていると、だんだん天の川を横断する船がぼうっと浮かんで見えてきた。なるほど、セージュを夢中にさせているものはどうやらあれらしい。


「あれはきっと、おまえが好きな『おばけのパレード』だろうな」

 でたらめに潔彦がそう言うと、正寿が可笑しそうに笑った。


 ――正寿が、百鬼夜行が何かって親父に聞いたとき、むっつり考え込んでから「おばけのパレードだ」って言ったんだよ。ありゃ忘れないね。いっつも気難しそうな顔してた、あの親父がだよ。おばけのパレードだってさ。随分可愛いじゃないか、笑っちゃうよなぁ。


 天上の船の中では、むくむくと入道雲のように何かが湧き始めたようだ。あれが百鬼夜行ならば、船に乗っているのは魑魅魍魎ということになる。しかし潔彦には、それが笑い顔で陽気に踊っているように見えた。なんだか七福神に似ているな、と思う。

「あそこにいるのは悪いものだけじゃないんだ。ルヴナンには無害なものも多いからね」

 セージュはそう言い、どこからか小さな白っぽい花を取り出す。指の間から、苔むした土がぼろぼろと零れている。桜の花に似た花弁は未だ瑞々しく、たった今地面から掘り出したかのようだ。

 引き寄せられるように潔彦がその花に手を伸ばすと、花弁の間からみるみる澄んだ水が溢れた。驚いて手を引っ込めたが、セージュはまったく動じない。きっと、そういうものなのだろう。水は勢いを増し、滝のように流れ続ける。溢れた水は校庭の土の上に落ちると、生き物のように四方へ広がった。蛇を思わせる動きだが、徐々にそれは小さな龍だと気づいた。

「これは僕が最近出会った神様なんだ」

 セージュは自らの両手を潔彦にそっと差し出して見せる。

「へえ、可愛い神様だな」

「最初は神様というより、座敷童子に似ていたのかも」


 セージュが香りを愉しむように顔を近づけた花は、いつの間にか桜から蓮のような姿に変わっていた。相変わらずセージュの両腕からは甘い香りのする水流がとめどなく落ち続けている。しかし蓮の花が浮いているセージュの掌上は、まるで凪いた池のように静かだ。水が流れ落ちる音も不思議と優しかった。


 ――あの鈴の音のせいか。

 生まれたばかりの龍は自由に動き回り、さざ波のような音を立てている。それが水の音なのか砂の擦れる音なのか、潔彦にはもはやよくわからなかった。ただ、どこからか響いてくる鈴の音がそれに混じると、不思議と調和がとれて聞こえるのだった。それが実に心地良い。

 ――この鈴の音は何だろう?

「スージーの鈴だよ。わかるでしょう」

 当然だと言わんばかりに正寿が答えた。

 ――そうか、やはり須恵子スーの神楽鈴なのか。


「おーい、スー!」

 どこか近くに姪がいるのかと、潔彦は声を張り上げた。が、返事はない。考えてみれば当然のことだ。あの七夕の夜、須恵子は東京で仕事をしていて不在だった。もしかすると、あの天上の船の上からはその姿が見えるかもしれない。


「鼓笛隊が来た。ほら、あっちにオーケストラがいる」

 正寿が見つめる方には、古ぼけた琵琶や三味線を持った集団が見える。大きな円を描くようにぞろぞろと回りながら弦をかき鳴らしているようだ。なかには小さな黒い神輿を担いでいる人も混じっている。最初は控えめに響いていた太鼓の音は、次第に速く、力強さを増してゆく。どんどんと打ち鳴らさるたび地面を伝って足裏から振動が伝わり、体中がびりびりと震えるのは実に愉快だ。


 ――派手な祭囃子だな。月夜に太鼓と神輿と神楽舞か。こりゃぁ良いもんだ。


 潔彦が再び空を見上げると、天上の船はいつの間にか随分と巨大になっていた。いや、先ほどより近づいて来ているのか。

 笑い顔で舞い踊る七福神の中に父と母を見つけ、潔彦は両手をぶんぶんと振る。

「おーい、親父! 母ちゃん!みんないるのかい?」

 声は聞こえなかったが、母の口が動いて「いるよ」と言った気がした。なんだか無性に嬉しくなって、潔彦は父母に向かって一層大きく手を振る。


「潔彦、前に僕が言ったことを覚えている?」

 潔彦が横を見遣ると、セージュの装いはいつの間にか紅の着物から洋装に変わっていた。蓮の花は天女のようにどこかへ飛んで行ってしまったのだろうか、もうその手には持っていない。


「僕は死ぬことも生きることも生物が持てる特権だと思っている。人間なら必ず一度は経験できる権利みたいなもの。けれど死とはどんなものなのか、生きている人間にはどうしてもわからない。だから人類は何千年も天国や地獄を夢見続けて、幽霊のような死人の存在に縋ったのではないかしら。そういうものは少しだけ、死を優しくて近しいものにしてくれる」

「優しいかな。怖い話は怖いほうが良いんじゃないのか」

「うん、普段はね。でも死にゆく人には優しいんだ。此処だってこんなに素敵だ。潔彦の此岸の果ては美しくて賑やかだね。またここへ来られたら良いのに」

「いつだって来たらいいさ。俺の夢だ。好きにしなよ」


 潔彦が笑い声を上げたとき、少し後ろの方から再び誰かが彼を呼んだ。セージュや父母ではない。か細くて今にも消え入りそうだが、よく知った声だ。潔彦の顔からふっと笑みが消える。それを確かめるように、潔彦はゆっくりと背後を振り返った。


 ――ああ、マチか。やっぱりそうか、おまえか。


 しっとりと髪の黒い、麻の小紋を着た妻である。病床に伏せる少し前の姿だ。口元は笑んでいるが目の際が少し潤み光っている。心なしか遠慮がちな様子で、ひとり静かに佇んでいた。


 ――そうだよ。なあ、極楽の話なんていくらでもしてやれば良かったんだ。おまえはそれに縋ったんだろう。あのときの俺にはな、それが本当にわからなかったんだ。

 おそらく余命幾許もないことを悟った頃からだったのだろう。マチは、あるとき急に信心深くなったようだった。極楽や閻魔大王、神仏の話をすることが増え、食べる量はますます減った。

 当時の潔彦は、それが酷く厭だったのだ。

 息子たちもまだ小さいのに、なぜそんな夢物語に耽り、なぜ治療から逃げる。死んだ方が楽だとでも言うのか。そんなわけはない、生きてこその物種だ。どうして病を良くする努力をしないのか。

 その頃は妻が死に惹かれているのが許せなかった。

 なぜもっとしっかりしないのか、病は気からだと𠮟責し、寝ているのを無理に起こして顔を洗わせたりもした。あれは残酷なことだった、可哀想なことをしたのだと、今であればわかる。

 長く生きた潔彦は、いつからか死ぬことをあまり恐れなくなった。しかし、もしも今際の際に妻が迎えに来たら。とてもではないが合わせる顔がない。

 唯一それだけが潔彦の懸念であり、心の奥底にずっしりと沈んだ大きな鉛のような後悔だった。


「俺は全然優しくなかっただろ。最期くらい、楽に逝かせてやれば良かったよな。マチよ、おまえ、いつも苦しそうだったな。ありゃぁ、病気じゃなくて俺のせいだったよな。おまえがどうしたら笑うのかなんて考えもしなくてさ。ごめんな、マチ」


 ――俺はずっと、おまえを苦しめたことへの罰が欲しかったんだ。老いれば老いるほど、おまえにした仕打ちがどんなに残酷だったか思い知らされるようだった。地獄の業火に焼かれてしまいたいと本気で思ったこともある。俺も同じようなもんだよな、あの頃のおまえと。


 ぐうと呻き、崩れ落ちるように地に伏せて、潔彦は声を出せないほど泣きじゃくった。















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