雨流ver.【 ifルート・読み飛ばし可能】


「振袖大火の怪談はね、少し美しすぎるんですよ」

 そう言って、カフェバーの店主は私の隣の椅子に腰をかけた。サロンと呼ぶのだったか、腰に巻いた黒いエプロンで両手を拭くと、その紐を解いて無造作にカウンターテーブルの隅へ置く。


 この店に訪れるのは今日が初めてだった。待ち合わせ場所として友人からこの店の地図を送られたのだが、その友人はというと、東武東上線の事故で到着が遅れている。スマートフォンで検索したところ、踏切から線路内に進入した乗用車に快速電車がぶつかったようだ。死者は出ていなくとも大事故には違いない。復旧作業には時間を要するだろう。

 広々としたテーブル席を一人きりで独占するのが申し訳なく、私は店主に事情を説明してカウンター席へ移動した。店内には2、3組の客がいるが、カウンターには私一人だ。

「あそこの踏切は本当に事故が多いんですよ。けど、振り替え輸送なんてないのでね。お友達も1時間くらいは身動きができないかもしれませんね」

 店主は心配そうに声をかけてくれたが、私は右手をひらひらと振った。

「幸い、電車に閉じ込められてはいないようで。みずほ台から歩いて来ると言ってましたから、すぐに着くと思いますよ」

「ここ、本川越ですが」

 確かに私ならば、十八時に差し掛かろうという時間に十キロ以上ある道のりを歩こうとは思わない。だが、やたらと健脚な彼にとっては良い散歩だろう。六月ともなれば寒いということもない。

 店主には途中でタクシーを拾うと思う、などと適当なことを言い、私は二杯目のホットコーヒーを注文した。

 コーヒーはすぐには出てこなかった。店内にいた客の会計が続いたのだ。丁寧にドリップされたブレンドコーヒーが私の前に差し出されたときには、もう店内に残った客は私一人になっていた。地下だからだろうか、人の声がなくなった店内は妙に静かで、有線から流れてくる古い洋楽がやけに大きく響いて聞こえる。

 店内に自分しかいないという安心感と、初めて訪れる場所特有の居心地の悪さ、その両方が急に強く感じられた。

 忙しなくコーヒーカップを手に取る所作などから、店主は私の気まずさのようなものを感じ取ったのだろう。BGMを変えようか、と申し出てくれた。

 彼がリモコンを使って有線のチャンネルを変えると、たまたま聞き覚えのあるクラシックが流れた。

「これがいいです。安心するから」

「これですか? 葬送行進曲ですよね」

「そうなんですが、聞き慣れると邪魔にならなくて意外と良いんですよ。仕事中もよく聞いています」

「おや、葬儀屋さんじゃないでしょうね」

 そんな雑談をきっかけに、私は店主の打竹うちたけ氏と、少しばかり怪談話をすることになったのだった。


 打竹氏が美しすぎると評した「振袖大火」は古典怪談であり、江戸時代に起きた大火事をモチーフとした話である。

 この話は件の健脚な友人から披露してもらったことがあり、何気なく話題に出してみたのだが、打竹氏にとっても興味深い逸話だという。

 主人公の名前はお花やお梅など語り手によって様々であるらしい。私が友人から聞いた話では「おみつ」だった。打竹氏が主人公の名前にこだわりはないと言うので、我々が語る上でも「おみつ」で統一することにした。


 私が友人から聞いた「振袖大火」は以下のような話である。


 おみつは裕福な商家の生まれだった。十六歳の春、おみつは上野で桜を見た帰りに、寺小姓と思しき美少年に一目惚れをしてしまう。どこの誰かもわからないが、おみつは彼のことが忘れられず、食事ものどを通らないほどであった。

 名前もわからない少年に恋焦がれる日々は続き、おみつは彼が着ていたのと同じ菊の柄の着物をあつらえた。それでも恋の病は一向に治まらず、遂に明暦元年一月十六日、おみつは衰弱死してしまう。

 両親は本妙寺に頼んでおみつを弔い、遺品である菊の着物は寺の坊主によって古着屋へ売られた。

 その着物をたまたま買ったのがおふじという娘である。しかし翌一月、おふじも十六歳という若さで亡くなってしまう。奇しくもおみつと同じ命日であった。

 そうして再び本妙寺に菊柄の着物が戻って来たのだが、住職はこれをまた古着屋に売った。すると翌年、やはりおみつの命日である一月十六日に、古着屋でおみつの着物を買った十六歳の少女が亡くなり、遂に住職はその着物を供養して焼き払うことを決めた。

 明暦三年一月十八日。江戸には強い季節風が吹いていた。昨年から何十日も雨が降らなかったため、ひどく乾いていたという。

 本妙寺で読経をしながらおみつの振袖を焼いているとき、燃えた着物が突風に攫われた。その火の粉が江戸の町に降りかかり、あちこちで火事が起きた。これが「明暦の大火」であるという。十万七千人以上が焼死したとされる未曾有の大火事は、おみつの妄執が招いた悲劇である。そういう話だった。


 しかし、打竹氏はこう指摘する。

「恋患いが大火事になるというのは、なんだか突拍子もないでしょう。同じ年頃の娘を道連れにしてやろう、という点はわからないでもないですが、そもそもおみつは誰かを恨んで死んだわけではありませんからね。私の知っている話は、そうだな……振袖大火異伝とでも言いましょうか」

「つまり、別説ですか?」

 私が前のめりになってそう尋ねると、打竹氏は是とも否とも言わない。ただ眉根に皺を寄せて笑んだ。


「まず私が思うに、おみつはきっと美しい娘だったのでしょうね。裕福な家の子だったから、琴やら踊りやら、芸事も達者だった。彼女はとても魅力的で人気者だったのです。つまり男性ファンが沢山いました。熱烈なファン達はおみつの早すぎる死を悲しみ、惜しみ、やがて彼らの遺恨は菊柄の着物の少年に向けられた。しかし肝心のその人はどこの誰かもわかりません。だから、少年の代わりに件の着物が呪われてしまったんです。彼らの無念とおみつへの執着は、新たな着物の持ち主を不幸にするほど凄まじかった」


 なるほど、確かにそちらの説の方がしっくりくる。現代人の感覚ゆえかもしれない。私の弟は初めて振袖大火の話を聞いたとき「おみつが好きになった寺小姓をとり殺すというストーリーではないのか」とやや不満そうだった。しかし今の話ならば弟も納得して受け入れる気がする。

 打竹氏は続けた。

「おみつへの妄執に憑りつかれ、狂気に駆られた若者がいました。名もわからぬ男です。ただ、おみつを失い、もはや正気でなくなっていた。明暦三年一月、男は本妙寺にいました。そしてようやく見つけたのです。憎き菊柄の着物を着た寺小姓を。しかし、その少年はおみつが上野で見かけた少年とは別人でした。おみつが彼を見かけたときから三年経っていますからね。当人はもう十八歳くらいでしょうか、まあ立派な大人になっているはずです。男が例の寺小姓だと思い込んだその少年は、たまたま十四歳くらいで、たまたま菊柄の着物を着ていて、たまたま本妙寺に来ていただけだったんです。しかし男はおみつを殺した張本人をようやく見つけたと疑いもせず、激昂し、その場で殴りつけて生きたまま焼き殺そうとしました。少年は四谷から遣いで来ただけだと必死に訴えましたが、男は聞く耳も持たず、しかも気候が悪かったですからね。あっという間に火だるまにされてしまいました。着物に火を付けられただけではなかなかすぐには死ねないようでして、少年はごろごろと転がりながら苦しみ悶え、しばらく悲鳴を上げていました。近くにいた誰も彼を助けることができませんでした。そうしている間に彼を焼いた男も自らの身体に火を付け、叫びながら走り回って焼け死にました。この男はおみつの元に行ったつもりだったのかもしれませんね。そんなわけで、火だるまの人間が二人も転がったり走ったりしたものですから、苦しむ二人の身体中からあちこちに火が燃え移り、遂には江戸の町全体が炎に包まれたというわけです」

「それは、なんだか」

 ぞっとしますね、と言おうとしたとき、私のスマートフォンが鳴った。友人からの着信だった。打竹氏は「どうぞ」と言いながら再びサロンを腰に巻き、カウンターの内側へと移動する。私はスマートフォンを手に取った。

「もしもし、雨流うりゅうです。犀樹せいじゅ君、今どこ?」

『こんばんは雨流アメルくん。もう川越まで来ましたから、僕もそろそろそちらに着きそうです』

「速いな歩くの。いつものことだけど」

 彼がみずほ台駅で「歩いて行く」と連絡を寄越してから、まだ1時間も経っていない。

『いまは店内にいますか?』

「うん。コーヒーを二杯頼んでしまったよ。今は他にお客さんもいなくてね。私はゆっくりしているから、きみも気を付けてゆっくり来るといい」

『今すぐその店を出てください』

 突然、電子アナウンスのような奇妙な声音で友人が言う。私が面食らって何も言えずにいると、彼は平時の穏やかな声音で説明を加えた。

『アメルくん、店が違います。僕が指定したのは紅茶専門店だからコーヒーはメニューにないし、先にダリマがバイクで行っているので、もう到着しているはずです。ダリマがいないならその店は違う。合流できませんから、外まで出てきてください』

「あぁ、そういうことか」

 彼のことだから、こんな話をしている間にもどんどん近くへ歩いて来ているだろう。すれ違いになっても困るので、私は慌てて店主に会計を頼んだ。

「今日は面白い話をありがとうございました」

 店の扉に手を掛けながら、軽く頭を下げると、打竹氏はにこりと微笑む。

「実はもう少しだけ、ちょっとしたオチがあったんですけどね。それはまた今度。ゆっくり遊びに来てください」



  * * *



 照明のない暗い階段を駆け上がって地上へ出ると、まるで見計らったように犀樹君と出くわした。雑居ビルがいくつか立ち並んでいる路地は明るい照明に彩られていて、少し眩しいほどだ。

 丁寧な仕草で私に挨拶をする犀樹君は、まさしくいつも通りの彼である。長髪の上に黒のカンカン帽を載せ、夏物だという濃紅色バーガンディのカジュアルスーツを身に纏っていた。

「地下に?」

「うん。もしかしてフロアを間違たかな?」

「そのようですね。ほら」

 犀樹君の指さすほうを見上げると、窓越しに黒髪の女性からキスを投げられた。逆光で顔が見えにくいが、おそらくダリマさんだ。

「私はあれにどう返事をしたらいいのかな」

「キスを返したら?」

「きみの前できみの元奥さんに投げキスするのはちょっと恥ずかしい」

「そう? そういうものかしら」

 まあいいや、と犀樹君はスマートフォンに視線を落とす。ダリマさんがいるのは二階のようだ。二階の外看板を確認すると「ティーサロン・ダイアナ川越店」とある。なるほど、川越店があることは知らなかったが、犀樹君のよく行く店としてダイアナという店名は聞いたことがあった。

「そうか。私は地上二階と地下二階を間違えたわけだな」

 犀樹君はスマートフォンを見つめたまま、どこか上の空でうん、と答える。

「アメルくんは、今まで何という名前の店に?」

「そういえば名前なんて気にしていなかった。待っていればきみが来ると思ってたからね。メニュー表も何も見なかったよ」

 言いながら、私はふと妙なことに気づいた。

 本当に、店の中のことを覚えていないのである。先ほど出てきた扉がどんな質感だったか、椅子はハイチェアだったろうか。内装の記憶もすべて曖昧だ。

 店主の打竹氏が黒いサロンを巻いていたことは覚えている。だが彼の目鼻立ちや髪形、上半身にどんな服を着ていたかなど、サロン以外は不自然なほど記憶にない。居心地悪さから、ろくに見てもいなかったのだろうか。

 そうだとしても、コーヒーカップの色さえ覚えていないのは一体どういうわけだ。

「このビルは、地下に店は入っていないと思ったんですが」

 犀樹君が独り言のようにそう呟き、私は厭な汗がこめかみをつたうのを感じた。

 ややあって、好奇心の塊のような犀樹君が無言のまま階段を降りていった。予想はしていたが。

 取り残されるのも心細いので、私は間髪をおかずに彼の後を追った。

 地下一階へ至る階段は灯りがなく暗い。その点は先ほどと同じである。しかし階段を降りきった先には、地下一階と呼ぶほどのスペースはなかった。おそらくボイラー室のようなものだと思うが、施錠された金属製のドアが一枚あるばかりで、地下二階へ続く階段などありもしなかったのである。


「――怪談バーの怪談ナイトへ行こうという道すがら怪異に遭うなんて、一種の素晴らしい才能ですね。羨ましいな」


 店内では写真を撮らなかったが、ならばレシートや釣銭はないのかと犀樹君にせがまれ、私は恐る恐る財布を取り出し広げてみた。すると、札入れ部分に身に覚えのないレシート、というか紙切れが入っていた。しかしそれは日焼けしたようにひどく黄ばみ、印字も鮮明ではない。とても先ほど受け取ったばかりとは思えない様相だ。

 幾つかの数字の他、辛うじて読める文字列は「mum」のみである。が、犀樹君は「mamママ」が掠れているのかもしれないと指摘した。言われてみればそのようにも見える。それほどにが激しかったのだ。

 犀樹君でもダリマさんでもいい。私はあるはずのない地下のカフェバーで体験したことを洗いざらい誰かに話したい気分だった。レシートを発見した時点で、私の顔色は既に蒼白だったと思う。


 そんな私の様子に気づいているのかいないのか、犀樹君が黄ばんだレシートを両手で持ちながらぽつりと独りごちた。

「菊のことを、英語でmumと言うことがあるけれど」


 その日以来、私は菊の文様が少々苦手である。




 fin.


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