【番外編】異伝・振袖大火

北斗ver.【正規&推奨ルート】


「振袖大火の怪談はね、少し美しすぎるんですよ」

 そう言って、カフェバーの店主は私の隣の椅子に腰をかけた。サロンと呼ぶのだったか、腰に巻いた黒いエプロンで両手を拭くと、その紐を解いて無造作にカウンターテーブルの隅へ、ばさりと置いた。


 春先のとある夕刻、私は雇い主である平犀樹とともに表参道へ赴く予定だった。平時は彼のことを若旦那だの若社長だのと呼んでいるが、私のボスは彼一人であり、旦那様や大旦那様という人はいない。

 私は平邸の一室を間借りさせて貰っている身だが、日中は互いに外出する用事があったので新宿で落ち合うことになった。待ち合わせ場所は若旦那から地図付きのメールで指定されたカフェである。しかしその日の我々の予定は大幅にずれた。

 踏切事故であちこちの電車が遅延したのだ。若旦那も動かない車両の中にしばらく閉じ込められたらしい。

 私は連れが遅れる旨を店主に伝え、広々としたテーブル席からカウンター席へ移動して彼を待った。店内には確か二、三組の客がいたと思う。

 二杯目のカフェオレを注文したとき、店内にいた客の会計が続き、なかなかドリンクが出てこなかった。スチーマーでふんわりと温められたカフェオレが私の前に差し出されたときには、もう客は私一人である。地下だからだろうか、人の話し声がしなくなった店内はどことなく重苦しい雰囲気で、あまり居心地が良くなかった。

 店主の男性はそれを感じ取ってか、BGMを変えようかと私に申し出てくれた。

 店主が有線のチャンネルを数回変えたとき、たまたま聞き覚えのあるピアノソナタが流れたので私は彼に声をかけた。

「ああ、これがいいです。安心するので」

「これですか? 有名な『葬送行進曲』ですよね。ショパンの」

「聞き慣れると邪魔にならなくて意外と良いんですよ。うちの社長は自室でずっとこの曲をリピートしてるようなんですが、いつの間にか私も馴染んでしまって」

「おや。葬儀屋さんでもしていらっしゃるのかな。まさかエクソシストじゃないでしょうね」

 そんな雑談をきっかけに、私は店主の打竹うちたけ氏と、少しばかり怪談話をすることになったのだった。


 打竹氏が美しすぎると評した「振袖大火」は古典怪談であり、江戸時代に起きた大火事をモチーフとした話である。

 私は幽霊話が苦手な性質たちだが、若旦那は真逆だ。彼は落語家のようにすらすらと怪談を語る。あまりにもそれが巧いので、怖がりの私もつい耳を傾けてしまう程だ。「振袖大火」も先の一月に彼から聞いた話だった。怖いというほど怖い話でもないので私の方から話題に上げたのだが、打竹氏はそれを「最も興味深い怪談のひとつ」だと言った。


 主人公の少女の名前はお花やお梅など様々な説があるが、私が若旦那から聞いた話では「おみつ」だった。少女の名前にはこだわらないと打竹氏が言うので、我々が語る上でも「おみつ」で統一することにした。

 私が若旦那から聞いた「振袖大火」は以下のような話である。


 おみつは裕福な商家の生まれだった。十六歳の春、おみつは上野で桜を見た帰りに、寺小姓と思しき美少年に一目惚れをしてしまう。どこの誰かもわからないが、おみつは彼のことが忘れられず、食事ものどを通らないほどであった。

 名前もわからない少年に恋焦がれる日々は続き、おみつは彼が着ていたのと同じ菊の柄の着物をあつらえた。それでも恋の病は一向に治まらず、遂に明暦元年一月十六日、おみつは衰弱死してしまう。


 両親は本妙寺でおみつを弔い、遺品である菊の着物は寺の坊主によって古着屋へ売られた。

 その着物をたまたま買ったのがおふじという娘である。しかし翌一月、おふじも十六歳という若さで亡くなってしまう。奇しくもおみつと同じ命日であった。


 そうして再び本妙寺に菊柄の着物が戻って来たのだが、住職はこれをまた古着屋に売った。すると翌年、やはりおみつの命日である一月十六日に、古着屋でおみつの着物を買った十六歳の少女が亡くなってしまう。遂に住職はその着物を供養のため焼き払うことを決めた。


 明暦三年一月十八日。江戸には強い季節風が吹いていた。昨年から何十日も雨が降らなかったため、ひどく乾いていたという。

 本妙寺境内で読経をしながらおみつの着物を焼いているとき、燃えた着物が突風に攫われた。その火の粉が江戸の町に降りかかり、あちこちで火事が起きた。これが「振袖大火」の異名を持つ未曽有の災害「明暦の大火」であるという。十万七千人以上が犠牲になったとされるこの大火事は、おみつの妄執が招いた悲劇である。そういう話だった。


 しかし、打竹氏はこう指摘した。

「恋患いが大火事になるというのは、なんだか突拍子もないでしょう。おみつが同じ年頃の娘を道連れにしてやろう、というだけの話ならわからないでもないですがね。そもそもおみつは誰かを恨んで死んだわけではない。少女の報われない恋と死の話と、江戸の町を焼き尽くすほどの大火事では、とてもじゃないが因果の大きさが釣り合いません。私の知っている話は、そうだな……振袖大火異伝とでも言いましょうか」

「つまり、別説ですか?」

 私が思わず前のめりになってそう尋ねると、打竹氏は是とも否とも言わず、ただ眉根に皺を寄せて勿体ぶった笑みを浮かべた。


「おみつは美しい娘だったと言われています。裕福な家の娘ですから、琴やら踊りやら、芸事も達者で、とても魅力的な人気者だったに違いない。そんなおみつには男性ファンも沢山いました。熱烈なファン達はおみつの早すぎる死を悲しみ、惜しみ、やがて彼らの遺恨は菊柄の着物の少年に向けられた。しかし肝心のその人はどこの誰かもわかりません。だから憎しみの矛先は、おみつが愛した菊柄の着物へ向かった。こうして少年の代わりに件の着物が呪われてしまったんです。彼らの憎悪と悲哀、そしておみつへの執着は、新たな着物の持ち主を不幸にするほど凄まじかった」


 なるほど、確かにそちらの説の方がしっくりくる。と、私は妙に得心した。もっとも、しっくり来るという感覚は、現代人特有のものかもしれない。

 若旦那には「怖がりのくせに生意気な」と思われそうで黙っていたが、初めて振袖大火の話を聞いたときも「おみつが好きになった寺小姓をとり殺すというストーリーではないのか」と、私は少し肩透かしをくらったように感じたのだ。


 打竹氏は更に続けた。

「おみつへの妄執に憑りつかれ、狂気に駆られた若者がいました。名もわからぬ男です。ただ、おみつを失い、もはや正気でなくなっていた。明暦三年一月、おみつの命日を過ぎていましたが、男はたまたまその日、本妙寺にいました。

 そしてようやく見つけたのです。憎き菊柄の着物を着た寺小姓を。しかし、その少年はおみつが上野で見かけた少年とは別人でした。おみつが彼を見かけたときから三年経っていますからね。当人の方はもう十八歳くらいでしょうか、まあ立派な大人になっているはずです。男が例の寺小姓だと思い込んだその少年は、たまたま十四歳くらいで、たまたま菊柄の着物を着ていて、たまたま本妙寺に来ていただけだったんです。

 しかし男はおみつを殺した張本人をようやく見つけたと疑いもせず、激昂し、その場で殴りつけて生きたまま焼き殺そうとしました。怒鳴りつけられながら少年は、手前は上野の者ではない、人違いだと必死に訴えましたが、男は聞く耳を持たない。あっという間に少年は火だるまにされてしまいました。

 着物に火を付けられただけではなかなかすぐには死ねないようでして、少年はごろごろと転がりながら苦しみ悶え、しばらく悲鳴を上げていました。何の罪もない少年が、です。男に鯨の脂でも塗られたのか、酷く乾いた気候のせいか、あるいはそれも怨恨が為すものだったのか。理由はわかりませんが、少年を焼く炎はなぜか一向に弱まらず、近くにいた誰も彼を助けることができませんでした。

 そうしている間に彼を焼いた男も自らの身体に火を付け、叫びながら走り回って焼け死にました。この男はおみつの元に行ったつもりだったのかもしれませんね。

 そんなわけで、火だるまの人間が二人も転がったり走ったりしたものですから、苦しむ二人の身体中からあちこちに火が燃え移り、遂には江戸の町全体が炎に包まれたというわけです」


 そこまで話し終えると、打竹氏は少し口角を上げた。

「それは、かなり」


 ぞっとしますね、と言おうとしたとき、私のスマートフォンが鳴った。見ると、若旦那からの着信だった。

「はい、伊勢谷です。若、今どちらに?」

『伊勢谷くん、随分待たせてしまってごめん。いま東口を出ました。もう野沢さんとは落ち合いましたか』

「野沢さんですか? いえ、一人ですよ。ずっと若に言われた店にいますけど」

『え、そウナノ。そんナハズナ……レ』

 突然、驚くほど無機質で平坦な声に変わった。たまたま通信状態が悪く途切れたのだろうが、私が面食らって何も言えずにいると、普段通りの穏やかな声音で、若旦那は説明を加えた。


『伊勢谷くん、店が違います。今日は野沢さんも来ることになったんですよ。もう到着していると連絡があったけれど、店を間違えているのは多分きみのほう。合流できませんから、一度外へ出てきてください』

「あぁ、なるほど。わかりました」

 健脚な彼のことだから、こんな話をしている間にもどんどん近くへ歩いて来ているだろう、と、私はすぐに店主へ会計を頼んだ。


「今日は面白い話をありがとうございました」

 店の扉に手を掛けながら、軽く頭を下げると、打竹氏は愛想良く微笑んだ。

「実はもう少しだけ、ちょっとしたオチがあったんですけどね。それはまた今度。ゆっくり遊びに来てください」



  * * *



 照明のない暗い階段を駆け上がって地上へ出ると、まるで見計らったように若旦那と出くわした。雑居ビルがいくつか立ち並んでいる路地は明るい照明に彩られていて、道路は少し眩しいほどだった。春は意外と日が長いから、十八時を回ってもぼんやりと明るい。

 優雅な仕草で私に挨拶をする若旦那は、まさしくいつも通りの彼だった。長髪の上に黒のカンカン帽を載せ、夏物だという濃紅色バーガンディのカジュアルスーツを身に纏っていた。


「伊勢谷くん。きみ、今まで地下に?」

「はい。もしかして俺、フロアを間違えましたか」

「そうみたい。ほら」

 若旦那の指さすほうを見上げると、窓越しに髪の短い女性に手を振られた。逆光で顔は見え辛かったが確かに野沢さんだった。

「レストランに電車遅延の連絡をしたら約束の時間を延ばして貰えたので、仕事終わりに来てくれたんです」

「ダリマさんならともかく、良いんですか? パーティーのゲストを呼んじゃって」


 その日青山へ向かうのは、若旦那が主催するパーティーの打ち合わせのためだった。若旦那だけは「年度末の慰労会」と称していたが、彼の元妻であるダリマさんが「実質、あたしとダーリンの離婚記念パーティー」と言っていたため、私も野沢さんもそのように認識している。

「うん。よく考えたら、僕ときみだけではメニューの試食が捗らないから。ダリマは少々悪食ですしね」

「いや、俺だって食べられないものの方が少ないくらいですけど。でもまあ、若の胃袋は確かに戦力外ですから、もう一人いてくれた方が心強いですね」

 私が上を向いて野沢さんに手を振っている間、若旦那は何やらスマートフォンを操作していた。よくよく建物を観察してみると、野沢さんがいるのはどうやら二階の店らしかった。

「あ、そうか。地図は読み間違えていないと思ったんですが、俺は地上二階と地下二階を間違えたんですね」

 若旦那はスマートフォンを見つめたまま、どこか上の空でうん、と答える。

「きみ、今まで何という名前の店に?」

「えぇと。そういえば名前なんて気にも留めませんでした。待っていれば若が来ると思っていたので、メニュー表しか見てなかったな……」


 言いながら、私はふと妙なことに気づいた。


 本当に、不可解なほど店の中のことを覚えていないのである。先ほど出てきた扉がどんな質感だったか、椅子はハイチェアだったろうか。コーヒーカップの色さえ思い出せず、内装の記憶もすべてが曖昧だった。

 唯一、店主の打竹氏の名前と、彼が黒く長いサロンを巻いていたことは覚えている。だが彼の目鼻立ちや髪形、上半身にどんな服を着ていたかなど、サロン以外のことはすべて忘れていた。居心地悪さから、ろくに見てもいなかったのだろうか。

「このビルは、地下に店は入っていないと思っていたのだけど」

 若旦那が独り言のようにそう呟く。私は厭な汗がこめかみをつたうのを感じた。

 しかし好奇心の塊のような雇用主である。心なしか瞳を輝かせながら私の脇をすいと抜け、躊躇なく地下へ向かう階段へ向かった。それ行動自体は予想の範疇だったが、いざ独り取り残されてみると、無性に怖くて堪らない。後から思えば上に昇って野沢さんと合流する手もあったのだが、結局私はいつもそうしているように、若旦那の背中を追って駆け出した。


 地下一階へ至る階段は灯りがなく、とても暗かった。その点は先程昇ってきたときと同じだ。しかし階段を降りきった先には、地下一階と呼ぶほどのスペースはなかった。おそらくボイラー室のようなものだと思うが、施術された金属製のドアが一枚あるばかりで、地下二階へ続く階段などありもしなかったのである。

「幽玄の世界で飲んだお茶は美味しかった? きみってときどき、本当に羨ましい」

 辛うじて舌打ちはされなかったものの、若旦那は酷く恨めしそうな表情で私にそう言った。


 野沢さんと落ち合った後も、私はまだどこか落ち着かない気分で恐ろしかったのだが、二人からは容赦ない質問責めに遭った。店内では写真も動画も撮らなかったが「ならばレシートや釣銭はないのか」としつこくせがまれて、私は恐る恐る財布を取り出して広げた。

 すると、札入れ部分から身に覚えのない紙切れ、というかレシートのようなものが出てきた。だがそれは道端に何年も捨て置かれたように黄ばんでおり、印字も鮮明ではない。どこかでたまたまゴミが混じってしまったようにしか見えず、とても先ほど受け取ったとは信じがたい様相だった。

 幾つかの数字の他、辛うじて読める文字列は「個室ダイ二ング」と「海鮮コースご予約」などで、先ほどまで居た店とはあまり合致しない。


 若旦那はしばしの間、何事か深く思案しながらスマートフォンを弄っていた。


「ねえ、伊勢谷くん。試しに事故物件サイトを見てみたのだけれど……近年になって建て替えたのかな。ビルの名前と住所が少し合っていない。でも、この付近にあった居酒屋で火災があったことは判りました。ほら。『従業員男性二人死亡』ですって」


 つい先日、そんなことがあった。

 あれ以来私は、雑居ビルの地下フロアが少し怖い。

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